第1話 役に立つということ
翌朝、レインが《蒼天の剣》の共同倉庫へ入ったとき、窓の外にはまだ薄い朝靄が残っており、通りを行き交う冒険者の姿もまばらだったが、彼にとって出発前の時間は戦闘そのものと同じくらい重要だったため、眠気を払うような仕草をすることもなく、昨夜まとめた攻略記録を机へ広げると、今日持ち出す装備と照らし合わせながら一つずつ確認を始めた。
前日の帰路で使わなかった予備の灯り、保存食、水袋、簡易な応急道具、地図を書き足すための紙と筆記具、それから戦闘後に状態を確認した各自の武器について、手帳に残した内容と目の前の実物が一致しているかを確かめていく作業は、派手さとは無縁だったが、遺層の内部では小さな不足がそのまま危険へ変わるため、レインは誰かに頼まれなくても毎回同じ順番で点検していた。
特に昨日、刃の根元に細い傷が伸びていたバルクの大剣は、朝一番で鍛冶屋へ持ち込んであり、代わりに予備として使っていた剣を今日の主武器に回すことまで記録へ追記してある。
そこまで終えたころ、倉庫の扉が勢いよく開き、眠そうな顔のバルクが大きな欠伸をしながら入ってきた。
「朝からもう始めてんのかよ。昨日あれだけ書いてたんだから、今日くらい適当でも変わらねえだろ」
「昨日の記録は昨日の状態だ。持ち出す前に確認しないと、今日も同じとは限らない」
「お前のそういうところ、ほんと細けえよな。まあ、剣は助かったけどよ」
最後の一言だけ少し声が小さくなったため、レインが顔を上げると、バルクは視線を逸らしながら壁に立てかけてあった予備剣を持ち上げ、何度か軽く振って感触を確かめていた。
昨日の傷をそのままにして出発するよりはいいと考えたレインは、それ以上何も言わず、手帳の装備欄へ「交換済み」と書き足した。
「なあ、そこまで残す必要あるか? 剣を替えたなんて、俺が覚えてりゃ済むだろ」
「次に傷が出たとき、何回使ったあとか分からなくなる。それに、お前が覚えているかどうかだけを前提にはできない」
「そこまで俺を信用してねえって言われると、さすがに傷つくぞ」
「忘れること自体は普通だと思っている」
レインとしては事実を述べただけだったが、バルクは一瞬だけ眉を寄せたあと、どう受け取ればいいのか分からなくなったらしく、結局「やっぱお前、変なやつだわ」と笑って話を終えた。
少し遅れてエリナが到着し、最後にレオンハルトが姿を見せると、レインは全員の装備を順番に確認してから、昨夜清書した地図を机の中央へ置いた。
「今日の目的地は昨日の区画より一段下でいいんだな」
「ああ。昨日の相手にあれだけ余裕があったなら、もう少し深い場所でも問題ないと見ている。最近は攻略も安定しているし、ここで足踏みする理由はない」
レオンハルトは迷いのない声で答え、地図の深部へ指を滑らせたが、その判断そのものに無謀さはなく、実際、彼の剣技もバルクの前衛能力も以前より明らかに上がっていることを、戦闘を毎回記録しているレイン自身が一番よく知っていた。
だからこそ、レインは進むことそのものには反対せず、昨日の巡回経路と、これまで通った通路の状態を思い返しながら、三つの候補のうち最も危険が少ない経路を示した。
「この道なら昨日の巡回と重なりにくい。ただし、途中の細い通路は天井に亀裂があるから、戦闘になった場合は奥へ押し込まれない方がいい」
「崩れる可能性があるってことか?」
「今すぐとは言えない。ただ、前回より亀裂が長くなっていた」
レオンハルトは地図を見たまま数秒考え、「なら、その区間だけ早めに抜けよう」と決めたため、レインは頷き、出発時刻を書き込んで手帳を閉じた。
誰も、地図の作成者が誰かを話題にはしなかったし、危険箇所を覚えていたことを褒めることもなかったが、それはレインにとって不満の理由にはならなかった。使われるために残した記録が実際に使われているのなら、それだけで仕事は果たしていると考えていたからだった。
◇
遺層へ入ってからしばらくの間、攻略はレオンハルトの予想どおり順調だった。
