第七話 届出
癒術師の予定表が、三月ぶりに白紙になった。
執務室の卓に広げた紙を、僕は二度見た。日付の欄だけが並んでいて、行き先の欄がどこも空いている。
「今月は」
家令が咳をした。
「一件も」
「先月は」
「二件でございます。先々月は五件、その前が十一件」
窓の外で、庭師が薔薇の枝を落としている。初夏の光が濃い。
ドラフィーユ家の癒術は、貸し出して銀を得るものだ。産室、落馬、鍛冶場の火傷。呼ばれた先で傷を閉じて、日当をもらう。祖父の代からそうしてきた。
呼ばれなければ、癒術には値がつかない。
「理由は」
「分かりかねます」
「訊いたのか」
「三軒に伺いました。どちらも、今回はこちらで、と」
「他には」
「産室の器具の注文も、鍛冶に断られております。冬に一度、春にもう一度」
「断られた、とは」
「大奥様にはご報告いたしました」
家令はそれ以上言わなかった。母に上げた話が僕まで下りてこないのは、この屋敷では珍しいことではない。
母の部屋へ行った。
マティルドは刺繍を膝に置いて、茶を飲んでいた。予定表を見せると、一瞥して湯呑を戻した。
「一時のことです」
「三月続いています」
「春は皆、支度に忙しいのよ」
「支度」
「畑の。あなた、そういうことを知らないでしょう」
僕は予定表を畳んだ。
そういえば、この春の茶会に僕は招かれていない。去年は三つ来た。狩りの誘いも来ていない。
母の卓の上に、開いていない招待状が二通あった。どちらも去年より薄い封筒だ。
母はそれを見ていなかった。刺繍の糸を選んでいた。
翌日、教会へ行った。
抗議に行くつもりだった。癒術師を呼ばぬよう領民に触れを出したのではないか。そう問い質すつもりで、馬を出した。
司祭は僕を待たせなかった。
「ドラフィーユ伯爵。ご用件は」
「当家の癒術師が、この三月一度も呼ばれていない」
「はい」
「教会が何かなさったのか」
司祭は綴りを一冊引き寄せた。
「規則どおりの処理をしております」
「処理」
書記が別の綴りを持ってきた。開いて、僕のほうへ向ける。
一枚の紙が挟んであった。
「当家は癒術で足るゆえ、認可産婆の派遣は無用」
短い文だった。その下に署名がある。
セルヴァン・ドラフィーユ。
日付は昨年の、十月二十八日。
僕は紙を持ち上げた。持ち上げて、灯にかざした。
自分の字だった。癖のある「フ」の書き方まで同じだ。
「これは」
「昨年、当家より頂戴した届出でございます」
「僕は、こんなものを」
言いかけて、止まった。
離縁の三日後、母が書類の束を持ってきた。目録の控えと、領地の書き付けと、教会への届けが何枚か。母は一枚ずつ場所を指で示し、僕は一枚ずつ署名した。読まなかった。読む必要があるとも思わなかった。
窓の桟に埃が積もっているのが見えた。
「認可産婆の派遣を拒む届出をされた家は、除名簿に記載されます」
司祭が黒い綴りを開いた。
一行ずつ、家名が書いてある。上から四つ目に、ドラフィーユ伯爵家とあった。墨は乾いている。
「これは、取り消していただきたい」
「規則に定めがございません」
「定めがないなら、作ればいい」
「作る手続きも、定めがございません」
司祭の声の高さは、最初から一度も変わっていない。
「産婆を呼ばぬだけの話でしょう。癒術と何の関わりが」
「関わりはございません」
書記が答えた。
「除名簿は産婆の派遣のみに関わります。癒術師をどなたが呼ぶかは、各家のご随意です」
「では、なぜ呼ばれない」
書記は答えなかった。答える立場にないという顔で、綴りの角を揃えていた。
僕は椅子に座ったまま、しばらく黙っていた。
閉じたあとに熱が出る、という話を、どこかで聞いた気がした。誰から聞いたのか思い出せない。
「もう一点、ございます」
書記が別の綴りを持ってきた。今度は古い。表紙の革が擦れている。
「当家の産室様式届でございます。婚姻の年に提出いただいたものの写しを、お持ち帰りいただけます」
「様式届」
「産室に何を入れるかの届出です。家ごとに一度、婚姻の際に」
紙は折られていた。僕は受け取って、懐に入れた。
母が待っている。この話をどう伝えるかを、帰りながら考えなければならない。
坂を下りて、宿場を抜けた。
工房の前で、馬が勝手に足を緩めた。
煙突から白い煙が上がっている。石を新しく積んだ跡が見えた。下のほうだけ色が違う。積み直したのは、そう古いことではないらしい。
戸口に女が立っていた。
藍の前掛けだ。裾に白い縁取りがある。三年、僕の屋敷にいた人だと分かるまでに、少し時間がかかった。
前掛けのせいではない。立ち方が違っていた。
工房から男が出てきた。手に細長いものを持っている。
男がそれを差し出し、彼女が両手で受け取った。握って、開いて、閉じた。
男は何か短く言った。それから、彼女の手ごと、握りの位置を親指で押した。二度、押して直した。
彼女は頷いた。
男はそれきり中へ戻っていった。彼女はしばらく鋏を見ていた。
僕は馬を止めていた。
三年のあいだ、彼女が屋敷でああやって器具を握っているのを、何度も見た気がする。見ていたはずだ。あれが何をしているところなのか、一度も訊かなかった。
声をかける言葉を探した。
出てこなかった。
僕は手綱を引いて、坂を上がった。振り返らなかった。振り返っても、彼女はこちらを見ていないだろうと思った。
屋敷に戻ると、母は夕餉の席にいた。オデットもいた。腹が重そうで、椅子を引くのに侍女が二人ついた。
「教会は何と」
母が訊いた。
「規則どおりだと」
「それだけ」
「それだけです」
僕は食事を早く終えて、自室へ上がった。
灯をつけて、懐から折った紙を出した。
産室様式届。三年前の日付。婚姻の月だ。
項目は三つしかなかった。産室に入る者、産室に入れる物、産後の処置。
一つ目には、家人と癒術師、と書いてある。
二つ目は、空欄だった。
三つ目には、癒術のみ、とあった。
その下に署名がある。
セルヴァン・ドラフィーユ。
婚礼の翌日だ。彼女はまだこの屋敷に来て二日目で、僕は何を書いているのかを見ていなかった。母が指した場所に、名前を書いただけだ。
湯を先に沸かしてください、と彼女が最初に言ったのは、その年の冬だった。産室の布を煮させてください、と言ったのは、その次の春だ。
紙の上の三つ目の項目を、僕は何度か読み直した。
戸を閉めたのは、三年前の自分の字だった。




