第八話 戸口
戸を叩く音で、リュシーが先に起きた。
夏の終わりの夜は、まだ土間に熱が残っている。私は寝床から出て、灯に火を移した。
リュシーが板の間で座っている。六つになった。夜の戸を怖がらなくなったのは、この春からだ。
「寝ていなさい」
戸を開けた。
セルヴァン様が立っていた。
外套も着ていない。襟が開いて、髪が額に貼りついている。馬で来たのだと思う。門の脇に繋いだ馬が、肩を上下させていた。
「オデットが」
声が掠れていた。
「四日目です。熱が下がらない」
灯を少し上げた。彼の顔の半分が照らされる。
「産んだのは」
「五日前の朝です。子は、その日のうちに」
彼はそこで一度、口を閉じた。
「癒術師が閉じました。三日目の夜から熱が出て、今日は下がりません」
「悪露の色は」
「……分かりません」
「乳は張っていますか」
「侍女に訊いてください。僕は部屋に入っていません」
私は戸の枠に手を置いた。
「町の産婆を呼んでください」
「呼びました」
彼は一度息を吸った。
「バルバラという人の家に行きました。断られました。次の家も、その次も」
「理由は」
「言われませんでした。ただ、済まないと」
彼が坂の下を振り返った。
「五軒回りました。三軒目からは、戸を開けてもくれません」
私は灯を持ち直した。
「除名簿に載った家に手を貸せば、その人は次に自分が産むとき、産婆を呼べなくなります」
セルヴァン様の口が開いた。
「そんな規則が」
「規則ではありません。皆が、そう思っています」
思っているだけだ。教会がそこまで定めているかどうかは、私も知らない。ただバルバラは去年の冬に一度、除名簿の家の名を口にしただけで、若い衆に紙を裏返させた。
「誰も、悪意で断っていません」
「なら、あなたは」
彼が一歩前に出た。
「入ってください」
「入れません」
「一度でいい」
「一度でも同じです」
私は敷居を見た。木が擦り減って、真ん中が低くなっている。
「認可産婆が除名簿の家に入れば、認可を失います。私は宿場と、この先の四つの村と、坂の上の全部の産室から締め出されます」
「僕が教会に頼めば」
「取り消しの手続きは、ございません」
彼は黙った。
「昨年の十月二十八日に、当家より届出が出ています。癒術で足るゆえ、認可産婆の派遣は無用と」
灯の油が跳ねた。
「それを出したのは、私ではありません」
彼が何か言おうとして、やめた。喉のあたりが一度動いた。
坂の下から足音が上がってきた。若い女が走ってくる。屋敷の侍女だ。私が入っていた頃にはいなかった顔だった。
「旦那様、奥様が」
侍女は膝に手をついて息を切らしている。
「熱が上がっております。医師様は、癒術で閉じてあるから中は診られないと」
私は灯を侍女のほうへ向けた。
「聞いてください」
侍女が顔を上げた。
「湯を沸かします。指を入れて三つ数えられるくらいの熱さです。熱すぎるものは使いません」
「はい」
「布は全部、鍋で煮てください。煮立ってから、三十数えるまで」
「はい」
「奥様に触れる前に、手を洗います。桶の湯で、爪の脇と指のあいだを、三十数えるあいだ。触れるたびに、毎回です」
侍女の目が泳いだ。
「触れる順番は、顔、腕、腹、下です。下に触れた手で、上に戻らないでください。戻るなら、また洗います」
「あの」
「悪露の色と匂いを見てください。強い匂いがあれば、布を替えて、替えた布は分けて置いてください」
「奥様、その、洗うのは何度と」
「三十です」
「いえ、そうではなく、順番を、もう一度」
私は口を閉じた。
一度だけ、間があった。
「覚えてください。二度は言いません」
侍女の肩が動いた。それから頷いた。
「熱が下がらなければ、夜明けを待たずに戻ってきてください。そのときは、私が別の手を考えます」
「はい」
侍女が坂のほうを向いた。灯を持っていない。走って上がってきたので、途中で落としたのだろう。
坂の下は暗い。
そのとき、工房のほうから足音がした。
ヨナスさんが灯を提げて出てきた。夜業をしていたらしく、袖に灰がついている。
彼は何も訊かなかった。侍女の顔を見て、坂の下を見て、自分の灯を侍女の手に押しつけた。
「送る」
それだけ言って、先に立って歩き出した。
二つの影が坂を下りていく。灯が揺れて、石畳が順に明るくなった。
私はその場に立っていた。
セルヴァン様も立っていた。
「アニェス」
三年ぶりに名前を呼ばれた。
「一つ、話がある」
私は答えなかった。
「リュシーを、跡継ぎに迎えたい」
夜の風が、産婆宿の梁を鳴らした。
「オデットは、もう産めないかもしれない。医師がそう言った。うちには子がいない」
彼はそこで一度、言葉を探した。
「君に返せるものが、それしかない」
私は灯を見ていた。芯が長くなって、火が細く伸びている。煤が上がっていた。
何か言おうとした。喉まで来て、そこで止まった。
三年間、湯を先に沸かしてくださいと言い続けた口だ。今夜も、戸口で三十まで数えろと言っただけの口だ。
言葉は出てこなかった。
セルヴァン様は待っていた。しばらく待って、それから馬のほうへ歩いていった。
蹄の音が坂を下って、聞こえなくなった。
坂の下で灯が二つ、離れていく。一つは屋敷のほうへ、もう一つは戻ってくる。
ヨナスさんが上がってきた。
私の前で足を止めて、灯を覗き込んだ。それから腰の道具入れから小さな鋏を出して、芯の先を切った。
煤が落ちて、火が丸くなった。土間が急に明るくなる。
彼は何も訊かずに工房へ戻っていった。
板の間で、リュシーがまだ座っていた。眠らずにこちらを見ている。
私はその子を見た。
灯を持つ手が、初めて少し重くなった。




