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第五部『明治が終わる日、君を想う。』  作者: 涼里
明治が終わる日、君を想う。
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第二十六話 十一年前の命令

明治三十九年、四月。


死者の名前が記された軍の記録を、榊原清継は三日間、開けずにいた。


恐ろしかったのではない。少なくとも、本人はそう考えていた。


ただ、十一年前に戦死したはずの男が、今さら紙の上で生き返ることに、どうしようもない怒りを覚えていた。


久世千景。

その四文字は、清継にとって、墓標であり、祈りであり、今なお癒えない傷の名前だった。


三日目の夜、清継はようやく封筒を開いた。


明治二十八年二月十六日。


負傷者移送に関する受領記録。

そこには、千景の署名があった。

戦死報告に記された死亡日は、二月十五日。


一日ずれている。

たった一日。


けれど、その一日は、清継が十一年間信じようとしてきたものを、根底から覆すには十分だった。


「……生きていたのか」


声にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。

安堵ではなかった。


生きていたなら、なぜ帰らなかった。

なぜ自分を呼ばなかった。

なぜ、探すななどと書いた。


清継は書類を握り締め、すぐに指を緩めた。

千景の名がある紙を、破りたくなかった。


*


翌日、《花霞》の奥座敷には、篠塚宗一郎と藤堂朔、有馬透が集まっていた。


「この署名は本物です」


宗一郎は記録を確かめ、静かに告げた。


「私も、あの日のことを覚えています」


清継が顔を上げる。


「お前は千景を診たのか」


「二月十六日です。左脇腹に深い傷があり、熱も出ていました。それでも彼は、担架の上の兵士を先に診ろと言った」


宗一郎の声に、かすかな悔恨が滲んだ。


「私は休むよう命じました。しかし彼は笑って、『先生、俺はまだ歩けますから』と」


清継は目を閉じた。

容易に想像できた。


あの男は、自分の痛みには驚くほど鈍感で、他人の苦しみには腹立たしいほど敏感だった。


「……馬鹿な奴だ」


「ええ」


宗一郎は否定しなかった。


「ただ、あのとき彼は、誰かに宛てた手紙を握っていました」


「手紙?」


「封はされていませんでした。宛名だけ、見えたのです」


宗一郎は一度、息を整えた。


「榊原清継、と」


清継の指が止まった。


*


「俺は、あいつに逃げろと言ったんです」


朔が口を開いた。


「負傷者の移送を終えたら、すぐ後方へ下がれって。あいつは怪我をしてたし、もうまともに立てる状態じゃなかった」


「なら、なぜ」


「残った兵がいたからです」


朔は苦々しく笑った。


「七人。輸送隊から置き去りにされかけた連中です。あいつは、全員連れていくと言い張った」


清継は黙っていた。


千景らしい。

あまりにも、千景らしかった。


「俺が怒鳴ったら、あいつ、何て言ったと思います?」


朔の目が、遠い戦場を見つめる。


「『ここで見捨てたら、俺は清継さんのところへ帰っても、あの人の顔を見られません』って」


清継は息を呑んだ。


「……俺のために?」


「違います」


朔は首を振った。


「誰かを助けることが、あいつ自身の譲れないものだったんです。ただ、その生き方を、あんたに恥じたくなかったんでしょう」


その言葉は、清継の胸に深く沈んだ。


千景は清継の命令に従わなかったのではない。

清継が愛した千景のままで、帰ろうとしていたのだ。


*


「それだけではありません」


透が古い帳簿の写しを広げた。


「輸送隊が運ぶはずだった医薬品と食糧の数量が、途中で書き換えられています。しかも、訂正した責任者の名前がない」


「横流しか」


「その疑いがあります。黒田宗吾の名が、別の命令書に出てくる」


透は声を落とした。


「久世少尉は、負傷兵を助けただけではない。不正を示す帳簿を見てしまった可能性があるんです」


清継の脳裏に、十一年前の千景の笑顔が浮かんだ。


出征前夜。

薄暗い部屋で、千景は清継の胸に額を寄せていた。


『清継さん。もし俺が、あなたの命令を聞けないことをしたら、怒りますか』


『内容による』


『……じゃあ、すごく怒られそうだ』


そのとき清継は、冗談だと思っていた。

今になって、あの声に滲んでいた不安がわかる。


千景は、清継を裏切ることを恐れていたのではない。

自分の信念と、清継への愛が衝突する日を、恐れていたのだ。


*


帰宅すると、文が書斎に灯りを入れてくれていた。


「お食事は?」


「……後でいい」


「その『後で』を、十一年聞いております」


文は困ったように笑い、机に温かな茶を置いた。


「千景さんのことですね」


清継は頷いた。


「……あいつは、生きていた」


文の表情が揺れる。


「本当に?」


「少なくとも、戦死したとされた翌日までは」


沈黙の後、文は静かに尋ねた。


「兄上は、千景さんを許せそうですか」


清継は答えられなかった。


愛している。

十一年前も、今も。


だが、もし千景が自分を守るために姿を消したのなら。

その優しさを、清継はどう受け止めればよいのだろう。


「……俺は、あいつと生きたかった」


初めて口にした言葉だった。

文は何も言わず、弟の肩に手を置いた。


清継は引き出しから、千景の残した押し花を取り出した。


『春になったら、また一緒に歩きましょう。』


あの約束を書いたとき、千景は本当に帰るつもりだったのだろう。


少なくとも清継は、そう信じたかった。


けれど、二月十六日の記録が示しているのは、千景が生きていたという事実だけではない。


あの男が、帰れる道を一度は手にしながら、それでも別の道を選んだ可能性だった。


「……千景」


清継は、色褪せた花弁を見つめた。


「お前は、俺を守りたかったのか。それとも、俺に選ばせることが怖かったのか」


答えはない。

ただ、机上の帳簿には、不自然に消された一行が残されていた。


『負傷者七名、別途移送。護送責任者――』


その先の名前だけが、刃物で削り取られていた。


清継は灯りを近づける。

紙の繊維に、かすかな筆跡が残っている。


見覚えのある、右上がりの文字。


千景の字だった。


――第五部・第二話・完。


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