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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(十八)寓居

 邢顒(けいぎょう)らの予想に反して、さらには崔氏ら当人の当初の意向すら超えて、平原侯(へいげんこう)の崔家滞在は数刻の間には収まらないことになった。


 曹植と崔氏が家臣団の一行と別れた地点から、崔氏の邸まではほんの目と鼻の先だったが、なにぶん曹植は全身に水を浴びているうえに、足元を水に漬けていた時間が長かった。


 崔氏とともに彼女の邸の塢門をくぐるころには彼の身体は熱を帯び始めており、屋内へ入っても熱は下がる見込みがなかった。


 結局のところ、服を乾かすための寄り道であったはずが、養生のための滞留とならざるを得なくなった。


「すまんな」


 邸の堂から奥の寝室に運び込まれてまもなく、牀の上で苦しげな息をしながら曹植はつぶやき、崔氏が代筆するというのもかまわず身を起こして紙片か木片を所望した。

 そして、同行の護衛に書き付けを持たせて家臣団のもとへ戻るよう命じると、これでよし、と言うようにたちまち寝付いてしまった。


 護衛が復命したのは西日も沈みかけたころだった。

 崔家の塢から本道までのごく短い距離を考えると、平原侯の家臣たちの間でなんらかの協議が持たれたように思われたが、護衛から差し出された書簡に目を通して崔氏は了解した。


「侯がどうしてもと仰せならば、われわれ一同が参上して枕頭に詰めることは敢て控えさせていただく。

 だが、貴家にてご容態が悪化されるようなことがあらば、何をおいても真っ先にお報せいただきたい」


という主旨のことが、いかにも邢顒の人格をにじませる謹厳至極な―――しかし不安と遺憾と慷慨を一挙につめこんだような筆致で―――記されているのだった。


(平原侯さまは、家臣のみなさまを呼び寄せないことにしたのだ)


 ということは、この邸で平原侯の身辺の世話をする者が必要になる。


(ということは、―――わたしがお側にいても、いいのだ)


 そう思い至っただけで、崔氏はなぜか耳まで熱くなった。

 事情を説明して男性家人の誰かに頼む、あるいは信頼できる使用人に世話を任せるという考えは、このとき彼女の頭にはまったく浮かばなかった。

 何もない邸だけれど、せめて心を込めてお世話をしよう、と思った。








「いい家だな」


 横になったままの曹植から声をかけられて、崔氏は顔を上げた。

 彼の熱は二日目の昼に峠を越えて、三日目のいまは頬の赤みもだいぶ引いているが、まだ微熱はつづいている。崔氏は彼が寝込んで以来ずっと看病についており、いまは枕元で朝食用の黍粥(きびがゆ)をすくおうとするところだった。


「恐縮に存じ上げます」


 朱漆塗りの匙を曹植の口元に運びながら、崔氏は伏し目がちに答えた。それは決して、謙遜というわけではなかった。


 邸内で最も新しくしつらえた賓客用の寝室を選んで彼を休ませたとはいえ、調度らしい調度もない、質素そのものの(へや)である。曹植が身を横たえている大型の(ねどこ)と、その三方を囲むように垂れる黒絹の帳、牀から近いところに置かれた黒漆の(つくえ)、そこに載せられた円い銅鏡と青釉の香炉、銀製の燭台、そして若干の文具を除けば、あとは窓くらいしか目に付くものはない。


 曹植の半身と牀を覆っている鵞黄色の(ふすま)(しとね)だけは襄邑(じょうゆう)産の錦織であるが、崔氏はいままで、これほど高価な品が邸の奥にしまわれていたことさえ知らなかった。


 それは何もこの清河本宅に限ったことではなく、叔父夫婦と暮らしてきた(ぎょう)許都(きょと)の邸もまた、屋舎自体は高級官僚用の構えではあるものの、なかに入れば郷里とさほど変わらぬ趣を呈している。


 曹家も軍閥として発足した当初は、袁家との抗争のみならず多くの困難に見舞われ、経済的に窮することもあったと聞くが、曹植が生まれた年には父曹操はすでに兗州(えんしゅう)刺史の地位にあり、屈強で名をとどろかす青州(せいしゅう)兵もその傘下に収めていた。

