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第五部『明治が終わる日、君を想う。』  作者: 涼里
明治が終わる日、君を想う。
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第二十八話 死者の最後の嘘

明治三十九年、五月。


死んだ男の署名が、十一年の沈黙を破ろうとしていた。


『ただし、榊原清継中尉には、一切の責任を負わせないこと。』


榊原清継は、その一文を何度も読み返した。


久世千景の筆跡だった。少し右上がりで、最後の一画だけが妙に丁寧な、見間違えようのない字。

かつて、その指が自分の背中に触れた感触まで覚えているのに、今は紙の上に残された文字にしか触れられない。


「……勝手な男だ」


愛しているから守りたい。

守りたいから、何も知らせない。


千景の優しさは、いつも肝心なところで残酷だった。


*


《花霞》の奥座敷には、篠塚宗一郎、藤堂朔、有馬透が集まっていた。


透が広げたのは、十一年前の輸送帳簿の写しだった。


「黒田が隠したかったのは、単なる物資の横流しではありません」


帳簿には、戦地へ送られたはずの医薬品と食糧が、途中で別の荷として処理された痕跡が残っていた。


「不足を報告すれば不正が露見する。だから帳簿の数字を合わせるために、負傷兵の移送そのものをなかったことにしようとした」


「……七人か」


清継が呟くと、朔が頷いた。


「千景は、そいつらを見捨てなかった。命令違反になるとわかっていてもです」


朔は膝の上で拳を握った。


「あいつは俺に言ったんですよ。『俺が黙って帰ったら、清継さんは褒めてくれるでしょうか』って」


清継は顔を上げた。


「……何と答えた」


「『知らねえよ』と」


朔は苦く笑った。


「そしたら、あいつも笑って。『ですよね。あの人なら、まず俺を叱って、それから七人が無事か確かめると思います』って」


清継の胸が締めつけられた。


まったく、そのとおりだった。

千景は清継を、軍服の内側まで知っていた。

命令を重んじながら、見捨てられた命を前にすれば、最後には手を差し伸べる男だと。


「……それで、あいつは何を選んだ」


「七人を生かすことです」


朔の声が震えた。


「それから、あんたのところへ帰ることも、諦めていなかった」


*


宗一郎が、古い診療記録を取り出した。


「二月十六日。私は彼の傷を診ました。左脇腹の裂傷は深く、熱も高かった。後方へ移せば助かる可能性はあったんです」


「……可能性は」


「ありました」


宗一郎は目を伏せた。


「ですが、彼は移送を拒みました。七人の証言と帳簿を、安全な場所へ届けるまでは動けないと」


清継は唇を噛んだ。


「……命より大切だったのか」


「いいえ」


宗一郎は静かに首を振った。


「彼は死にたかったわけではありません。むしろ、ひどく生きたがっていました」


その言葉に、清継の呼吸が止まる。


「熱に浮かされながら、何度も同じことを言っていたんです。『帰ったら、怒られるな』と。けれど、そのたびに笑っていた」


宗一郎は、かすかに声を詰まらせた。


「『怒られてもいいんです。あの人の隣に帰れるなら』と」


清継は俯いた。


千景は、自分との未来を捨てたのではない。

最後まで、そこへ帰ろうとしていた。


*


「問題は、その後です」


透が別の書類を差し出した。


「黒田は久世少尉に取引を持ちかけた。戦死扱いを受け入れれば、七人の移送を黙認し、榊原中尉への嫌疑も取り下げる、と」


「……嫌疑?」


「千景の行動を、あなたの指示だったことにできたんです。上官の命令による不正輸送という形にすれば、責任を押しつけられる」


清継の背筋に冷たいものが走った。


千景は、自分の命と引き換えに清継を守ったのではない。

七人の命と証拠を守るため、そして清継を不正に巻き込ませないために、姿を消す道を選んだ。


それでも、ひとつだけ理解できなかった。


「……なぜ俺に知らせなかった」


誰にともなく問う。


透は答えなかった。

代わりに朔が、低く言った。


「知らせたら、あんたは来たでしょう」


清継は黙った。


「軍を敵に回してでも、あいつを迎えに来た。千景は、それがわかってたんです」


「……当然だ」


清継の声が掠れた。


「俺は、あいつの恋人だった」


朔は目を伏せる。


「だから、怖かったんでしょうよ」


千景は清継の愛を疑っていたのではない。

信じすぎていた。

清継が必ず自分を選ぶと知っていたからこそ、その選択をさせることが怖かったのだ。


*


帰り際、八重が清継を呼び止めた。


「榊原様。会津から、お便りが届いております」


差出人は、久世綾乃。

千景の母だった。


『榊原様。


長いあいだ、お知らせできずにいたことがございます。


千景は、あの年の二月の終わりに亡くなりました。


息子は最後まで、あなたのお名前を呼んでいたそうです。

そして、私に幾通もの手紙を託しました。


けれど、あの子は申しました。


「清継さんには、もう俺を待っていてほしくない」と。


私は母として、その願いを守りました。

けれど今は、それが正しかったのかわかりません。


どうか、一度、会津へいらしてください。』


清継は手紙を握り締めた。


十一年前、千景は確かに死んでいた。


だが、その最期は、清継が信じてきた戦死とは違っていた。


千景は、帰りたかった。

生きたかった。

清継と、ただ普通の明日を迎えたかった。


それでも、清継を守るために、自分の居場所を消した。


「……千景」


清継は震える声で名を呼んだ。


「お前は、俺を信じていたくせに……なぜ、俺に何も選ばせなかった」


答えはない。

ただ、十一年前の手紙が胸元でかすかに擦れた。


『どうか、俺を探さないでください。』


それは拒絶ではなかった。


助けを求める声を、必死に押し殺した、最後の嘘だった。


――第五部・第四話・完。


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