(四)孫仲謀の如く
「兄上、賦ですか」
後ろから覗き込まれて、曹丕ははっと振り返った。
慌てたつもりはないが、人に見せるために書いていたわけではないので、全くうろたえなかったといえば嘘になる。
しかし声をかけてきた当人は―――三弟の曹植はそれに気づいたようすもなく、いつものように気楽な顔で、曹丕がいましがた地面に書いた文字に目を落としている。
渦水を詠んだ賦であった。彼らふたりを含む曹家の兄弟は、父曹操に連れられた墓参りの帰りにこの渦水のほとりをよぎり、父が休息を許してくれたので、思い思いにちらばって渦水を、とりわけその水面に生まれた大きな渦を眺めている。
当初は興奮気味に騒いでいた年少の弟たちも、水草などさまざまなものを飲み込んでゆく渦の底知れぬ深みに畏怖し魅了されたのか、いつのまにかやや静かになり、飽きることなく川面を凝視していた。
危なげなことをしでかす者はいないな、と見極めた後で―――そしてむろん、弟つきの護衛たちも彼らのそばに控えているので―――曹丕ひとりはやがてひっそりとそこから離脱した。
川べりから少し離れた砂地まで来ると、少し逡巡してから馬鞭を取り出し、地面に文字を書き始めたのであった。
そこへやってきたのが曹植である。
「ここは眺めがいいから、俺も何か書きたいと思っていました。鞭で地面に書くのはいい案ですね」
「―――いずれにしても、紙墨がなければ持ち帰れない」
「じゃあ、俺が覚えておきます」
気負いなくそう言うと、曹植は兄の書き下ろした賦を冒頭から読み始めた。
一文字ずつ声に出して読み上げ、最後には満ち足りて反芻するような顔になった。
三弟のこういうところが、曹丕は嫌いではなかった。
「いいですね。兄上らしいです」
「どういうところが、俺らしいのだ」
「目の配り方がこまやかなところです。“微風 起ちて水 波を増す”とか」
曹丕は弟の顔から地面の文字に目を落とした。
曹植の指摘は、彼自身も多少は誇るところではあった。
しかし、衆人をはっと刮目させるような、豪胆にして躍動する表現という点では、自分はこの弟には及びもつかないのだという事実に、思いを致さずにはいられなかった。
「あっ」
ふいに曹植が声を上げた。兄の肩越しに何かを見出したようであった。
「父上が、こちらを見ておられる」
「父上が」
曹丕も思わずそちらを向いた。
たしかに、川辺より少し高い土地に席を設けて休んでいる曹操が、こちらを見下ろしている。
高い樹木の陰に入っているためか表情らしい表情は読み取りにくいが、いくらか興味深そうな顔をしていると言えなくもない。
「ちーちーうーえー!この賦!見えますかー?いーまー子桓ー兄上がー」
「子建、馬鹿、やめろ!」
礼儀の何たるかも知らぬ幼児のように両手を大きく振って父親に呼びかける三弟を阻止しながら、曹丕はそれとなく父親の顔を見上げた。
笑っている。
哄笑とまではいかないが、たしかに口角が上がり目元が下がり、この瞬間を楽しんでいるようであった。
その笑顔が何に向けられたものなのか、曹丕は知りたいと思った。
地面の文字が見えておられるとするなら、賦の出来栄えに対してだろうか。
あるいはそれとも、―――子建がここにいて父上に手を振っている、ただそのことを、嘉しておられるのだろうか。
あの笑顔を向けられる対象に自分が入らないということを、曹丕は当たり前の前提として考えていた。
父親とふたりきりで差し向かいのときは、もうずいぶん長い間、あのような笑顔を向けられたことがない。
「兄上、父上が降りてこられます」
三弟から声をかけられ、自分がその場に固まったままだということに気が付いた。
大した距離でもないので、曹操は早くも目の前に降り立っていた。
視線を下げてかしこまりかけた息子ふたりに対して免礼を伝えると、彼は地面の文字に目を落とした。
「悪くない。子桓の作だな」
曹丕は表情を動かさずこうべを垂れたが、胸の大きなつかえが下りたような気がした。
だが、次のことばが彼の口元をこわばらせた。
「子建なら、この雄渾な流れと渦とを前にして、こうは賦すまい」
そう言って曹植に向き直ると、「詠め」と言った。
兄の賦の横に、自分の賦を書き下ろせということである。
曹植はやや戸惑った顔になったが、従順にうなずき、自身が持つ馬鞭の先を地に向けた。
推敲する必要もないかのように、曹植はほとんど一息で書き下ろした。
それに目を通すと、曹操は喉の奥で笑った。
「おまえ、子桓の作風に合わせてやったな」
「いえ、父上、そんな」
曹植は首を振った。
曹丕はそれを横目に見ることもなく、地面に書かれた賦を食い入るように読み込んだ。たしかに、三弟の普段の作風からはだいぶ離れた、よく言えば細心な、悪く言えばこじんまりとした視点のものであった。
そして、同じ作風をもつ曹丕の賦と競うのではなく、和すように補うように、曹丕の賦からは漏れた景物をそれとなく織り込んでいるのだった。
「まあいい。
―――文と武には、通じるところがある」
父親が急に脈絡のないことを言いだしたように思われ、兄弟ふたりは互いの顔を見交わした。
「状況に応じて力を加減できるというのもまた、実力だ」
「―――はい」
彼らは恭しくこうべを垂れた。
そのようすを見ながら、曹操はふと賦の話題から離れた。
「あのとき―――濡須から撤退する前に儂が言ったことを、おぼえているか」
「濡須」
「孫権が自ら軽船に乗って出で来たり、守りに徹する我が軍中の奥深くまで至っては、悠然と挑発して去って行った、あのときのことだ」
「―――ああ」「それは、むろん」
兄弟ふたりの声がほぼ重なった。
「息子をもつなら孫仲謀のようであってほしいという、あのお言葉ですね」
曹植が快活な面持ちで答えた。
曹丕も思い出し、小さくうなずいた。思い出したというより、忘れたことはなかった。
たとえ自分のことを念頭に置いているわけでなくとも、父曹操が子たる者に何を期待しているのか、そのことを思わない日はなかった。
曹植が今しがた挙げたのは、実際には曹操の語の前半にすぎない。
後半で彼は、つい五年前に投降してきた劉表の遺児劉琮のことを、このように評したのであった。
「それに引き換え劉景升(劉表)の息子など、犬や豚のように凡庸だ」
孫権と劉琮と、自分が近いのはどちらなのか―――父は自分をどちらの側に置いているのか。
あの戦場以来、曹丕がそれを思わない日はなかった。




