第5話 机の二段目
「分かった」と答えたあとも、レインが席を立たなかったため、四人の卓には言葉にしにくい沈黙が残っていた。追放を告げたレオンハルトは、もっと理由を問い詰められるか、あるいは昨日確認した成功率を持ち出して判断の見直しを求められると思っていたのかもしれず、何か続けようとして一度口を開いたものの、結局は言葉を選び直すように視線を落とした。
レインの方は、残してほしいと頼むつもりがないから黙っていたわけではなく、すでに決定だと確認した以上、次に考えるべきことをいつものように順番へ並べていただけだった。自分が抜ければ、出発前に武器の状態を確認する者がいなくなり、使った経路と魔物の行動を照らして次の進路を決める作業も誰かが引き継がなければならず、食料や灯りの量についても、これまでは必要数だけを用意していたため、三人が自分で計算することになる。
ただ、その一つ一つを説明しようとすると、まるで自分がいなければ《蒼天の剣》は何もできないと言っているように聞こえる気がして、レインは言葉を選んだ。実際、レオンハルトもバルクもエリナも、それぞれ自分の役割では十分な実力を持っており、これまで何度も危険な状況を切り抜けてきたのだから、必要なのは自分の価値を大きく見せることではなく、抜けたあとに困りそうな部分だけを正確に残すことだと考えた。
「引き継ぎだけしておきたい」
レインがそう言うと、レオンハルトは少しだけ意外そうな顔をしたあと、「ああ」と頷いた。
「昨日の崩落区間は、次から使わない方がいい。迂回できる経路は地図に書いてあるし、新しい前衛を入れて四人で動くなら、五人用に考えていた隊列は使わなくていい。ただ、狭い通路では前衛二人が同時に動けない場所があるから、そこだけは確認してほしい」
「分かった。地図は見ておく」
「バルクの予備剣も、今のまま続けて使うなら次の出発前にもう一度傷を見た方がいい。前の剣は鍛冶屋へ出してあるから、戻るまでは無理に深い場所へ行かない方が安全だと思う」
名前を呼ばれたバルクは、いつものように「細けえな」と笑うこともできなかったらしく、腕を組んだ姿勢のまま少し顔をしかめた。
「お前、こんなときまで俺の剣の話すんのかよ」
「壊れてからでは遅いからな。今伝えないと、次に俺が確認することはない」
レインとしては、それ以上でもそれ以下でもない理由だったが、バルクは返す言葉を失ったように黙り込み、やがて視線を卓の端へ逸らした。
エリナについても、治癒を使う回数が増えやすい経路や、連戦を避けた方がいい場所は記録へ残してあると説明すると、彼女は小さく頷いたものの、追放を止めなかったことへの言い訳をすることも、改めて賛成だと言うこともなかった。レインはその沈黙の意味を確かめようとはせず、彼女が今後も無理なく役割を果たせるよう必要な情報だけを伝えれば、それで引き継ぎとしては十分だと判断した。
「それから、これまでの攻略記録は机の二段目にまとめてある。古い区画から順番に並べてあるから、場所が分かれば必要な記録はすぐ探せるし、魔物の行動、装備の状態、使った経路もできるだけ同じところで確認できるようにしてある」
その言葉を聞いたレオンハルトは、昨日レインが一人で倉庫に残っていた理由をようやく理解したらしく、わずかに眉を動かした。
「昨日の時点で、そこまで整理していたのか?」
「新しい仲間が増えると思っていたから、誰が見ても分かる形にしておいた方がいいと思った。結果的には、そのまま使える」
自分のために用意したものではなかったから、誰が使っても役に立つなら無駄ではないとレインは考えていたが、エリナはその言葉を聞いた瞬間だけ苦しそうに目を伏せ、バルクも何も言わなかった。
レオンハルトは少し考えたあと、「助かる」と答えた。その声には嘲りも悪意もなく、これまで地図や攻略記録を渡したときと同じような、仕事を終えた仲間へ向ける普通の響きが残っていたため、レインはむしろ胸の奥に生まれた小さな違和感の置き場所に困った。
役に立ったのならそれでいいはずであり、昨日までのレインなら、そう考えれば十分だったはずなのに、今は「助かる」と言われても、その仕事をした自分自身は必要ではないのだという事実だけが言葉の裏側へ残ってしまい、しかも、その感覚をどう口にすればいいのかをレインは知らなかった。
「他に確認しておきたいことはあるか?」
レオンハルトが尋ねると、レインはしばらく考えたものの、すぐに必要なものは思いつかなかった。自分が管理していた資料はまとめてあり、直近の装備状態も伝え、崩落した経路についても共有した以上、ここに座り続ける理由はもうない。