 いまではむろん、漢帝を戴く天下の第一人者である。


 弱小なりに地方豪族としてまっとうに農地を経営している自家の暮らしぶりを崔氏は恥じるつもりはないが、物心ついてから何ひとつ不自由ない生活を送って来たに違いない丞相の子息に、暗に「不満はない」と言わせるほど気を遣わせてしまったのが、むしろ申し訳ない気がした。


 ことばどおり恐縮がちに目を伏せている彼女に、曹植はふしぎそうに言った。


「何を言う、恐縮なのは俺のほうだ。ずっと世話をかけている。

 家臣たちを呼び寄せなかったせいで、そなたひとりの手をここまで煩わせることになった。

 いま思うと、子昂(しこう)ら以上にそなたに悪かったと思っている」


「いいえ、そんなことは」


 崔氏は即座にかぶりを振り、そうしてしまってから己の反応の速やかさにやや気恥ずかしさをおぼえ、小さな声で付け加えた。


「何度も申し上げるようですが、風邪をお召しになった原因は、わたくしの粗忽さでございますから」


「つぐないをさせるつもりで、そなたの看護を所望したわけではない」


 匙を碗の中に戻しかけたまま、崔氏はほんの一瞬静止した。


 が、曹植は己の言にさほどの意味を込めたつもりもないらしく、ふっと思い出したようにもとの話題へ返っていった。


「それに、いい家だというのは本当だ。房に余計なものがない。ここから見える庭のしつらえも品がある。使用人たちも抑圧されずに働いている。

 それに、貴家のひとびとはとにかく静かに放っておいてくれる。欲のないひとたちだ」


 崔氏には最後のことばの意味がよく分からなかった。曹植は小さく笑う。


「たいていの人間は、最初は友人として知り合ったつもりでも、俺の身分を知るとこちらが決まり悪くなるほどの歓待を始めて、宴の終わりごろには身内の仕官の口添えやら縁組の仲立ちやらを打診してくるのだ。


 べつにそれが悪いというつもりはない。だがその分、貴家の人々のような恬淡(てんたん)とした応接に出会うとすがすがしさをおぼえる。


 ご宗主(そうしゅ)からも実に丁重に見舞っていただいたが、挨拶以上のことは何も仰せにならなかった。一族の子弟が入れ替わり立ち代わりやって来て俺の面識を乞うこともない。


 父の幕僚の家を訪問して、その家人から父の業績の輝かしさについて仰々しい賞賛を聞かされなかったのは、これが初めてかもしれぬ」


 彼のいう宗主とは清河崔氏宗族の長であり、崔氏の亡き祖父の長兄にあたるひとである。

 崔家の家風そのもののように質実剛健を尊び、世間的な栄達に執着の薄い老人であるが、さすがに丞相の息子を迎えたとあっては全く無視することもできず、曹植の熱が引き始めた昨日の午後、この(へや)へ挨拶を述べに来たのだった。


「そなたが自ら俺を看護することも―――俺がそのように仕向けたことも、あのご老人は全くもって好ましく思われなかったようだしな」


「お許しください。わが宗主に決して他意は―――」


「承知している。同族の未婚の娘が(とばり)も隔てず若い男のそばに侍することを喜ぶ年配者はおるまい。

 だが俺に対しては、というか権力の中枢に近い者に対しては、往々にして方針を改める者がいるのだ。

 自分のむすめや妹がいかに才色兼備かを聞かされて縁談を仄めかされるくらいならまだいいが、遊びに行った先で寝所に主人の妾を送り込まれたことさえあった」


「まあ……。貴顕のかたがたにもご苦労があるのですね」


 崔氏は真摯に同情を寄せたつもりだったが、曹植はくつくつと笑い出した。


「苦労か。そういった苦労ならさほど悪くないがな。あとで責任を負わずに済むならいくらでも歓迎したいところだ。

 ―――だがたしかに、権力に近いというのは難儀なものだ」


 最後のことばを、曹植はひとりごとのようにつぶやいた。

 先ほどまで楽しげな光を宿していた彼の瞳は、いつのまにか静かな色に染まっていた。


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