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第五部『明治が終わる日、君を想う。』  作者: 涼里
明治が終わる日、君を想う。
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第二十九話 あなたのいない十一年

明治三十九年、八月。


久世千景が生まれた家には、まだ彼の草履が残されていた。


会津の夏は、東京よりも空が近い。青々とした山々を背にした古い家の玄関で、榊原清継は小さな草履を見つめていた。


「十八の頃に履いていたものです」


久世綾乃は、息子とよく似た琥珀色の瞳を細めた。


「捨てようと思ったこともありました。でも、あの子が帰ってきたとき、履くものがなかったら困るでしょう」


清継は答えられなかった。


十一年前、千景は帰らなかった。

それでも、この家には今なお、帰りを待つ人の暮らしが残っている。


*


仏間には、若い千景の写真が飾られていた。

軍服姿の彼は、少しだけ得意げに笑っている。


「榊原様のことは、よく手紙に書いておりました」


綾乃が茶を置きながら言った。


「最初は、怖い上官がいる、と。何をしても叱られるのだそうです」


「……事実です」


「けれど、そのうち変わりました」


綾乃は懐かしそうに笑った。


「『あの人は、誰より厳しいのに、誰より人の痛みに弱い』と。『俺が間違えたら、本気で怒ってくれる人なんです』と」


清継は膝の上で拳を握った。

千景は、そんなふうに自分を見ていたのか。


「最後の手紙には、もっと違うことが書かれていました」


綾乃は古い文箱を取り出した。


「息子は、あなたを愛していたのでしょう」


清継は目を伏せた。


「……はい」


十一年、誰にも明かせなかった言葉が、不思議なほど自然にこぼれた。


「私も、千景を愛していました」


綾乃は静かに頷いた。


「だからこそ、あの子があなたにしたことを、母親だからといって正しいとは思えません」


*


文箱には、三通の手紙があった。


一通目は、明治二十八年二月十七日付。


『清継さん。


俺は今、とても怖いです。


傷が痛むからじゃありません。

このまま帰れなくなるかもしれないことが、怖い。


本当は、あなたのところへ帰って、いつものように叱られたい。


あなたが眉間に皺を寄せるたび、俺が笑って、そのうち呆れた顔で抱き寄せてくれる。


そんな明日が、俺は欲しかった。


でも、七人を見捨てて帰ったら、きっとあなたは俺を責めないでしょう。


それが、いちばん怖いんです。


あなたは俺を愛してくれる。

だから俺は、あなたに甘えて、間違ったことまで正しいと思ってしまうかもしれない。』


清継の喉が詰まった。


千景は、清継の愛を疑っていなかった。


むしろ、その愛が自分を許してしまうことを恐れていた。


二通目は、日付のない手紙だった。


『俺が死んだことになれば、あなたは俺を探せなくなる。


黒田は、あなたを不正に関わったことにできると言いました。


俺があなたに知らせれば、あなたは必ず来るでしょう。

俺を助けるために、軍人として築いてきたものも、家族も、全部置いて。


俺は、それが嫌なんです。

あなたが俺を選んでくれることが嬉しいからこそ、嫌なんです。


俺は、あなたにそんな犠牲を払わせたくない。

でも、これはきっと、俺の勝手な願いです。


あなたが何を選ぶか、俺には決める権利なんてないのに。』


清継は手紙を握り締めた。


千景は、わかっていた。


自分の決断が清継を傷つけることも、清継から選ぶ権利を奪うことも。


それでも、怖かったのだ。


愛する人が、自分のためにすべてを失うことが。


「……馬鹿者」


声が震えた。


「俺が何を捨てるかは、俺が決めることだろう」


*


三通目は、ひどく短かった。


筆跡が乱れ、ところどころに滲みがある。


『清継さん。


俺は、あなたと生きたかった。

戦争が終わったら、二人で春の道を歩きたかった。


あなたが軍服を脱いで、俺がくだらないことを言って、いつものように叱られて。


そんな何でもない日を、ずっと続けたかった。


でも、もう帰れそうにありません。

どうか、俺を許さないでください。


あなたに許されたら、俺はきっと、最後まで自分を正しいと思ってしまうから。


俺は、あなたの未来を守ったつもりで、あなたから未来を選ぶ権利を奪いました。


それでも、愛していました。

今も、愛しています。』


清継は、最後の一行から目を離せなかった。


十一年前の冬。


千景は、清継の腕の中で笑っていた。


『清継さん。俺が帰ったら、何がしたいですか』


『まず説教だ』


『ええ、そこからですか』


『その後は……お前の好きにしろ』


『じゃあ、一緒に歩いてください。春になったら』


清継は、あの夜の体温を覚えていた。

首筋に触れた唇も、眠りに落ちる寸前まで離さなかった指も。


千景は、死を望んでなどいなかった。


ただ、誰かを見捨てて生きることも、清継にすべてを捨てさせることも、選べなかった。


その不器用さを、清継は愛した。

そして、今は憎んでいた。


*


「……あの子は、最期まであなたのお名前を呼んでいたそうです」


綾乃が静かに告げた。


「看取った方のお話では、熱に浮かされながら、何度も『帰りたい』と」


清継は目を閉じた。


「……そうですか」


「榊原様。どうか、息子のために生きてくださらなくてもよいのです」


綾乃の声が、わずかに震えた。


「あなたご自身の人生を、生きてください」


清継は深く頭を下げた。


それ以上、何も言えなかった。


*


帰りの汽車で、清継は窓の外を見つめていた。


夏の田畑が、夕陽に染まって流れていく。


千景は、清継の未来を守ろうとした。


けれど、千景のいない未来を生きる苦しさまでは、想像しきれなかった。


いや、想像していたからこそ、最後の手紙を届けなかったのかもしれない。


清継は胸元から三通目を取り出した。


『どうか、俺を許さないでください。』


「……許さんよ、千景」


小さく呟いた。


「お前が勝手に決めたことも、俺を置いていったことも」


けれど、その言葉のあとに続くものは、怒りだけではなかった。


「……それでも、愛している」


汽車は、夕暮れの中を走り続けた。


千景のいない十一年。

そして、千景のいない明日。


清継は初めて、その二つが同じものではないと気づき始めていた。


――第五部・第五話・完。


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