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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
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(七)勧進

「ところで」


 前方を見て歩きつづけながら、曹植がふと口をひらいた。


「今年中は新しい戦役はあるまいというのは、兵を休ませるため、というばかりではない」


「まあ―――では、義父上さまは軍事以外の、何か大きな事業を企図しておられるのでしょうか」


「事業というか、そうだな」


 曹植は珍しく言いよどみを見せた。


「いずれにしても、いつかはそなたの実家から耳に入ることであろう。

 父上は、まもなく魏公に封ぜられる」


 崔氏は答えるかわりに、両目を大きく瞬いた。

 公といえば列侯のさらに上位であり、本来は皇族にしか与えられない王爵―――郡規模の領主と実質的に同格の立場である。

 すなわち、曹植の父は人臣の分をついに踏み越える、ということであった。


「―――つまり義父上さまは、少なくとも年内は、受爵に伴う諸制度の整備に専念なされるということなのですね」


「そうだ。殊に、百官の任命だ」


「百官」


「父上は依然、漢朝の丞相と冀州牧を兼ねられることに変わりはないが、魏公としては丞相以下の百官を設置することがみとめられた」


「まあ……」


 崔氏はふたたび目を見開いた。丞相を頂点とする独自の官僚機構を備えられるということは、漢初の諸王たちに許された特権と同じである。

 それはすなわち、このたび曹操が得た地位はいよいよ「王」の待遇に準ずるということを意味している。


「そこまで具体的なお話があるということは、許都におわす帝より正式な詔がすでに発せられているのですね」


「そうだ。

 ―――父上は何度も、本当に何度も真摯な辞退を繰り返されたすえ、みなの請願を退けきれず、ついに受けざるを得なかったのだ」


「そうだったのですか」


「そもそも父上を魏公にという建議自体は、すでに昨冬、丞相府内外より帝のもとへ呈せられていたらしい」


「丞相府内外でございますか。

 叔父の口や書簡からは、その儀を聞いたことがございませんでした」


「―――むろん、府内の上層部全員が、積極的に関わったというわけではない」


 曹植の口調に不快のひびきはなかったが、崔氏はやや、そこにぎこちないものを感じた。

 彼女からは夫の顔は見えないが、おそらくは表情までも硬さを帯びたように思われた。


 曹植は歩きながら少しだけ頭を仰向けた。まなざしを虚空に泳がせているようだった。

 そして振り向くことのないまま、少しく改まった口調で妻に語りかけた。


「夫人」


「はい」


「父上の功績は偉大だ」


「むろん、存じ上げております」


「漢朝の社稷を根本より立て直され、奸臣ばらに流浪と困苦を強いられてこられた帝に安寧な玉座を約束され、そしていまにも漢土の再統一を果たそうと、政務軍務に日夜刻苦なされている。

 漢臣としてのその勲功、漢朝への貢献は、天下に比すべきものもない」


「まことに、異議を挟む者はございません」


「国公の地位は、皇室の藩屏としての父上の名分をいよいよ磐石なものとし、帝のご威光をますます天下に行き渡らせる上で、大いなる助けになるはずだ。

 このたびの封爵は、決して過分なものではない」


 そう語る曹植の声は、自らに言い聞かせるようでもあった。


「父上は衷心より、辞退を繰り返されたのだ。

 だが丞相府の属僚たちから、そのたびに強い要請があった。すべては漢室の輔弼(ほひつ)のためだと説かれれば、やむをえぬことだ。分かるだろう」


「属僚がたとは」


「荀中軍師(荀攸(じゅんゆう))、鍾前軍師(鍾繇(しょうよう))、涼左軍師(涼茂(りょうぼう))、毛右軍師(毛玠(もうかい))を筆頭とする重臣たちだ」


「荀中軍師さま……」


「ああ」


「ではご同族の荀尚書令(荀彧(じゅんいく))さまは、ご逝去の前―――征南軍に加わられる前に、丞相府の外の立場から、やはり帝へ進言をなされていたのでしょうか」


 崔氏としては、その問いに深い他意はなかった。

 荀彧は、曹操が華北最大勢力であった袁紹と対峙していたころからの古参参謀であり、その功績と曹操からの信頼の深さにおいて別格の地位を誇ってきた文官である。


 しかも、曹植が名を挙げた荀攸以下の者たちは曹操を頂点とする丞相府の官僚だが、荀彧は漢朝から直接官爵を拝しているので、曹操の幕僚というより協力者に近い立場であった。


 その偉大なる謀臣荀彧は昨年の末、曹操の征南軍の軍機に参与すべく招聘されて自らも南下したが、病を発したため途上の寿春(じゅしゅん)に留めおかれ、そのまま病没したという。

 その訃報自体は、崔氏も鄴に帰還してまもないころの曹植からすでに聞かされていた。


 曹操の魏公就任の建議が昨年冬の時点で出されていたならば、荀彧が全く関与していないということはありえないであろう。

 それも、彼は漢朝の行政全般を統べる尚書台の長官たる尚書令の任だけでなく、帝の近侍官たる侍中(じちゅう)も兼任していたので、曹操への爵位賜与について帝に直接勧進(かんじん)することが、最も容易な立場なのである。

 崔氏の連想はごく自然と言ってよかった。


 曹植は初めて足を止めた。が、こちらを振り向くことはなかった。

 崔氏も倣って立ち止まった。


文若(ぶんじゃく)どのは―――荀尚書令は、尊敬すべきかただった」


「はい」


「張子房(張良)のごとき智謀を誇られたばかりでなく、その進退はどこまでも忠貞にして清廉で、私心なき生き方を貫いておられた」


「叔父たちからも、そのように伺っております」


「しかも、あのかたの功績は軍略ばかりではない。

 この疲弊した漢土がふたたびひとつとなり万民が生業(なりわい)を楽しむようになるための、遠大な構想を描いておられたのだ。

 それを実現するための英雄として、父上よりふさわしいかたはいなかった。

 だからあのかたは、父上を選んだのだ」


「はい」


「だが」


 曹植は一瞬間を置いた。


「父上もすばらしいかただ。俺にはただひとりの、すばらしいかただ」


「むろん、存じ上げております」


「父上のなされることに、目指される道に、間違いはないと思う。

 だからそなたも、もしどこかから父上の忠心を疑う声を聞いたとしても、耳を傾けたりなどしてはならん」


 そう言ったきり、彼はまた歩き出した。

 大股なのは先ほどと変わらなかったが、行き着くところも決めずただ前へ進もうとするかのような、奇妙に思いつめた足取りだった。


 崔氏は少しの間その場に立ち尽くしたものの、やがて夫について歩き始めた。

 尋ねてみたいことはいくつもあった。だが、彼の背中はその一切を拒むものだった。


 頭上の枝葉がやや濃くなった地点で、曹植は何かを目にしたかのように、つと足を止めた。

 そうかと思うと、すぐに駆け足になった。


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