第四話 割れた柄
炉の火を落とす前に、戸が鳴った。
外はもう暗い。この時期、日が落ちてから客が来ることはまずない。おれは鞴の柄から手を離した。
戸を開けると、藍の前掛けが立っていた。裾の白が、雪の前の暗さの中でだけよく見える。
「二十日前の鋏です」
差し出された麻布を受け取った。中で何かが鳴った。金物が二つに分かれている音だ。
作業台に広げる。
柄が縦に割れていた。木口から刃元まで、まっすぐ一本。鋲は緩んで、指で回る。刃は先端が丸くなり、根元に近いほうだけ黒く曇っていた。
おれは灯を寄せた。
「よく煮た」
「はい」
「一日に何度だ」
「産の前と、器具を替えるたびに」
刃の曇りに爪を立てた。粉が落ちる。何度も湯に入れて、何度も乾かした鋼の曇り方だ。
鋲の穴を見た。丸かった穴が、わずかに長くなっている。開いて閉じてを繰り返した分だけ、穴のほうが負ける。
「四十を超えてるな」
「何がですか」
「煮た回数だ」
前掛けの女が少し黙った。
「数えていません」
「金物が数えてる」
割れた柄を裏返した。木の目に沿って、指の当たる位置だけ色が濃い。汗と湯が染みた跡だ。おれが凹みを彫った場所と、寸分ずれていない。
そこまで見たとき、戸がまた鳴った。
今度は叩かずに開いた。毛皮の襟をつけた男が、雪を払いながら入ってくる。
「クレンツの工房はここか」
「そうだ」
「ドラフィーユ伯爵家の使いだ。癒術用の器具を一式、至急」
おれは炉のほうへ顎をしゃくった。
「注文は控えに書く。日を改めろ」
「至急と言った」
男は作業台のほうへ来て、そこで足を止めた。藍の前掛けを見たからだ。
視線が胸の打刻に落ちた。十一番。それから顔へ上がった。
「これは」
短く息を吸う音がした。
「奥様。いえ、失礼」
前掛けの女は会釈をしただけだった。何も言わない。
男は割れた鋏に目をやり、鼻から息を出した。
「そんな真似事を、まだ続けておいでですか」
作業台の縁に手をついた。
「大奥様が案じておられます。宿場で女の産の世話など、退屈しのぎにしても」
おれは控え帳を引き寄せた。
革表紙の綴りだ。納めた器具の日付、品名、返りの記録。二十年分ある。親方の代からのものは奥の棚だ。
先月の頁を開いて、男のほうへ向けた。
「十一番、鋏一挺、先月三日納品」
割れた柄を横に置いた。
「今日返り。二十日だ」
男が頁を見た。おれは指で数字を追った。
「この柄は樫だ。煮て乾かしてを四十で割れる。三十では割れない。五十まで保つこともない」
鋲を指した。
「穴が伸びてる。開閉が二百を超えると伸びる。それ以下では丸いままだ」
刃の根元を指した。
「ここの曇りは、湯に入れて拭かずに置いた回数だ」
顔を上げた。
「二十日で四十回煮て、二百回以上開いてる。産の前と、器具を替えるたびに煮ると言った」
男は何も言わなかった。
「一晩に何度もある仕事だ。退屈しのぎで金物はこうならない」
炉の炭が崩れる音がした。
男の指が、作業台の縁から離れた。
「……注文は」
「控えに書くと言った。だが」
おれは棚から別の綴りを取った。教会の認可器具の帳面だ。表紙に印が押してある。
「あんたの家は、この帳面から外れてる」
「外れる」
「先月から納めていない。理由は教会で訊け」
男はしばらく立っていた。それから毛皮の襟を直して、外へ出ていった。戸を閉める音は思ったより静かだった。
雪が入ってきていた。おれは戸を押さえて、閂を落とした。
振り返ると、前掛けの女がまだ作業台の前にいた。割れた柄を指で押さえている。
「代わりが要るだろう」
棚から一挺出した。凹みは彫っていない。柄は太めに削ってある。
「試しに打ったやつだ。合わないかもしれん」
「お代は」
「貸すだけだ」
女は両手で受け取った。柄を握って、開いて、閉じた。
「合います」
「そうか」
麻布に包んでやった。包む前に、棚の小壺を一つ、隅に入れた。火傷用の軟膏だ。この工房では毎日使う。
女は包みを見たが、何も訊かなかった。
「ありがとうございます」
それだけ言って、戸口へ向かった。閂を上げてやると、外はもう本降りだった。藍の裾の白だけが、坂の下まで見えていた。
戻って、割れた柄を火に入れた。
その晩から三日、おれは鋏を打った。
一挺目は柄を樫から鉄にした。煮ても割れない。だが冷めるのが遅い。産室で熱いままの鋏は使えない。
二挺目は柄を細くして、間に革を巻いた。革が湯を吸って膨れた。二日で緩んだ。
三挺目は焼き入れの温度を落とした。刃が長持ちしない。三十で丸くなった。
三日目の夜、おれは三挺を並べて座っていた。
鋼が悪いんじゃない。焼き方も、木も、鋲も、この炉で出せるものは全部試した。
親方から継いだ炉だ。三十年、一度も組み替えていない。この炉の温度で打てる鋼は、四十煮て割れる。
そこまでしか行けない。
灯を消す前に、包みを渡したときのことを思い出した。柄を握って、開いて、閉じた手。指の付け根に凹みが沈み、その脇の皮が縦に裂けて、白くめくれていた。
湯に手を入れ続けた指だ。
割れているのは鋏ではなく、彼女の指だった。




