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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河篇 余話(二)
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関関雎鳩(七)

「義姉上と、何を話されたのですか」


「え?」


「全部は教えていただかなくてかまいませんが、もちろん」


「―――ああ」


「いえ、やはり結構です。お忘れください」


「婚約したことを、ご報告申し上げた」


 そうだろうな、とは曹彪も思っていた。

 (あによめ)が最後に見せたあの笑顔は、まちがいなく祝福のそれだった。

 曹植の婚約の成立自体は曹丕からすでに聞かされていた可能性があるが、義弟本人が自身の慶事をわざわざ伝えにきてくれたことを、甄氏は血の繋がった姉のように喜んだのだろう。


「義姉上は何かおっしゃいましたか」


 曹植はしばし黙っていた。

 庭園のいくつかの区画を通り抜け、ふたりが戻るべき客室に近づいてきていた。


「俺の妻になる令嬢は幸運だと」


 ぽつりと答えが返ってきた。曹彪は胸に苦いものを感じた。

 三兄が嫂にどんな反応を望んでいたかは分からない。だが、そのことばはあるいは錐のように鋭く無慈悲に、彼の肺腑の奥深くへ刺しこまれたのではないかと思われた。


 話題を変えようかと口をひらきかけたが、三兄の表情を見て、ふたたび口をつぐんだ。

 その面持ちは意外にも晴れやかだった。

 たったあれだけの挨拶で、積年のあふれるような情念がたちどころに霧消できたとはとても思われない。

 だが、と曹彪は思った。


(努力はなさったわけだ)


 感情の昇華を現に達成できたかどうかは別の話として、ここで区切りをつけるべきだと自ら思い立ち、そのための努力は果たしたのだ。

 それは、三兄にしては確かに珍しい努力であると思った。

 というより、自分を変えるために努力すること自体が、三兄においてはたいそう珍しいのであった。


「兄上もついに、努力することを覚えられたわけですね」


「俺は常に努力している」


 曹植は心外そうな顔をしながら答えた。

 彼の素行を少しでも改善するために日々苦心している属官たちが聞いたならば、耳を疑いそうな返事である。


「たとえば」


「たとえば、そうだな、清河に滞在していた間ずっと、酒は口にしなかった」


「―――そうなのですか」


 曹彪にとっても、この点は少し意外だった。

 三兄は酒豪なだけあって、それほど容易に酒に呑まれるたちではなく、よほど深酒しなければ問題は起こさないはずだが、慎重に慎重を期したということなのだろう。


「失態は見せないように、努力した」


 三兄の語尾が心なしか小さくなったのを感じ、曹彪は内心で可笑しくなった。


(子建兄上でも、いいところを見せたいという気持ちは起こるわけだ。

 ―――その令嬢の前では)


 大体において他人を動じさせるほうであり自分は動じることのないこの兄を、存分に冷やかせる機会というのはなかなかない。

 曹彪は笑いを噛み殺しながら、このことを後々まで持ち出して、酒の肴にしてやろうと思った。


 兄弟は先ほどの客室の外に到着し、戸をくぐった。

 敷居をまたぎながら、曹彪は一瞬ふりかえり、すでに視界には入らない池のほうを眺めやった。

 あの晩の池とは規模もずいぶん違う。雎鳩(ミサゴ)は見当たらなかったが、鴛鴦の一対や二対は生息していそうではあった。


 だが彼の心に浮かんだのは、やわらかな羽毛で庇い合うように連れだつつがいの姿ではなく、あの晩と同じように、池の底に暗い口をひらいた淵のほとりでさまよう一尾の魚だった。

 だがよくみると、魚の影はふたつに分かれた。

 二尾の魚は時に互いを見失いながら時に追いつき、淡く光の差し込む水の中を、隔てられるように寄り添うように泳いでいた。


(―――展転して反側す)


 声に出さずに曹彪はつぶやいてみた。

 かたわらの横顔をそっと見てみる。

 相変わらず晴れやかで、そして穏やかな面持ちをしていた。


 おそらく、三兄は清河の地で崔家のむすめと出会ってから約言を交わすまで、彼女に確かな好意を抱いたとしても、夜通し寝返りを打っては眠りに就けなくなるほどに思いつめたことはなかっただろう。

