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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
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(二)婚家の選択

(そういえば、子建は妻を娶ってちょうど一年か)


 樹下に座を占め(ひじかけ)に肘をついたたまま、曹操はふと思い至った。

 一年前にあたる建安十七年(二一二)の仲春、曹植は数え二十一にして妻帯した。その前年の同じく仲春の時期に、冀州(きしゅう)清河(せいが)の地で彼が自ら見つけてきた妻であった。


 父母が存命でいながら息子が自分で妻を見つけてくる、というのがそもそも異様な事態ではあるが、曹操は結局、一年後の婚礼を視野に入れて先方と婚約したいという曹植の請願を()れた。

 それは、曹丕にはすでに略奪婚という形の前例をみとめていたから、ということもあるが、やはり曹植のことが―――とどまるところを知らぬその才の開花によって日に日に周囲を驚かせ、ほかのどの子どもにもできない形で父としての満足を深めてくれる息子のことが、別格にかわいいからであった。


 しかしむろん、ただ情に流されたわけではなく、さまざまなことを(はかり)にかけたうえで、許可を出したのである。

 曹植が娶りたいと言った相手とは、曹操の幕僚のひとり、丞相府で人事をあずかる崔琰(さいえん)の姪であった。

 崔琰のもとに適齢期の女子がいることすら曹操は知らなかったように、崔琰の家を曹家の姻族に加えるなどとかつて考えたことはなかった。


 崔琰自身はその高潔さと人物鑑識眼とによって丞相府で声望を集めており、その従弟で同時期に出仕してきた崔林(さいりん)という者も、地方や中央の官僚として見るべき治績を上げている。


 とはいえ、彼らの家全体、つまり冀州清河の崔氏一門は、豫州(よしゅう)沛国(はいこく)の曹氏一門とこれまで何のゆかりもなく、それどころか、冀州のなかだけで数えても無名豪族のひとつに過ぎない。


 しかしそのことは、曹操の目には必ずしも短所とは映らなかった。

 実家が非力なむすめを曹植の妻として迎えることは、当面の利益はもたらさないものの、長い目でみれば曹家に不利益をもたらさない。そう直観した。


 史書をひもとくと、この時期の―――曹植が平原侯である時期の曹操は、曹植を自身の継嗣候補として本格的に考えていた形跡はない。

 だが、曹操がいまのところ継嗣として想定している曹丕が万一曹操より先立った場合、代わりに立てるべき我が子は、他ならぬ曹植であった。

 このことに曹操は迷いを持たなかった。


 そして、継嗣となった曹植が曹操没後にそのまま跡を継いだ場合、その姻戚は―――沛国の夏侯氏や丁氏のような、曹操がほぼ同族とみなして別格の信頼を寄せている累代の姻戚以外は―――発言力がないに越したことはない。


 曹操が曹丕・曹彰・曹植の生母である(べん)氏を諸妓のなかから見出し幾人も子を生ませるに至ったのは、抜きんでた容色や歌姫としての技量のみではなく、彼女の人品と聡明さを深く愛したからではある。

 だが、本来の正妻だった丁夫人と離婚した後に、歌妓出身の卞氏を側室から正妻に昇格させたのは、周囲から見れば相当に異例な決断であった。


 曹操がそこまでして彼女をとりたてたのは、むろん、年長の男児を何人も生み、それぞれ卓越した男子に育てあげたから、という揺るぎない功績ゆえである。

 だが、それだけではない。

 卞氏が卑賎の出であること―――彼女の父母より上の世代には庶人しかおらず、卞氏の兄弟やその子らは曹家の姻戚になったことで階層を上昇したとはいえ、士人たちに対して求心力を持つような存在にはなりえないということも、曹操の目には好ましい背景として映った。

 つまり、卞氏の親族たちが政治的な有力者になる可能性も、曹操の息子たちに干渉してくる可能性もほぼないということである。


 他方、曹植の婚姻に関して考慮すべき要素があるとすれば、新婦の出身氏族たる清河崔氏の無名さとは裏腹に、個人の人品と実績により丞相府で重きをなす新婦の叔父、崔琰の存在である。彼はすでに、鄴や許都の士人社会でひとかたならぬ輿望を集めている。

 このような人間は徒党を組みかねないとして、主君の側からはしばしば警戒される。だが、崔琰の無私の人柄は、丞相府でもよく知られていた。

 他ならぬ曹操自身が、彼の私心のなさを身を以て知り抜いていた。


(私心に負ける人間は、あの場であのようなことは言えまい)


 もと袁紹(えんしょう)の属僚であった―――長きにわたる戦乱を通じて冀州の惨禍を隅々まで見てきた崔琰との初めての対話の場を思い出すと、曹操はいくぶん不快な苦みを思い出す。

 だがしかし、死をも恐れぬ信念を貫き、言うべきことを言ってのけた崔琰という男に、畏敬の念をいだいたのもたしかであった。


(―――季珪(きけい)の家ならば、通婚をよしとするか)


 崔琰の(あざな)を想起しながら、曹操はついにその結論に至った。

 崔琰の私心のなさを、曹操は信じたのであった。

 そしてその信頼は、今に至るまで裏切られてはいない。


 曹植が崔琰と姻戚関係を結んで一年になるが、両者が取り立てて親しくなったという話を、曹操は聞いたことがない。

 崔琰は曹植の妻となったむすめの育て親である以上、曹植にとって実質的な岳父といえるが、崔琰としてはその地位を利用しようと考えることもなく、姪の婿とは意識的に距離を置いているのであろう。

 それは曹操にとっては好ましいことであった。


 一方で、曹植が崔琰の一族に特別な関心を持たないのは、一年前に妻として迎えたむすめに早くも飽きたから、というわけではないようであった。

 それは、今回の江東遠征に曹植が彼女を伴わなかった理由にも表れている。


 曹操は自らの妻子だけでなく、すでに妻帯した息子たちにも、従軍の際はできるかぎり自身の妻子を引き連れるように命じてきた。


 婚礼から約八か月後に江東征伐の軍に従うことになった曹植は、本来であれば新婚の妻崔氏も伴うはずであったが、出征までまもなくという時期に懐妊が分かり、大事をとって鄴に留まらせることになったのだった。


 実はその懐妊は誤認であったことが後で判明し、鄴から軍中の曹植のもとへ報せが送られてきたのだが、いずれにしても、子を授かってもおかしくないと当人たちが思い込んだくらいには、夫婦としての実質は維持しているわけである。


(まあ、悪くない兆候ではある)


 曹植が正妻以外の女に第一子を生ませたとしても曹操にとっては慶事に違いないが、やはり長男は嫡出であるほうが面倒は少ない。


 彼自身はかつて、長男でも嫡出でもない曹冲(そうちゅう)を継嗣として立てる考えすら抱いていたが、世の原則から言えば、よほどのことがない限り、嫡出の長男を据えるべきだということぐらいは了解していた。


 嫡出の長男といえば、既に曹昂(そうこう)が亡くなり丁夫人をも離縁したいまの曹操にとっては、曹丕がそれであった。


子桓(しかん)か)


 いま、あの息子が己より先に没したらどう感じるだろうか、とふと思った。

 曹昂や曹冲の死を考えるときの身が灼かれそうな痛みが、再現されるだろうか。

 曹植の場合であれば、考えるまでもなかった。だがその長兄については、明確な答えがなかった。


(子桓がおらず子建のみ残れば、話は早いが、―――)


 そこまで思いかけて、考えるのをやめた。


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