第16話
1時間ほど、電車に揺られ、半島を南下した。
終点の駅で降りると、そこは山の中だった。駅から少し歩くと、山の隙間から、不意に青い海が姿を現す。海の手前には、大きな砂浜が広がっている。夏には海水浴で賑わう砂浜だが、今はシーズンオフで人の姿はない。冬の海は少し寂しげで、鳥が一羽、滅びた世界で生存者を探し求めるように灰色の空を飛んでいる。砂浜を横切り、港のような場所に出る。どうやら、フェリー乗り場のようだ。ここには見覚えがあった。磨瀬木お兄さんは、この駐車場に車を止めた。その助手席に、わたしは乗っていた。
勉強ばかりしていては疲れるだろう、そう言って磨瀬木お兄さんが連れていってくれたのが、ここだった。その時も今と同じ季節で人影もまばらで、小学生の女子をこんな所に連れ出して、もしかしてこの男は変態なんじゃないかと、幼心ながらに考えたものだ。
荘子は記憶を辿りながら進んで行く。港の隣りは岬になっており、そこに至る遊歩道も整備されている。岬の上はちょっとした森で、木々の中を抜ける遊歩道は、更に寂れた雰囲気で、すれ違う人はいない。遊歩道の途中で、左手に廃墟のような休憩所があり、右手には木で組まれた展望台がある。荘子はその展望台を上る。ところどころ、蜘蛛の巣がかかっている。あまり利用者はいないようだ。
展望台を上りきると、目に映るのは、夕日に照らされた、朱い海だった。荘子は手摺りに手をかけた。ざらっとした、埃っぽい感触がする。
磨瀬木お兄さんは、この海を見ながら言っていた。たまに、ひとりでここに来て癒されているのだと。その時は、この寂しげな景色を見て何で癒されるのか疑問だったけど、今なら少し分かる気がする。
そうして昔の回想をしていると、磨瀬木お兄さんとの記憶がありありと蘇ってきた。ここ数年はあまり会っていなかったものの、わたしはあの人を好いていた。家族のように信頼していた。
磨瀬木お兄さんを殺すなんて、実感が湧かない。
もしかして、マキナ達はそれを承知していて、磨瀬木お兄さん殺害をスカムズ加入の条件にしたのだろうか。 用意周到な彼女達なら、それもあり得る話だ。
磨瀬木お兄さんは、何故犯罪を犯したのだろうか。麻薬を流すのは、重大な犯罪だ。それを使用した人の人生を破綻させてしまう。それを承知で、薬を流してたはずだ。しかも、警察官という立場でありながら、だ。
分からない。
でも、磨瀬木お兄さんが訳もなくそんな事をするはずがない。何か、理由があったはずだ。それを探ろう。それからだ。そこから、何かが見えてくるはずだ。
「もしかして、しょこたんか?」
突然、背後から声がした。
まさか、と思った。わたしの事をしょこたんなんて呼ぶ男の人は、1人しか知らない。
荘子はゆっくりと振り返った。
「やっぱしょこたんじゃないか、何してるんだよ、こんな所で」
「磨瀬木……お兄さん?」
冬の冷たい風を受け、展望台に立っていたのは、濃い緑色のコートを着てフードを深く被る、磨瀬木拓一だった。
磨瀬木はフードを取って顔を露わにした。黒髪の短髪、すらっとした頬には無精髭が生えている。痩せ型だが筋肉質で背が高く、一見すると少し恐い感じのするヤンキー上がりのガテン系お兄さんのようなイメージだが、その二重の奥の瞳は優しさを秘めていた。
「ビックリしたよ、こんな所で会うなんて」
そこには、なんだか懐かしい、あの時のままの子供っぽい笑顔で微笑む磨瀬木がいた。
「お兄さんこそ、何してるのよ」
「ちょっと、この景色を見たくてな」
磨瀬木は荘子の隣りまで歩いてきて、海に向かって手摺りに両手をのせた。荘子も同じように、海の方を向き直った。磨瀬木は何も言わず、夕日に染まる海を眺めている。朱色に輝く海の上を、カモメが一羽飛んで行った。
「そんな格好で、寒くないか?」
確かに、海から吹き付ける冬の風にセーラー服とカーディガンだけでは寒かった。もうコートを着ても良い頃だ。
