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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
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(五)渦

「そう、それだ。おまえたちは、どう思った」


 先ほど兄に先んじたことで遠慮をおぼえたのか、曹植はすぐには答えなかった。

 一瞬の間をおいてから、曹丕は口をひらいた。


「あの豪胆ぶりは敵ながらあっぱれと、わたしも思いました。

 陸の歩兵の調練とて十分な時間を要しますが、水軍の統率ならばなおのこと、一朝一夕にして成るものではない。

 ふだんからの入念な督励ぶりも伺わせるような余裕であったと思います」


「子建、おまえは」


「俺ですか、俺は―――うれしかったです」


「うれしかったか」


 予想外のひとことだったのか、曹操は笑いを含んで繰り返した。


「父上はそれだけ、俺たちに期待してくださっているのだと思いました。

 あのときの、あの船上での孫権のごとく気宇壮大に、何物にも怖じることなく大事を成し遂げられるはずだと。

 そうではないのですか」


 明朗な声と前向きすぎる答えに、曹操はついに呵々(かか)と笑い出した。

 父母をはじめとする周囲からの情愛をかつて疑ったことのない、曹植ならではの発想であった。


「そうだな。孫権にできることがおまえに―――おまえたちにできないとは思わん。それは確かだ」


「ありがとうございます、父上」


 曹植はあふれるような笑顔を浮かべた。

 誇張のない真情の発露であることは、傍らにいる曹丕にも分かった。

 だが曹植はふと、今までとは違う硬い声音で言った。


「―――ですが本当は、俺は孫権のようにはなりたくありません」


「ほう?」


「志半ばで(たお)れた父と兄の名を負いながら、弱年にして地盤を引き継ぎ、江東の雄となりおおせたことは確かに偉業だと思いますが、―――俺は、父上と兄上たちに、ずっと生きていてほしいです。

 ただひとり、(のこ)されたくはない」


 そういう意味か、とばかりに、曹操はまた破顔した。

 だが曹植は今度は笑わず、真摯な面持ちで告げた。


「俺は、父上が志を遂げられるのを、兄上たちとともにお助けしたいのです」


 曹操も笑いを収めた。そして曹植だけを見据えるかのように、身体の向きを変えた。


「志か。わしの志とは何だと思う」


「むろん、天子に背く者たちを降して禹域(ういき)をひとつにすること―――天朝(漢朝)の威光を九州の隅々にまでふたたび輝かすことです」


 迷いのない口調で曹植は言った。

 そのとき、父の口元が少しだけこわばったのを、曹丕は見て取った。

 曹操はうなずくのみで応え、少し先を流れる川の水面へ、黒々とした渦へと視線を落とした。

 そして、上の息子に初めて目を向けた。


「子桓はどう思う」


「父上の、志ですか」


 曹丕は表情を変えなかったが、胸中には濃霧のような不安が静かに立ち昇った。

 ここで誤ってはならないと思った。

 口をひらきかけては閉じ、ひらきかけてはまた止めた。

 川岸近くにいるはずの年少の弟たちの気配はいつのまにか遠ざかり、川面の渦巻く音だけが、低く深く、耳にまとわりつくようであった。


「それは、むろん、―――」


 父と弟からの視線を同時に感じながら、舌がふたたびこわばりついた。

 父の本当の望みを、己はむろん、知っていると思う。

 そうだ、その点ではたしかに、己は弟に勝っているのだ。父の望みが、己には我がことのように分かるのに、なぜ弟には分からないのか。


(―――疑っていないからだ)


と、曹丕は思った。

 父の心はいつも自分のすぐ近くにあるのだと、弟は疑ったこともないからだ。

 常に自分に関心と愛情を傾けてくれる父のなかに、およそ理解できない部分があるなどと、思いひらめいたこともないからだ。


 父を理解したいと―――わずかでも父の歓心を得たいと、日夜それを思って父を観察し、父に学び、自らを矯めてゆくこと、そんな努力が必要だと思ったこともないからだ。


(子建はいつでも、ただそこにいるだけで、父上から―――)


 これまで何度となく頭をよぎったことばを、曹丕は喉の奥で嚙み砕いた。

 だがいまばかりは、そのまま嚥下することができず、喉はこわばったままだった。

 もはや視界から外れて久しい渦の残像が、なぜか脳裏に浮かびあがった。

 渦はその黒さを増し、己を足元から侵蝕しようとするかのようであった。






「まあ、いい」


 父は、ふいに静止のことばをかけた。

 そのことに、曹丕は安堵と落胆を同時におぼえた。


「おまえにわからぬということはあるまい。

 結局のところ、おまえがわしに最も似ている」


 それだけ言うと、曹操は(きびす)を返し、もと居た小高い場所へゆっくり戻り始めた。


「いいなあ、兄上」


 曹植の屈託ない声が、背中越しに聞こえてきた。

 素直な羨望の込められた声であった。






(ああいうところは確かに、わしに似なかったな)