「今はない。何か記録で分からないところがあれば、まとめたものを見れば大体は分かると思う」
「そうか」
レオンハルトはそう答えたあと、さらに何かを言おうとしたようだったが、その前にレインが椅子を引いたため、言葉は続かなかった。
立ち上がると、先ほどまでこちらを気にしていた周囲の冒険者の視線が再び集まったものの、レインは誰かへ説明する必要を感じず、卓の上に置いていた手帳だけを手に取った。そこにあるのはギルドへ提出するための公式記録ではなく、彼自身が見たものを残してきた個人の記録であり、ギルド側の数字と一体だけ合わなかった戦闘も、加入前六十二%、加入後九十一%という数字について考えたことも、その頁には消さずに残してあった。
この手帳まで置いていく理由はなく、レオンハルトもそれを求めなかったため、レインは頁が閉じていることを確かめてから手帳を持ち直した。
「じゃあ、行く」
「レイン」
呼び止めたのはエリナだったため、レインが振り返ると、彼女は何か言おうとして唇を開いたまま一瞬迷い、けれど結局は「……気をつけてね」とだけ口にした。
「分かった。エリナも無理に治癒を続けない方がいい」
最後までいつもと変わらない返事をしたことで、エリナの表情がさらに曇った理由を、レインは理解できなかった。
バルクは片手を上げかけてから途中で止め、最終的には「まあ、お前なら記録の仕事くらいどこでもできるだろ」と言ったが、それが励ますための言葉なのか、本当にそう思っているだけなのかは判別できず、レインも「そうだといい」と答えるにとどめた。
レオンハルトだけは椅子に座ったままレインを見ており、その表情には迷いがないように見えた。自分の決断が《蒼天の剣》をさらに強くすると信じていることも、その判断のためにレインを憎んだり貶したりする必要を感じていないことも、これまでの態度から十分に伝わっていたため、レインも彼へ恨み言を残そうとは思わなかった。
「今までありがとう」
レオンハルトが最後にそう言うと、レインは少しだけ目を伏せたあと、「ああ」と返し、それ以上何も付け加えずに卓を離れた。
◇
酒場の外へ出ると、さっきまで聞こえていた人の声が扉の向こうへ遠ざかり、レインはそこで初めて立ち止まった。追放を告げられた瞬間より、実際に三人のいる場所から離れた今になってからの方が、自分が《蒼天の剣》ではなくなったという事実は具体的な形を持ち始めていた。
これまでなら、攻略を終えた日の帰り道でも頭の中には次の仕事が残っており、今日使った装備の状態、残った食料、地図へ書き足す場所、魔物の行動で気になった点を順番に思い出し、翌日の準備へつなげていたが、今は同じように考えようとしても、その先に《蒼天の剣》の次回攻略は存在しない。
明日の朝、バルクの剣を見る必要はなく、レオンハルトへ経路を説明する必要もなく、エリナが治癒を使いすぎないよう戦闘回数を調整する必要もない。それらは昨日まで確かに自分の仕事だったのに、一度「抜けてもらう」と言われただけで、自分がやる理由をすべて失った。
胸の奥にあるものを怒りと呼ぶには、レオンハルトの説明には筋が通りすぎており、悲しみと呼ぶには、自分が何を失ったことを一番惜しんでいるのかさえレインにはまだ分からなかった。ただ、役に立っている限りはそこにいていいと思っていた場所から、役に立つ部分を認められたまま外されたことで、自分がこれまで何を居場所の根拠にしていたのかだけは、嫌でも見えるようになっていた。
レインは歩き出す前に手帳を開き、今日の頁へ《蒼天の剣》を離れたことだけを書き残した。理由についてはレオンハルトから聞いた内容をそのまま短くまとめ、自分が正しかったとも、三人が間違っていたとも書かなかったのは、今の時点ではどちらなのかを決めるだけの材料を持っていないと思ったからだった。
書き終えてから次の頁をめくると、そこにはまだ何もなく、これまでなら翌日の欄には出発時刻や持ち物、確認する装備、使う予定の経路が先に書かれていて、空白のまま眠ることはほとんどなかったため、その白さは追放を告げられた言葉そのものよりもはっきりと、明日から自分が誰かのために準備する必要がないことを示していた。
そしてレインは、長いあいだ他人の次の一歩ばかりを記録してきた自分が、明日の欄に何を書けばいいのかを、初めて自分で決めなければならないのだと気づいた。




