(一)帰郷
「あまり踏み込むな、危ない」
下方から届いてくる声に、曹操は見るともなしに目をやった。
むろん彼に対する呼びかけではない。
長男の―――実際には三男だが、上のふたりが夭折したため実質的に長男となった―――曹丕が弟たちのいずれかに警告しているのだ。
建安十八年(二一三)、仲春である。
昨年十月、曹操は鄴から軍を発した。同年初めの凱旋は漢中からであったが、このたびは江東に割拠する孫権の勢力を標的としたものである。
江東征伐という事業において曹操はすでに苦汁を飲まされており、それだけに派兵は慎重を期していた。
このたびも征討という旗印は掲げながらも、総力を挙げて攻めるに好機を見いだせず、本格的な衝突にはついに至らなかった。
今年に入ってから濡須口にて江東軍とひと月余り対峙したのち、敵方の都督の捕獲などを一応の戦果として、回軍を決したのである。
しかし、長江北岸から鄴に直接帰還したわけではなかった。遠征軍本隊の大部分は鄴に向かわせたものの、曹操自身は親族らといくばくかの部隊を率い、故郷の沛国譙県に立ち寄った。
経路からいっても無理のない移動であり、彼にとっては久方ぶりの帰郷となる。
これまで率いてきた幾度もの遠征において、曹操はしばしば妻子を引き連れているが、今回の遠征軍に身を置く彼の子女たちのうち年少者にとっては、初めて本貫(本籍地)の土を踏む機会になったともいえる。
帰郷の第一の目的は、父祖の墓に詣でることであった。
このたびの江東征伐自体は赫々たる戦績とはいえないが、一昨年の末に成し遂げた関中軍閥の平定は、彼の豊富な戦歴においても特筆さるるべき事業の一であった。
その結果、漢建国の功臣蕭何の旧例に倣った待遇を天子より賜るという、人臣として無上の栄誉に浴することを得たのである。
墓前にひざまずき祖霊にこの人事を報告したときには、さすがの彼も、人の子として一抹の感慨に襲われた。
とはいえ、久方ぶりに譙の地を踏んだことで、彼がより切実に向かい合わされたのは、人の子の親としての感傷であった。
曹丕を筆頭に、現在存命の息子たちはこの土地とは縁が薄いが、すでに亡き長子曹昂はそうではない。
譙の邸宅のいたるところ、厩舎でも射場でも、幼いころから成人に達するまでの瑞々しい相貌が、声変わりする前と後のよく通る声が、曹操の視覚と聴覚のなかで入れ替わり立ち代わり浮かび上がった。
かと思うと、乾ききった黄砂が微風で散らされるかのように、たちまち宙に立ち消えていった。
その幻影をみたからといって、はっきりと動揺したわけではない。近臣たちにも気づかれてはいないであろう。
しかし、長男の死を―――父親を生かすために自ら犠牲になった息子の死をいまだ克服できていないという事実に、曹操はしばしことばを失った。
そしてそのことは、もうひとりの亡き息子―――数多いる子女のなかで最も愛した息子だと彼も自覚する曹沖を失くしたときの、言語に尽くせぬ痛みをも思い起こさせることになった。
墓参りを終えたあと、父子の一行は曹家が所有する広大な荘園の東側、東園と呼ばれる園林に向かった。
譙はさほど行楽に向いている土地とはいえないが、東園の一帯は水系にも恵まれ、比較的景観に優れている。郷愁を呼び覚まされた曹操の発意によるものであった。
妻妾やむすめたちは墓前には参列させたが、その後は邸宅へと直帰させたので、残ったのは曹操の息子たちと男性親族、そして護衛たちのみである。
東園をひととおり見て回ったところで、休息をとることにした。
墓地から移動してこのかた、騎馬で遊覧した距離はさほど長いものではない。
それでも曹操がこうして樹下に馬を停めたのは、この大樹の根元から見下ろせる先の、緩やかに曲線を描く河川の水面に、息子たちが口々にざわめいたからであった。
水面には大きな黒々とした穴が穿たれ、穴を取り巻くように幾重もの輪が生じていた。渦であった。
春先の増水によって、この時期はとくに容易に目にすることができる。
かといって春を迎えたすべての河川で同じほど頻繁にこの現象がみられるわけではないので、やはりこの水の流れに固有の何かがあるのであろう。
淮水の支流たるこの川の名が渦水と称されるのも、古来よりこの川の通過する各地点で渦の発生が多々観測されてきたからに違いない。
この土地で暮らした年月が長い曹操自身には、春先の渦はむろん珍しい眺めではないが、連れてきた息子たちの多くは、新鮮な驚きをもって受け止めたようであった。