薄暗い石造りの通路を進みながら、レインは先頭のレオンハルトとバルクだけを見るのではなく、床に残った爪痕や壁の擦れ、崩れた石の位置、空気の流れまで視界へ入れ、それまで記録してきた状態と違うところがないかを確かめていたが、それらは能力を使って何か特別な答えを得ているというより、何度も同じ場所へ来て、見たものを残し続けた結果として身についた習慣に近かった。
途中で小型の魔物が二度現れたものの、どちらもレオンハルトとバルクが短時間で処理し、エリナが治癒を使うほどの傷も出なかったため、バルクはますます機嫌を良くしていた。
「ほらな、昨日より深くても変わらねえじゃねえか。この調子なら、もっと先まで行けるだろ」
「油断はするな。深さが変われば出る魔物も変わる」
レオンハルトはそう注意したものの、その声にも余裕があり、自分たちが以前より強くなっているという認識についてはバルクと変わらないようだった。
レインも三人が強くなったこと自体は否定しなかったが、問題があるとすれば、強くなったからこそ、以前なら慎重に扱っていた小さな危険を「戦えばどうにかできるもの」として考える場面が少しずつ増えていることだったが、それを言葉にしたところで、実際に勝ち続けている彼らを説得できるだけの材料はまだないと考え、レインは口を閉じたまま歩き続けた。
やがて、朝の地図で注意した細い通路が見えてくると、レインは足を止め、天井へ視線を上げた。
昨日見た亀裂は確かにそこにあり、長さも記録した範囲と大きく変わってはいなかったが、その直下に落ちている細かな石片が昨日より増えており、さらに通路の奥には何か重いものを引きずったような跡が残っていた。
「待ってくれ。ここは一度止まった方がいい」
先へ進みかけていたバルクが振り返り、天井を見てから鼻を鳴らした。
「昨日も通ったんだろ。亀裂だってすぐ崩れるほどじゃねえって言ってたじゃねえか」
「亀裂だけならそう思う。ただ、昨日は床にこの跡がなかった」
レインが指した先には、石埃の上を横切る太い擦れ跡があり、その一部が脇道へ続いていたため、レオンハルトも歩みを止め、剣の柄へ手をかけた。
「魔物か? この先に何か潜んでいると見ているのか?」
「断定はできない。ただ、この通路で戦闘になる可能性は昨日より高いと思う」
「なら、出てくる前に抜けちまえばいいだろ」
バルクの意見は単純だったが、間違いとまでは言えず、レオンハルトも少し考えたあとで細い通路の先を見た。
「距離は長くない。ここで戻れば大きく迂回することになるし、慎重に抜ける方が早いな」
レインも、戻るべきだと断言できるだけの根拠は持っていなかったため、その判断に反対はしなかったが、進むなら最低限の準備は必要だと考え、エリナには後方との距離を詰めるよう頼み、バルクには前へ出すぎないよう伝えた。
「心配しすぎだって。何か出たら、いつも通り俺が止める」
「それなら問題ない。ただ、ここでは壁際まで追わないでくれ」
「はいはい、分かったから、そんなに念押しすんなって」
その返事が終わってから、四人が通路の半ばへ差しかかったときだった。
脇道の暗がりから、低い唸り声とともに大きな影が飛び出し、先頭のバルクへ体当たりするように突っ込んできたため、彼は反射的に剣を横へ構えて受け止め、その衝撃で靴底を石床へ滑らせた。
「やっぱり潜んでやがったか、来い!」
バルクはそのまま押し返し、すぐに斬り返そうと踏み込んだが、魔物が身を引いた方向は、朝からレインが気にしていた亀裂の真下だった。
「追うな、バルク! そこで止まれ!」
普段より強い声を出したレインに、バルクの身体がわずかに止まり、その横をレオンハルトが抜けて魔物へ斬り込むと、相手は攻撃を避けるようにさらに壁際へ寄った。
次の瞬間、天井から細かな石が降り始めたため、レインは亀裂の方向と魔物の位置を見比べ、戦闘が長引けば通路そのものが塞がる可能性があると判断した。
「レオンハルト、奥へ押さないでくれ。こちら側へ出させた方がいい」
「その方向へ押し返したら、逃がすことになるぞ」
「広い場所まで出せば、バルクが横から止められる。ここで倒すより安全だ」
