第五話 炉
湯を替えたのは、これで七度目だった。
長屋の土間は狭い。竈は一つきりで、大鍋を掛けると他に何も置けない。私は湯を桶に移し、鍋にまた水を入れた。
奥の板間で、ハンナが四つん這いになっている。
「まだですか」
「まだです」
「まだって、さっきも」
「さっきも、まだでした」
ハンナが低く唸った。腰のあたりで手を握ると、指の力が思ったより強かった。
夜半の鐘が鳴ったのは、ずいぶん前だ。あれから二つ鳴っている。
この産は長いだけだった。
逆子ではない。血も出ていない。子の頭は下を向いて、正しい場所にある。ただ、進みが遅い。
私は布を煮た鍋から一枚出して、絞った。
「歩けますか」
「歩けない」
「では、立ってください。手を貸します」
ハンナが板の間で立ち上がる。二歩で膝が落ちる。私は肩を入れて支えた。土間と板間を、二歩ずつ、何度も往復した。
外で夫が薪を割っている。もう三時間ほど割り続けていた。使う当てのない量だ。
「あの人、うるさい」
「そうですね」
「止めさせて」
「あとで」
私は手を洗った。桶の湯で、指のあいだと爪の脇を、数えながら洗う。三十を数えるあいだ。
洗ってから、ハンナの腰に触れた。
器具は板の上に並べてある。麻布を敷いて、煮たものを順に置いた。鋏は借り物だ。柄が太くて、まだ手に馴染まない。
四つ目の鐘が鳴った。
進みは少し早くなった。呼吸の間隔が詰まっている。
「息を吐いてください。吸うのは勝手に入ります」
「入らない」
「入ります」
ハンナが笑おうとして、笑えずに唸った。
竈の火が弱くなっていた。私は薪を足し、鍋の湯を確かめた。八度目を替える。
夜が白み始めた頃、頭が見えた。
そこからは早かった。二度いきんで、肩が抜けて、そのまま出た。
女の子だった。
赤子が息を吸って、それから泣いた。長屋の薄い壁を突き抜けるくらいの声だった。外の薪割りが止まった。
私は臍を結んで、切った。借り物の鋏はよく切れた。
胎盤が出るのを待つあいだ、ハンナは天井を見ていた。
「終わり」
「終わりです」
「本当に」
「本当です」
出たものを確かめた。欠けていない。血は多くない。私は布を替えて、腹を軽く押さえた。
夫が入ってきて、板間の縁で膝をついた。何も言わずに、しばらくそこにいた。
日が昇った。
私は器具を集めて、鍋で煮た。煮ているあいだに土間を掃き、桶を洗い、布を数えた。汚れた布は別の袋に分けて、口を縛った。
「先生」
ハンナが呼んだ。産婆をそう呼ぶ人は、この宿場には少ない。
「はい」
「昨日の昼から、飯食ってないでしょう」
「食べます、帰ったら」
「食べていって」
「器具が熱いので、冷めるまで」
そう言って、私は竈の脇に座った。硬い麦の粥を椀に半分だけもらって、食べた。誰も泣かなかったし、誰も大きな声で礼を言わなかった。
赤子が乳を探して、ハンナの胸のあたりで顔を動かしていた。
それだけの一晩だった。
三日目の朝、様子を見に行った。
熱はなかった。額に手を当てて、脇の下を見て、悪露の色を確かめた。ハンナは起きて、粥を炊いていた。
「もう平気」
「あと四日、無理をしないでください」
「する」
「しないでください」
戸口に、隣の家の女が立っていた。腹が大きい。年明けだと言う。
「あの」
女は前掛けの胸を見ていた。打刻の数字だ。
「うちのときも、十一番を頼めますか」
「番号でなくても」
「番号で言えって、ハンナさんが」
ハンナが粥をかき混ぜながら言った。
「言った。名前だと間違えられるから」
宿場に産婆は四人いる。バルバラと、バルバラのところの二人と、私だ。
産婆宿に戻ると、バルバラが控え帳を開いていた。
依頼の記録だ。日付と、家の名と、村の名。その横に、これまで空欄だった欄がある。
十一、と書いてある。三行続けて。
「昨日、二件来た。今朝、一件」
バルバラは筆を置いて、私を見た。
「全部、番号で来た」
「私が名乗ったわけでは」
「名乗らなくても回る。あんたが取り上げた家から、隣に回る」
バルバラは控え帳を閉じた。
「あたしはここに三十年いるけどね。番号で名指しされたのは、初めてだよ」
夕方、借りた鋏を返しに工房へ行った。
坂を上がる途中で、音に気づいた。金物を打つ音ではない。石を崩している音だ。
工房の戸は開け放してあった。
炉が半分なくなっていた。
積んであった石が土間に転がり、灰が膝の高さまで積もっている。ヨナスは炉の中に腰まで入って、内側の石を外していた。
「何を」
彼は顔を上げなかった。
「壊してる」
「見れば分かります」
「なら訊くな」
石が一つ落ちた。灰が舞い上がって、私は袖で口を覆った。
「三挺打った。全部駄目だ」
石を投げ出す音がした。
「柄を鉄にしたら冷めない。革を巻いたら湯を吸う。焼きを落としたら刃が保たない」
「では、鋼を」
「鋼は悪くない」
彼は炉の縁に手をついて、こちらを見た。顔の半分が灰で白い。
「この炉じゃ、焼き入れの温度が足りないんだ。四十煮て割れる鋏までしか出せない」
「三十年、これを使ってこられたと」
「使ってた」
彼は次の石に手をかけた。
「あんたの手順が、この炉より先に行った。それだけだ」
石が外れる。落ちる。灰が上がる。
「新しく組めば、いつ打てますか」
「春だ」
「春」
「冬のあいだは石が乾かない」
私は借り物の鋏を作業台に置いた。柄の太い、まだ馴染まないほうだ。
「これは返します。春まで、割れた柄のほうを繕って使いますので」
ヨナスが手を止めた。
灰の中から出てきて、作業台の鋏を取った。それから、私の手を見た。見ただけで、何も言わなかった。
鋏を私の側へ押し戻した。
「持っていけ」
「でも」
「この鋏は、あんたの手順のためだけに打つ。他の誰の手にも合わない」
工房の梁が鳴った。風が入っている。
私は鋏を取った。柄を握ると、太さがさっきより気にならなかった。
礼を言おうとして、言葉が出なかった。三年間、湯を先に沸かしてくださいと言い続けて、一度も通らなかった口だ。
黙って会釈をして、戸口へ向かった。
背中で、また石が落ちた。
炉が崩れる音は、思っていたよりずっと小さかった。