その驚きを無碍にすることもあるまいと思い、曹操はしばしの休息を宣言したのである。
川べりのやや小高い位置にそびえる樹木の根元に筵席を設けさせ、眼下の川面を眺めていると、果たして息子たちは馬を降りて思い思いに水辺に近づき、渦の正体を見極めようとするかのようであった。
まだ馬に乗れない年齢の息子たちはその母親や姉妹らとともに邸宅へ帰しているので、後先考えず水に入ってゆくような幼児はこの場にいない。
だが、いましがた曹丕が「危ない」と警告を発したのは、まさにその渦をより近くで見ようと、岸辺から浅瀬へと足を踏み出しかねなかった弟がいるからであろう。
(子文か、子建か)
ふたりの息子の顔が浮かび、曹操は笑いを含みながらやれやれと思った。
ふたりともこの場の年少者というわけではなく、むしろ曹丕に次ぐ最年長者である。
実際に誰が危ない真似をしたのか曹操は見ていなかったが、あれらならいかにもやりかねない、ということでその顔を想起したのだった。
子文は曹彰の、子建は曹植の字である。
ふたりは昔から子どもらしい子どもであり、いまでもどこか子どもじみた大人である、という点ではよく似ていた。
成人に達してなお体力や知力が未成熟であるなら、曹操のような実力本位主義の父親としては大いに失望し、関心を失うところである。
だがこのふたりは、それぞれの得意とする武と文の方面において、世に抜きんでた才能を大いに発揮していた。
それゆえに、曹操は彼らの「子どもらしさ」を愛すべきとみなしている。
(子文の武もまだ、伸びる余地はある)
ふだんの鍛錬のようすに鑑みても、曹彰の武人としての資質は極めて高い。そのうえ曹操がみるところでは、個人の武芸の卓越にとどまらず、部隊を指揮する判断力にも期待できる―――少なくとも今後も成長を見込めるといえた。
しかし、それは一軍の将の才に過ぎないともいえる。大局を見通して全軍を展開させ進退させることはこの息子には難しかろう、と曹操は冷徹に見積もっている。
つまり、曹彰が到達し得るのは、彼が目標とする衛青や霍去病といった稀代の名将ではなく、優秀ではあるが代わりがいる武将、ということである。
(だが子建の文は、別格だ)
三兄弟のなかでは末にあたる曹植は、どちらかというと兄たちのように戦場に身を置きつづけることを理想としており、実際にこれまでもたびたび父の前に膝をつき従軍を志願してきたのであった。
だが曹操のみるところ―――というより、およそ曹植を知る限りの衆人がみるところ、彼の本領はむろん、筆墨にある。
(不世出の、といずれ史書において名指しされるのは、まさに子建ではあるまいか)
曹操が曹植のたぐいまれな文才に気づきはじめたのは、十代前半のころであった。幼い曹植が『詩経』をはじめ古今の名だたる文辞の暗誦に長けていることは、曹操もかねてより知っていたので、子建は自分で創作するようになればそれなりのものが書けるであろう、とは思っていた。
だが、渡された詩賦に目を通してみると、ただ驚嘆するしかなかった。
あまりに出来がよすぎるので、「誰かに代作を依頼したのか」とできるだけ冷静な声で尋ねてみたところ、ふだんは大らかな気性の曹植は、珍しく気色ばんだようになった。そして父の前に跪くと、
「俺がことばを出だせば議論となり、筆を下ろせば文章となります。
どうか面と向かってお試しください。どうして他人に頼んだりいたしましょうか」
と答えたのである。
それは、息子から父に対する返答としては、やや礼を失するほどの語調であり、その場に同席していた五歳年上の曹丕などは、若干眉を曇らせていた。だが曹操はむしろ、その答えを壮快と見なしたのである。
旗揚げ以来の長い歳月、寸暇を惜しんでは天下の賢人を麾下に集めようと努めてきたが、我が子の才に魅了される日がこようとは、曹操もついぞ思わなかった。
その日の驚きはいまも色褪せることなく、むしろ日々更新されているといってもよい。
溢れんばかりの古典の知識に裏打ちされた、しかし年配の碩学には思いもつかぬであろう斬新な表現力と構成力は、ある意味では曹植の「大人らしくなさ」から―――成人してもなお衰えぬ少年らしさから発しているのかもしれなかった。
ふたたび、眼下の川べりから声が上がった。今度は曹丕による叱咤ではなく、だいぶ若い弟たちの歓声であるらしかった。
水面に大魚がはねるのを見出したのかもしれない。
川の中ほどにしぶきを立てる黒い渦のまがまがしさから目をそらせば、のどかな春の午後であった。