 求めても得られない、絶望的なまでの渇きに身を焦がしたことはなかっただろう。おそらくは、これからも。


 だが、たとえ抑えがたい情熱に駆り立てられてのことでなくとも、三兄はそのむすめを、己の人生にあるべき色彩だと、迎えるべき伴侶だと思い定めたのだ。

 これまでの七年間に封をほどこし、区切りをつけるべきだと決意するほどに。


 どういった経緯であれ三兄がそういう相手に巡りあったことを、自分も祝福しようと曹彪は思った。


「祝い酒が要りますね」


「お、気前がいいな」


「兄上のおごりですよ」


 弾棋の駒を収めた絹袋を音を立てて振ってみせながら、当然ではないですか、と言わんばかりに曹彪は返した。

 慶事の当人が祝いにちなんで酒食を振る舞うこと自体は珍しくない。曹植も納得したのか、素直にうなずいた。


「まあ、それもそうだな」


「そうこなくては。中山(ちゅうざん)醇酎(じゅんちゅう)でとびきり良いのが入荷したと、鄴城下の商人から聞きました」


「舌が驕りすぎだ。少しは遠慮しろ」


「平原侯よ、何のために五千戸を()んでおられるのですか」


「おまえにたかられるためではない」


 そのとき、中庭に通ずるのとは別の戸口、彼らが最初に入室したほうの扉が重々しくひらかれた。この邸の主、曹丕が帰着したのであった。


子桓(しかん)兄上」


 在室するふたりは立ち上がって揖礼を捧げた。

 長兄は二人を見やり、珍しいな、とだけ言った。

 この二人がそろうことは珍しくなくても、二人そろって自分を訪れてくることが珍しいという意味だろう。


「早くからお邪魔いたしました」


 曹植が殊勝な態度で殊勝なことを言った。曹彪はすかさずそれに乗じる。


「子建兄上が我々に祝い酒をふるまってくれるそうです。

 今日はその宴の打ち合わせに来ました」


朱虎(しゅこ)、おまえ……!」


「ほう。こんなに早くからか」


 曹丕は席に着きながらさしたる関心もなさそうに聞いていたが、ふと思い出したように、「厨房に葡萄がある」と言った。


「葡萄―――子桓兄上のお好きな西域産の果物ですか」


「ああ。それを用いて醸造した酒もある。まだ賞味していないが」


「兄上、感激です。俺のために!」


「誰がおまえのためだ。―――だが、清河から戻って以降、ちゃんとした席を設けていなかったからな」


 祝いの、と曹丕は短く付け足した。


「おまえたち二人、今夜また来い。

 それと、子文(しぶん)(曹彰)にも声をかけてこい」


 兄上愛してる、と言わんばかりに曹植が席から身を乗り出して抱擁しかけるも、曹丕は心底煩わしそうに淡々と押しのけた。

 そのようすを見ながら、曹彪はなんとなく訊きたかったことを口に出した。

 ちょうど今のような、気安く打ち解けた空気の中がちょうどよかろうと思ったのである。


「子桓兄上は、清河で崔氏のご令嬢に―――季珪どのの姪御にお会いになりましたか」


「一瞬だけな」


「どういうかたでした」


「ほとんど何も分からん」


 その一幕を思い出したのか、曹丕はかすかに眉をしかめた。


「子建より背が高いことと―――」


「へえ」


「ほんの少しだぞ。誤差みたいなものだ」


「はいはい。子桓兄上、つづきを」


「―――好き好んで苦労を背負いたがる性分らしい、ということ以外は」


 なるほど、と曹彪はうなずき、こうべをめぐらした。


「なぜ俺を見るのだ」


「子建兄上は運がいい」


 曹植は一瞬きょとんとした顔になったが、そうだな、と大きな笑みを浮かべてうなずいた。


「たしかに、俺は運がいい」


 やれやれ、と曹丕は首を振りながら、侍女を呼びつけて文具一式を運ばせ、(すずり)に墨を擦らせた。

 そして、曹植には推敲なしで最初から清書させるつもりか、木簡ではなく紙を持ってこさせた。


「宴席を設けてやる代わり、何かしたためよ」


 父や長兄から突然に詩作を命ぜられるのはよくあることなので、曹植は別に驚くでもなくうなずいた。


「承知しました。主題は何を」


「そうだな。たとえば、―――」


 課された主題を聞くが早いか、曹植はほとんど迷わずに紙面に筆を下ろした。

 兄と弟が両脇から覗き込む。


 勢いのある文字が躍り、その一部が紙の繊維に滲んでいく。

 最後の句に至るまでのこの緊張感。

 そこに身を浸す楽しさに、曹彪は我知らず瞑目する。

 そして、食い入るように眺める長兄の気配を傍らに感じ、われわれは同じだな、と思った。






関関雎鳩・了






ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

「清河」篇の余話はいったんこれで完結です。

今後はしばらくお休みしてから「兄弟」篇に入る予定です。


もしよろしければ、下記欄から一言ご感想などいただけましたら大変うれしいです。

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