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第五部『明治が終わる日、君を想う。』  作者: 涼里
明治が終わる日、君を想う。
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第二十七話 君は、俺を裏切ったのか

明治三十九年、四月。


十一年前に死んだ男の署名が、榊原清継を生きた人間のもとへ導いた。


黒田宗吾。

かつて陸軍の情報関係の任務に携わり、現在は退役して東京郊外で暮らしている男だった。


屋敷の庭では、遅咲きの桜が散っていた。清継は軍服の襟を正し、案内された客間へ入る。


「久世千景の件で来た」


挨拶を省くと、黒田は薄く笑った。


「十一年も前の戦死者を、今さら?」


「戦死した翌日に、本人が負傷兵の移送記録へ署名している」


清継が書類を置くと、黒田の目がわずかに細くなった。


「……よく見つけたものだ」


否定しない。

その事実だけで、清継の胸に冷たいものが落ちた。


「千景は、何をした」


「命令に背いた。七名の負傷兵を連れ、指定された輸送経路を外れたのだ」


「負傷兵を救うためだろう」


「軍隊において、善意は命令違反の免罪符にはならん」


清継は拳を握った。

かつての自分なら、その言葉に頷いたかもしれない。


だが、千景は違った。

命令を守るために人を見捨てるくらいなら、叱責も処罰も引き受ける男だった。


「……その後は」


黒田は机の引き出しから、古びた一枚の書面を取り出した。


明治二十八年二月十七日付。

そこには、千景が自ら戦死扱いとなることを承諾した旨が記されていた。


末尾には、見覚えのある署名。

久世千景。

清継は息を止めた。


「本人が望んだのだ」


黒田は静かに言った。


「彼は、軍籍から消えることを選んだ」


*


「……なぜだ」


清継の声は、驚くほど低かった。


「俺に、何も言わずに?」


黒田は肩をすくめる。


「君の名が出れば、君の軍歴にも傷がついた。久世少尉は、それを理解していたのだろう」


清継は書面を見つめた。


千景が自分の軍歴を守ろうとした。

その可能性は、これまでも考えていた。

だが、こんな形で突きつけられるとは思わなかった。


「……あいつは、俺を守るために死んだことにしたのか」


「愛情とは、ときに愚かなものだな」


黒田が笑った瞬間、清継は立ち上がった。


「その口で、千景の愛を語るな」


室内の空気が凍りつく。


清継は軍人だった。

怒りを表に出すことを、何より嫌ってきた。


それでも、千景の名前をこの男の口から聞くことだけは耐えられなかった。


「……あいつが何を守ろうとしたのか、貴様にはわからん」


黒田は笑みを消した。


「ならば、君にはわかるのか」


その問いに、清継は答えられなかった。


*


屋敷を出ると、春の風が頬を撫でた。

清継は門の外で足を止め、古い記憶を辿った。


出征前夜。

千景は、清継の腕の中で眠れずにいた。


薄い寝間着の襟元から覗く鎖骨に、清継が口づけると、千景は小さく笑った。


『……清継さん。俺がいなくなったら、どうします?』


『くだらんことを言うな』


『怒らないでくださいよ。少し、聞いてみたかっただけです』


清継は千景を抱き寄せた。


『帰ってこい。それ以外は認めん』


千景は、しばらく黙っていた。

やがて、清継の胸元に顔を埋める。


『……俺も、帰りたいです』


その声は、あまりにも小さかった。


『あなたのいるところへ、帰りたい』


清継は今になって思う。


あれは別れの覚悟ではなかった。

千景は、本当に帰りたかったのだ。

ただ、自分が守りたいものを見捨ててまで帰ることが、できなかった。


そして、清継に選ばせることさえ恐れた。

自分と軍人としての人生、そのどちらかを。


千景は、清継が自分を選んでしまうことを知っていたのかもしれない。


「……馬鹿者」


清継は唇を噛んだ。


「俺の人生を、お前が勝手に決めるな」


*


夕刻、《花霞》へ戻ると、有馬透が待っていた。


「黒田に会われたそうですね」


「耳が早いな」


「記者ですから」


透は笑ったが、清継の顔を見ると表情を改めた。


「何を見せられました?」


「千景が、自ら戦死扱いを承諾した書面だ」


透は眉を寄せた。


「……原本ですか」


「そうだ」


「全文を?」


清継は顔を上げた。


「何が言いたい」


「黒田という男は、都合の悪い文章を隠すのが上手い。署名が本物でも、見せられた部分がすべてとは限りません」


透は懐から一枚の写しを取り出した。


「軍の古い書類には、別紙が付くことがあります。命令の条件や、責任の所在を定めたものです」


清継の胸が騒いだ。


「……別紙?」


「ええ。久世少尉が、何を条件にその書面へ署名したのか。そこを確かめる必要があります」


清継は目を閉じた。

千景の決断には、まだ語られていない理由がある。


だが、理由がわかったところで、許せるとは限らなかった。


*


その夜、清継は書斎で千景の手紙を開いた。


『清継さん。どうか、俺を探さないでください。』


十一年前、何度も読み返した言葉。


あのときは、拒絶されたのだと思った。

けれど今は、別の声が聞こえる。


――探してほしい。

――本当は、迎えに来てほしい。

――けれど、あなたが来れば、きっと俺を選んでしまう。


千景は、そう恐れたのではないか。

清継は手紙を胸に押し当てた。


愛していた。

誰よりも。


それでも千景は、清継の人生から自分を消すことで、清継を守ろうとした。


その優しさは、あまりにも残酷だった。


「……千景」


声が震えた。


「俺は、お前を選びたかったんだ」


誰もいない部屋で、清継は初めて、怒りを隠さずに泣いた。


翌朝、透から短い知らせが届いた。

黒田の書面には、確かに別紙が存在するという。

そこには、千景自身が書き加えた条件が記されていた。


『ただし、榊原清継中尉には、一切の責任を負わせないこと。』


清継は、その一文を長いあいだ見つめていた。


千景は、最後まで自分を守ろうとしていた。

そして、そのために、自分がどれほど清継を傷つけるかさえ、わかっていたのだろう。


――第五部・第三話・完。


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