第二十五話 生き残った者たち
明治三十九年、四月。
久世千景が死んでから、十一度目の春が来た。
榊原清継は三十七歳になっていた。
千景と出会ったのは十三年前、彼が戦地で消息を絶ったのは十一年前のこと。
清継にはあの冬から続く時間が、ひどく長く感じられた。
東京の桜は、今年も何事もなかったように咲いている。
「……忌々しい」
陸軍省からの帰路、清継は馬車の窓を閉めた。
戦争が二度終わり、街には新しい建物が増えた。だが、春の匂いだけは変わらない。
千景が最後に笑った日の匂いだった。
「また桜に腹を立てていらっしゃるの?」
帰宅した清継を迎えた姉の文は、呆れたように眉を上げた。
「花に罪はない」
「ええ。ですから、花にまで敵意を向けるのはおやめなさい」
文は清継の軍帽を受け取り、そっと声を和らげる。
「今年も、あの子のことを?」
清継は答えなかった。
文は、それ以上尋ねなかった。
弟が誰を愛していたのか、知っている。
あの青年が戻らなかった春から、弟の時間がどこかで止まっていることも。
「今夜は《花霞》へいらっしゃい。八重さんからお便りが来ていたでしょう」
「……気が進まん」
「それなら、なおさらです」
姉には昔から勝てない。
清継は諦めたように息を吐いた。
*
《花霞》の暖簾をくぐると、懐かしい出汁の香りがした。
「榊原様。お久しゅうございます」
女将の宮坂八重は、十一年前と変わらぬ微笑みで迎えた。
ただ、目尻には薄い皺が増えている。
当たり前のことだった。
人は年を取る。
死んだ者だけが、いつまでも若い。
「お連れ様が、もうお見えですよ」
奥座敷には、篠塚宗一郎と藤堂朔がいた。
「榊原さん」
宗一郎が立ち上がりかけると、隣の朔がその袖を掴んだ。
「座ってろ。医者のくせに、休むのが下手なんだから」
「君ほどではないよ」
「俺は休んでるだろ」
「今朝、無理をして歩いたことは?」
「……誰から聞いた」
「君の足から」
清継は思わず口元を緩めた。
朔の右脚には、今も戦争の傷が残っている。宗一郎はそれを治せないまま、彼の隣で生きることを選んだ。
二人の間に流れる穏やかな親密さが、清継には少し眩しかった。
「……変わらんな、お前たちは」
「変わりましたよ」
宗一郎が静かに笑う。
「以前の私は、誰かを救うことばかり考えていました。今は、同じ食卓につけることのほうが大切です」
朔が照れ隠しのように酒を注いだ。
「説教はいい。飲め」
そのとき、襖が勢いよく開いた。
「いやあ、遅くなりました。新聞社というのは、他人の秘密には熱心なくせに、社員の休暇には実に冷淡でして」
有馬透だった。
三十代になっても、軽薄な笑顔だけは変わらない。
ただし、その目には以前より深い疲労が宿っていた。
「桐生から連絡は?」
宗一郎の問いに、透の指が一瞬止まる。
「……ありませんよ。もう何年も」
それ以上、誰も尋ねなかった。
生きていても、会えない人間がいる。
死んでしまえば、なおさらだ。
*
酒が進むにつれ、話題は自然と戦争へ移った。
日露戦争の終結からまだ一年も経っていない。
帰還兵たちの傷も、遺族の悲しみも、街の賑わいに隠れているだけだった。
「長野に、手紙を出しました」
宗一郎が言った。
「水無瀬伊織君に。以前、負傷兵の記録を通じて知り合った青年です」
「葛城軍曹の?」
朔が尋ねる。
「ええ。今は故郷で暮らしているそうです。奥方と畑を耕しながら」
清継は黙って聞いていた。
葛城冬馬という軍曹の名は、戦後の報告書で目にしたことがある。
退却する部下を守って戦死した男だった。
「彼から返事が来ましてね」
宗一郎は懐から便箋を取り出した。
『先生。
こちらでは、ようやく雪が解けました。
静江と二人で、畑の支度をしています。
あの人のことを忘れた日はありません。
けれど最近、忘れずに生きることも、許されるのではないかと思えるようになりました。』
清継の指が、膝の上で強く握られた。
忘れずに、生きる。
そんなことが本当にできるのだろうか。
「……若いのに、立派な男だ」
そう呟くと、朔が苦笑した。
「立派にならざるを得なかったんでしょうよ」
清継は答えなかった。
*
宴が終わりかけた頃、透が一通の封筒を差し出した。
「榊原さん。今日は、これをお渡ししたくて」
薄茶色の封筒には、軍の古い整理番号が記されていた。
「日清戦争当時の輸送記録です。例の黒田宗吾が関わったものらしい」
清継の表情が変わった。
「……どこで手に入れた」
「秘密です。記者にも守るべきものがある」
透は笑ったが、その声には冗談めいた軽さがなかった。
「ただ、ひとつだけ」
彼は声を落とした。
「久世千景少尉の名前が、戦死報告とは別の日付で記されていました」
清継は封筒を開けなかった。
開ければ、何かが変わってしまう。
十一年間、疑いながらも触れられなかった真実が、そこにある気がした。
「……なぜ今になって」
「戦争が終わったからでしょうね」
透は窓の外へ視線を向けた。
「生きている人間は、時代が変われば口を開くこともある。死んだ人間には、それができませんけど」
沈黙が落ちた。
やがて清継は、封筒を懐にしまった。
*
帰り際、八重が小さな包みを差し出した。
「こちらも、お預かりしておりました」
中には、押し花になった桜が一輪。
そして、見覚えのある筆跡で書かれた短い言葉。
『春になったら、また一緒に歩きましょう。』
清継は息を止めた。
千景の字だった。
十一年前、出征前に交わした何気ない約束。
あの男は、こんなものまで残していたのか。
「……八重さん」
「はい」
「これは、いつから」
八重は少しだけ目を伏せた。
「久世様が出征なさる前からです。いつか、お渡ししようと思っておりました」
清継は桜を見つめた。
怒りがあった。
悲しみもあった。
それでも、指先で花弁をそっと撫でたとき、胸の奥に残っていたものは、どうしようもない愛しさだった。
「……馬鹿者」
誰にも聞こえない声で呟く。
十一年。
千景のいない春を、十一度越えた。
それなのに、まだ一度も、あの男を忘れられない。
《花霞》を出ると、夜風が頬を撫でた。
散り始めた桜が、軍服の肩に落ちる。
清継はそれを払い落とさなかった。
懐には、二通の過去がある。
一通は、死者が残した約束。
もう一通は、国家が隠した記録。
清継はまだ知らなかった。
自分が十一年間、千景の死を疑い続けてきたことさえ、あの男が守ろうとしたものの一部だったのだと。
――第五部、開幕。




