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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
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(六)孤閨

「あちらに、花をつけているようです」


「本当か」


 妻の指差した先を、曹植はやや目を細めて見上げた。

 まだ早朝とはいえ、すでに仲夏(ちゅうか)の月に入っている。

 枝葉の間から漏れてくる日差しは春天のやわらかさを早々と脱ぎ捨て、やや先鋭なほどの眩さを帯びつつあった。


「本当だ。(ミカン)の花というのは、屈原(くつげん)の詠うとおり白いのだな」


「この分ならばひょっとして、無事に根付くのではないでしょうか」


「だといいが、どうかな」


 曹植は上方を仰いだまま、やや案ずるように眉を寄せた。

 夏を迎えれば橘が花をつけるのは当たり前のことではあるが、その原生の地といわれる江南を遠く離れたこの(ぎょう)の地にあっては、決して当たり前のことではなかった。


 そもそも、橘という果樹の存在さえ、華北ではいまだ珍重されている。

 その珍しい橘が、曹植たちがいま散策している丞相邸の広大な庭園、銅雀園(どうじゃくえん)の一角に植林されているのは、曹操がつい昨年孫権討伐の軍を興した折に、江南特産のその他の品々とともに持ち帰ってきたためであった。


 いまより五年前の建安十三年にも、曹操は孫権軍閥の帰順をすでに試みているが、赤壁の戦いとして有名な敗戦によりその企図は頓挫させられた。

 一方で昨年十月に鄴を発した今回の討伐軍は、孫権の本拠地建業(けんぎょう)に迫るものではなかったにせよ、戦略上の要である濡須口にて大きな損失も出さず、今年の四月、つまりつい先月に鄴に帰還したばかりであった。

 凱旋といってよいであろう。今回も曹植は父に従って軍旅にあったため、昨年の仲春に娶った崔氏とは約半年ぶりの再会を果たしたことになる。


「ほかの樹よりは葉を繁らせているこの樹も、あの枝以外には花が見つからぬようだ」


「―――たしかに、そのようです」


 崔氏も改めて自らが見つけた小さな花を見上げた。

 とてつもなく高い位置にあるわけではないが、その花弁の混じりけない白さとあいまって、どこか手の届かない、儚げな印象を受けざるを得なかった。


「やはり風土が違うとうまくゆかぬものだな。

 もともと、これを鄴に持ち帰って()やしてみてはどうかと父上に進言したのは俺なのだ。かわいそうなことをした」


「ですが、わたくしも異郷の珍しい樹が見られてうれしゅうございました」


「本当は、果実を食べさせてやりたかったのだが。

 正月ごろ陣中で食した江南産の橘の実はつくづく美味だった。中原にはなかなかあんなものはない」


「また、いつか機会がありましたら」


 崔氏はそう言ってほほえんだが、我知らず語尾が小さくなった。


 今回の征南軍は、これまでの曹操親征軍と同様に、曹家の婦人や子どもたちをも同行させるものだったが、崔氏は曹植と軍旅をともにすることはなかった。

 出征の直前に、妊娠の兆候らしきものが見られたからである。

 だが、曹植たちを見送ってからほどなくしてそれは誤認だったことが分かり、先月帰還した夫の車馬を、嫁いできたときと同じ華奢な姿で迎えることになったのだった。


 鄴と征南軍を往来していた伝令に前もって文を託していたこともあり、戎装の曹植はとくに落胆した色も見せず、むしろ、


「子が流れたのでないだけよかったではないか」


と明るく言ってくれたが、崔氏の申し訳なさは消えなかった。


 数え十九になるいまに至ってなお、叔父とともに許都に住んだ約三年間を除けば冀州の外に出たことがないとはいえ、橘の実が瑞々しい甘味だけでなく酸味にも富んでいるらしいことは、それとなく聞き知っている。


 つまり、妊婦が好んで食するだろう、と夫が思いやってくれたのだということが分かるだけに、彼への申し訳なさと、母親になれなかった自分自身の心残りがまたひそかに募ってきたのだった。