「大丈夫。それより、お兄さん今までどこにいたの?」
「まぁ、ちょっとな。あ、コーヒーあるけど、飲むか?」
そう言って、磨瀬木はコートのポケットから缶コーヒーを取り出した。
「うん」
荘子は缶コーヒーを受け取った。暖かかった。ボスの微糖の珈琲。手の中にある缶コーヒーの金色のパッケージを見て、ふと思った。
今なら、殺れる。
絶好のチャンスではないか。どれだけ探しても見つからなかった目標が、目の前にいる。周りに人はいない。
鞄に隠し持っている三条で殺し、遺体を海に落として……いや、それはマズい。セーラー服でこんな所をうろついていたのだ、わたしを見ていた目撃者がいるかもしれない。磨瀬木お兄さんの遺体がここで発見され、わたしがここに居たと分かれば、関連性が疑われる。 遺体の処理が面倒だが、エボルヴァーがあれば何とかなるだろう。こんな好機は、他にない。
荘子はそっと、鞄の中にある三条を掴んだ。丸いスタートボタンに、親指を触れる。
「コーヒーが飲めるようになったかー。大きくなったなぁ」
磨瀬木は、海を見ながら言った。
「立派に大きくなってくれて、嬉しいよ。本当の妹のように思っていたんだ。よく懐いてくれててさ、こんな俺でも必要としてくれてる人がいるんだって思って、嬉しかった。まぁ、俺の勝手な思い込みかもしれないけどな」
まるで海に囁きかけるように、磨瀬木は言った。
「剛さんや祥子さんにもよくお世話になったな。それを、こんな恩を仇で返すことになっちまって、本当に申し訳ない」
「お兄さん……」
磨瀬木は振り返った。
「もうすぐ暗くなるし、帰るか。風邪引くぞ」
「……うん」
殺せなかった。
磨瀬木はフェリー乗り場の駐車場に黒塗りのメルセデス・ベンツW222を駐車しており、駅まで送ってくれた。
磨瀬木お兄さんは、依然はV36スカイラインセダンに乗っていた。恐らく、自分の車は足がつくから処分したのであろう。このメルセデスは、宇醒義ファミリーのものに違いない。荘子は車のナンバーを記憶した。磨瀬木は、駅のロータリーに車を止めた。
「いいか、もし剛さんや捜査員に俺と車に乗ってたこと聞かれたら、俺に脅されてたって言うんだぞ」
「うん……。お兄さんは、これからどうするの?」
「もう一仕事、やることがあってな」
もう一仕事——荘子は、なづきが言った言葉を思い出した。
何かを成そうとする決意。
荘子は、運転席に座る磨瀬木の左手を掴んだ。
「お兄さん、自首しよう。生きていれば、やり直せる」
暫くの沈黙。そして、なだめるような表情をして荘子を見た。
「俺は、取り返しのつかない重大な犯罪を犯した。多くの人の人生をダメにした。挙げ句の果てに、人を、殺した。そんな犯罪者が、反省したからといって人生をやり直し出来るなんて、理不尽な話しじゃないかい? 死んだ人は、何をしたって戻って来ないんだぜ。そんな事、許されるべきではないと思う。俺はね」
それは、奇しくも荘子と同じ考えだった。荘子は、何も言えなかった。今、自分がしようとしている事は、とても矛盾している。荘子の思想の下では、犯罪者は皆殺すべきなのだ。近しい存在だからといって、例外は許されない。
「分かったよ」
そう言って、荘子は磨瀬木の腕を離し、車から降りた。
「コーヒー、ありがとう」
磨瀬木は優しく微笑んだ。
「いいよ。じゃあ、気をつけてな」
「うん、お兄さんも」
荘子は、車のドアを閉めた。磨瀬木は車を発進させようとして、踏みとどまり、助手席の窓ガラスを開けて言った。
「しょこたん、幸せになれよ」
幸せに……
「うん、ありがとう」
荘子は微笑んで言った。
「じゃあな」
磨瀬木の黒いメルセデスは、走り去った。その羽のような形をしたテールランプが見えなくなるまで、荘子は後ろ姿を見送っていた。
ごめん、磨瀬木お兄さん。わたしは、ごく一般的にいう幸せな女性にはなれそうにないよ。
磨瀬木を見送ると、荘子は改札口を通り、電車に乗った。