 兄と談笑する曹植の表情さえ目に浮かんできたのか、曹操の顔もわずかにほころんだ。

 曹植が父たる己の長所を受け継ぎながら―――それどころか、文筆の才に関しては既に凌駕していながら―――総体としては似ないところが多いという点を、曹操はむしろ(よみ)していた。

 そのことは、既にこの世を去った息子たち、曹昂(そうこう)曹冲(そうちゅう)ともよく似ていた。


 この三人はそれぞれ、父たる己が持ちえなかった美質を―――我が身を顧みない献身ぶりを、誰にも分け隔てない慈悲深さを、そして他者への裏表ない愛情と信頼を―――呼吸するように自然に培っている。その事実を、曹操は愛した。


(あれらに比べて、子桓は―――)


 背を向けた先にいるもうひとりの息子のことを、曹操は考えた。

 曹丕のことを考えるとき、曹操の気分はこれといって明るくなったことがない。


 いや、諸妾のなかでも寵愛が深い(べん)氏に生ませた最初の男児であるから、その誕生を曹操はむろん喜び、幼少時には人並みに可愛がってきたはずだ。

 しかし、この息子が大きくなるにつれて―――己に相似する面が着実に増えてゆくにつれて、ふたりで向かい合うたび、心がむしろ冷えてゆくのを感じた。


 己と同じく文武両道を体現すべく、曹丕が日々研鑽を怠らないのは、我が子ながら称賛に値する。

 だがこの息子は、まさに鏡像のように、己の負の部分をも少しずつ受け継ぎ、成長させているように見える。


 とりわけ、一度でも対立した相手、怨恨を抱いた相手に酷薄な仕打ちをすることが、年々苛烈になるかのようであった。

 つまりは狭量ということである。人の上に立つ者として、望ましい資質ではない。

 そのことに気づくにつれて、曹操は曹丕に対する思い入れがいよいよ薄らいでゆくのを感じた。

 老境に達した曹操自身、己の狭量な一面を理解していながら、矯正しきることは未だできないでいる。


(だが、子桓にしか成し得ないこともまた、あるであろう)


 その思いもまた、確かであった。






 ふとみると、足元の岩の隅に、血痕があった。

 獣が獣に喰らわれたなごりであろうか。まだそれほど黒ずんではいなかった。


 あれらに告げていなかったことがあった、と曹操は思い出した。

 といっても完全に忘れていたのではなく、いずれ必ず告げるはずのことを、いまこの場で告げてもよかろう、と思い直したのであった。


 本来は、主要な幕僚と親族が集う場で正式に告知するつもりであったが、このふたりだけが立ち会うこの場で先んじて伝え、その反応を見てみたい、という思いがあった。

 曹操がつと振り返ると、ふたりの息子ははっとしてこちらを振り仰いだ。


「父上?」


文若(ぶんじゃく)が没した」


 曹丕と曹植は息を詰めたように父を見返した。

 文若とは、曹操の覇業を二十年以上にわたり支えてきた参謀であり、功臣の筆頭たる荀彧(じゅんいく)(あざな)である。

 このふたりもむろん、幼いころから彼と面識をもち、親しんですらいた。


「年末、寿春(じゅしゅん)においてだ。

 我々本隊が濡須口(じゅしゅこう)に向かった後、まもなくだったそうだ。

 あれを寿春に留めおいたのは療養のためだったが、(やまい)の進行を止められなかった」


「病、とは」


 どこか茫洋とした、覚醒しきらないような声で曹植が言った。しかし、喉の奥は震え始めているようでもあった。


「それほどの重病を患っておられたのですか。ついぞ、存じませんでした」


 曹操は曹丕のほうに目をやった。

 ひどく張り詰めた面持ちをしていたが、曹植のような動揺の色はなかった。


 経緯を了解しているのだな、と曹操は思った。

 曹操自身が荀彧に箱を送り自決を迫った詳細までは、さすがに把握していないであろう。

 だが、董昭(とうしょう)をはじめ曹操の主な幕僚らが推し進めている魏公(ぎこう)昇進の儀に―――本来であれば人臣には許されない高位へと曹操が昇りつめることに―――荀彧ひとりが正面から反対したことを、曹操幕下で知っている者は知っている。

 その結末が彼の死であることを、曹丕は察したに違いなかった。


 うめくような声が場に響いた。みると、曹植が肩を震わせていた。


「泣いているのか、子建」


「はい、父上―――いえ、俺は、―――俺は、そんな―――」


 曹植はそこでことばを切り、息を整えるまで間を置いた。


「―――父上こそどれほど、お悲しみのことでしょうか。

 文若どのを、失っておられたなんて。

 俺はこれまで、何も気づかなかった。何も」


 曹操は何も言わず、曹植を見た。

 曹植も、濡れた目のまま父を見返した。

 だが、ある一瞬を境として、ふいに慄然(りつぜん)としたような表情を浮かべた。

 どれだけ見つめても、父の表情から何も読み取れないことに、ようやく気づいたからかもしれなかった。


 父子の沈黙を埋めるように、渦のしぶきが遠くから響いてくる。

 今度こそ本当に、曹操は踵を返した。


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