 その思いを知ってか知らずか、曹植は平淡につづけた。


「残念だが、もうしばらくは出征はなさそうだ」


「まあ、まことでございますか」


「ああ。今年中はないだろうな。少なくとも俺が従軍を許されるような、父上のご親征はあるまい」


 よかった、と深い安堵とともに言いかけて、崔氏はためらいがちに口をつぐんだ。


 自分の夫となったこの青年は天与としか言いようのない文藻に恵まれ、実際に詩文の制作や鑑賞をこよなく愛しながらも、公人としては己の筆墨の才を重んじていないところがある。


 むしろ、現実の武功なり政策立案なりによって中華の統一に貢献することこそ丞相の子息たる者の務めである、という信念を堅持しているといってもよい。

 彼の父兄や家臣たちと同様、崔氏もそれはよく分かっていた。


 いまはまだ、主体的に動くのではなく命ぜられて経験を積むほかないほんの弱年の身であるとはいえ、いずれ遠からぬうちに彼の志が報われてほしいというのは、妻としての本心である。


 だが、彼が戦場などに身を置かずに済むのなら―――たとえ軍閥同士の対峙が膠着(こうちゃく)化して曹家の覇権に影がさすとしても、天下あまねくところで戦火がただちに終息するのなら、それが何より幸いである、というのもまた、偽りない本心であった。


 崔氏は故郷清河の村落にいたとき、甚だしい戦禍に見舞われた冀州の惨状をさまざまな局面で体感し、戦争の理不尽さを何度となく見せつけられてきた。

 我知らず、慣れさせられてきた面があったとも言える。

 だがこのたび、たとえ一時期でも子を宿したという感覚を持ったことで、


(この子が大きくなるまでには、必ず、戦乱のない世になっていてほしい)


という思いを、自分でも驚くほど強く抱いたのであった。

 そしてその思いは、人の子の親たる者は漏れなく抱いているだろう、と信じられた。






 妻に期待を持たせすぎることを案じてか、曹植が短く付け加えた。


「むろん賊軍の出方によっては、ご方針も変わるかと思うが」


「―――ですが、ここ数年は遠方へのご出征とご捷報(しょうほう)がつづいております。

 義父上さまはあるいは、今年中と言わず明年あたりまで兵を休ませるおつもりではないでしょうか」


「それはいささか楽観に過ぎるというものだ。

 南には孫権の主力が温存され、南西には劉備、さらに漢中にはまだ、張魯も勢力を保っている」


「そう……ではございますが」


「遺憾か」


「それは、やはり」


「独り寝はそんなに寂しかったか」


「子建さま!」


 崔氏は目元を朱に染め、険しい抗議の声を上げた。

 だが、それを迎える曹植は口元を野卑に緩ませているわけでもなく、至って真摯な面持ちをしていた。


「そうでもなかったか」


「いくら夫婦の間でも、口にすべきことではありません」


「俺は寂しかったが」


 崔氏ははっと彼の顔を見返し、ほとんど反射的にうつむいた。

 足元に散る木漏れ日が先ほどより眩さを増している。

 やり場のない視線を己の影に這わせながら、ようやく唇をわずかにひらいた。


「―――わたくしも」


「どうした」


「わたくしも、寂しゅうございました」


「もっと大きな声で」


「子建さま!」


 曹植は真顔を脱ぎ捨ててからからと笑い出し、橘の樹下を大股で闊歩しはじめた。

 崔氏はいよいよ強く唇をかみしめたものの、黙ってその後についていった。


 今回の征南軍は曹家の女子どもも同行させるものだったが、曹植の場合は正妻である崔氏を伴わないということで、義父の配慮により美しい妙齢の侍女を何人か付けられたようであった。

 その名目は身辺の世話をするためというものであれ、二十二歳の健康な青年である夫が半年間の軍旅において独り寝を通したとは、崔氏も思っていない。


 ―――だが、今しがたの「寂しかった」ということばにもやはり、嘘はなかったと思うのである。

 少なくとも崔氏は、それを信じようと思った。

 そして事実として、出征前も後も、妾という立場で彼と継続的に関係を持っている婦人がいないのはたしかであった。


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