第三話 名簿
番号で呼ばれるのは、生まれて初めてだった。
教会の待合は石の床で、八日ぶりに晴れた光が高い窓から落ちている。リュシーの靴はようやく乾いていた。宿場の親方の家で、竈の脇に八晩置いておいたものだ。
朝、宿場の帳場に返書が届いていた。
ロヴェル家の封蝋だった。開けると三行しかない。次女の籍は離縁の日に整理済み、当家に部屋の空きなし、以上。父の字ではなかった。
リュシーが封筒の縁を指でなぞろうとしたので、畳んで懐に入れた。
「アニェス・ロヴェル」
奥から名を呼ばれた。番号のあとに、名が来た。
司祭は思ったより若かった。四十を少し過ぎたくらいで、机の上には綴りが三冊、きっちり角を揃えて積んである。
「籍の整理と、名簿への登録。二件でよろしいですね」
「はい」
「順に処理します」
差し出されたのは紙一枚だった。貴族籍からの離脱願。名前と、生まれた年と、離縁の日付。書く欄はそれだけだ。
三年前、婚姻の書き物は十二枚あった。父が一枚ずつ読み上げて、私が一枚ずつ署名した。
今日は一枚だった。
筆を置くと、司祭は紙を綴りに挟んで、次の一冊を開いた。
「産婆名簿は、規則の確認から入ります」
そこから先は、声の高さが変わらなかった。
「認可産婆は、教会の認可を受けた家にのみ入ります。認可を求める家は、その旨を届け出ます」
「はい」
「認可を拒む届出をした家には、以後こちらから人を出しません。届出のあった家名は除名簿に記載されます」
「……はい」
「記載の取り消しについて、規則に定めはありません」
窓の光が机の角まで来ていた。埃が浮いているのが見える。
「ないというのは」
「取り消す手続きが存在しません」
司祭は私を見なかった。綴りの行を指で押さえたままだった。
「以上が規則です。承知の上で登録なさいますか」
「いたします」
「では」
筆が動き出したところで、扉が開いた。書記が別の綴りを抱えて入ってくる。離縁の朝に目録を読んだ書記とは違う顔だったが、同じ事務の手つきをしていた。
「司祭様。先の届出の処理が滞っております」
「どちらの」
「ドラフィーユ伯爵家です」
指が止まった。私のではなく、司祭のほうだ。
書記が綴りを開いて読み上げた。
「当家は癒術で足るゆえ、認可産婆の派遣は無用。差出人、セルヴァン・ドラフィーユ。日付は先月の二十八日」
離縁が成立した日の、三日後だった。
「規則どおり処理してください」
「はい」
書記が別の綴りを机に置いた。表紙に何も書いていない、黒い綴りだ。
新しい頁が開かれる。筆が墨を含む音がした。
ドラフィーユ伯爵家、と書記が書いた。
それだけだった。
誰も声を荒らげなかった。誰も私に意見を求めなかった。私は椅子に座って、両手を膝に置いていた。
三年間、湯を先に沸かしてくださいと言い続けた。板を渡して洗い場を分けた。布を煮る大鍋を運び込んで、若い衆に笑われた。一度も通らなかった。
今日、私は何も言っていない。
書記が綴りを閉じた。革の表紙が閉じる、短い音だった。
「登録に戻ります」
司祭が筆を持ち直した。
「番号は十一番です」
「十一」
「打刻は下でお受け取りください」
石段を下りると、地下の作業場に藍の匂いが立ちこめていた。染めたばかりの布が梁から下がっている。
渡されたのは前掛けだった。藍染で、肩まで袖を上げるための革紐が縫いつけてある。裾に白い縁取りが入っていた。
「夜道で分かるようにね」
親方のバルバラが胸元を指で弾いた。金具に数字が打ってある。十一。
「灯だけじゃ足りないんだ。走ってると、こっちが轢かれる」
リュシーが前掛けの裾を握った。白い縁のところだ。指を離さないので、私はしゃがんで、そのまま結び目を作った。
「重いよ、それ」
バルバラが言った。
「濡れると倍になる。慣れるまで肩が上がらなくなるからね」
「はい」
「返事が早い」
そう言って、バルバラは階段のほうを見た。
「客だよ」
石段の上に、荷車の男が立っていた。
麻布に包んだものを手に提げている。細長い包みだ。裏門で荷を下ろしていたときと、同じ油と砥石の匂いがした。
男は下りてこなかった。段の上から包みを差し出した。
受け取ると、思ったより軽い。
「鋏だ」
油紙を開いた。刃は短く、柄が太い。私が屋敷で使っていたものより、握りの部分が明らかに膨らんでいる。
握ってみた。
指の付け根に当たる位置に、浅い凹みがあった。私の手の、そこだけ厚くなっている場所と重なる。
「代金は」
「注文主に出させた」
「注文主は」
「あの家だ」
男は石段を一段下りた。
「もう納めない家の分だから、金は取れない」
「では」
「使え」
それだけ言って背を向けた。
「あの」
呼び止めたが、名前を訊く言葉が出てこなかった。訊いていいものかどうかも分からなかった。
男は振り返らずに手を上げた。荷車の車輪が石畳を鳴らして遠ざかっていく。
バルバラが鼻を鳴らした。
「あいつは名乗らないよ。三年来てるけど、あたしも聞いたことがない」
私は鋏を握ったままだった。凹みに指が沈んでいる。
上の階から、司祭の声が降りてきた。
「登録が済みました。名簿をご確認ください」
石段を上がった。開いた頁に、書きたての墨が光っている。
アニェス・ロヴェル、認可産婆。名簿の墨が乾くまで、私はそこに立っていた。