レオンハルトは一瞬だけ迷ったものの、足元へ落ちた石片を見たことで意図を理解したらしく、攻める方向を変えて魔物の進路を入口側へ誘導し、それに合わせてバルクが回り込むと、狭い通路を抜けたところで二人が左右から挟む形になった。
そこから先はレインが何かをする必要もなく、バルクが魔物の突進を受け止め、レオンハルトが生じた隙へ踏み込み、エリナが二人の動きを見ながら必要な瞬間だけ援護へ回ったことで、戦闘は短時間で終わり、通路の天井も完全に崩れる前に全員が安全な場所へ移動することができた。
戦闘が終わった直後、背後で大きな音が響き、先ほどまで四人がいた場所へ石塊が落ちたのを見て、バルクはしばらく黙ったあと、気まずそうに頭を掻いた。
「……追ってたら、あれの下だったか」
「たぶん。崩れる時刻までは分からないから、確実とは言えない」
「そこは普通、俺のおかげで助かったって顔するところじゃねえのかよ」
「止まったのはバルクだ。俺は言っただけだ」
「そういう話じゃねえんだけどな」
バルクは呆れたように笑い、レオンハルトも崩れた通路を振り返ったあと、「結果として正しかった」とだけ告げた。
それ以上の言葉はなかったが、レインには十分であり、自分が戦えなくても、危険を一つ減らせたのなら役割は果たしているし、三人が無事に戻れるなら、そのために記録を続ける意味はあると改めて思えたからだった。
◇
その日の攻略は、崩れた通路の先へ無理に進まず、予定より少し早く切り上げることになった。
ギルドへ戻ると、レオンハルトが討伐内容を報告し、バルクが今日倒した魔物について大げさに話し、エリナが横から細かな部分を訂正するなか、レインは別の机を借り、崩落した場所と通行不能になった区間を地図へ書き込んでいた。
今日の戦闘だけを見れば、魔物を止めたのはバルクであり、仕留めたのはレオンハルトであり、負傷を抑えたのはエリナだったため、周囲の冒険者から「さすがAランクだ」と声をかけられる三人を見ても、レインはそこへ自分の名前が含まれないことを不自然だとは思わなかった。
むしろ、机に置いた地図を見ながら、崩落した通路を次回以降使わずに済むよう記録を残すことの方が気になっていた。
「レイン、今日の分もまとめておいてくれ」
報告を終えたレオンハルトに声をかけられ、レインは地図から顔を上げた。
「分かった。崩落区間は通行不可として残しておく。別の経路も探しておく方がいい」
「ああ、それで頼む。今日みたいなことがあるなら、次は余裕を持って進める道が必要だ」
そこまで言ってから、レオンハルトは酒場の方へ向かおうとしたものの、途中で足を止め、少し考えるように腕を組んだ。
「それと、もう一つ考えていることがある」
「何だ、次の経路についてか?」
「この先は今日までより強い魔物が増える。俺とバルクだけでも戦えるが、さらに上を目指すなら、もう一人前線で戦える人間がいた方が攻略の幅は広がるかもしれない」
レインはその言葉を聞き、まず人数が増えた場合に必要になる食料と装備、移動速度への影響を考えた。
「一人増えるなら、保存食と予備装備の量を見直す必要がある。通路によっては四人より動きにくくなるから、経路も調整した方がいい」
レオンハルトは一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。
「……そうだな。そのあたりも、お前ならすぐ整理できるだろ」
「人数が決まれば、その条件に合わせてすぐ組み直せる」
「まだ決定じゃない。少し考えているだけだ」
それなら今すぐ記録へ加える必要はないと判断したレインは、「分かった」と答え、再び地図へ視線を戻した。
レオンハルトが何を考えているのか、その時のレインには深く尋ねる理由がなく、戦える仲間が増えれば攻略は安全になり、自分はその人数に合わせて記録と準備を整えればいいだけであり、必要な仕事が増えることさえ、どこか安心できることのように感じていたからだった。
その日の記録の最後に、レインは崩落区間と戦闘時の判断を書き残し、新しい経路を調べるための余白を大きく取ったが、そこにはまだ新しい仲間の名前を書く欄も、自分の名前を消すための欄も存在していなかった。




