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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(十七)奔る者 禁ぜず

「そなたらに心配をかけたのは悪かったと思っている。もともとは、俺がいるべき場所にいなかったがために起こったことだ。

 だから、これ以上このむすめを難じるのは止めてくれ。むろん崔家の宗族全体もだ」


 ふたりの家臣は沈黙した。ややあってから、邢顒(けいぎょう)がゆっくり口をひらいた。


「―――今回は、仰せに従いましょう」


「感謝する」


「だが、今後の道中では一切、おひとりで抜け出し遊興に身を投じたりなどなさらぬように。むろん、(ぎょう)へ戻られてからもです」


「うん、まあ、そうだな、努力する」


「―――あの、みなさまがたは」


 崔氏が遠慮がちに口を挟んだ。


「このまますぐに、平原へ向かわれるのでしょうか」


「むろん、この地に留まる理由はない」


 曹植をさえぎるようにして邢顒がきっぱりと言う。


「あの、陋居(ろうきょ)ではございますが、よろしければ我が家にお立ち寄りいただきたいのですが」


「侯のお手当てならば、お気遣いは無用だ。われわれの一行には侍医もいるし、医薬も完備している。

 そもそも出血自体はとうに止まっておられるようだ」


「だとしても、せめて、お召し物を乾かさせていただきたく」


「たしかにまだ濡れておられるようだが、しかし替えは十分にお持ちだ」


「ですが、これもまた、わたくしのせいなのです」


 いままでより強い語気を込めて崔氏は言い募った。

 邢顒のやや面食らった顔に勇を鼓されたかのように、自分でも思いがけないほど滔々(とうとう)とことばが連なり出てきた。


「最初にお会いしたとき、たしかに侯は半ば水に漬かっておられたのですが、全身に水をおかぶりになったのはわたくしのせいですから、せめてお召し物を乾かすくらいはおもてなしさせていただきたいのです。


 それに、お風邪を召しかけておられるように拝察いたします。このままみなさまがたとともに本道に戻られましても、平原の県城はもちろん、ここから最も近い(てい)さえまだいくらか距離がございます。その間に容態が悪化されたりすれば、いよいよ申し訳が立ちません。


 願わくは、しばしの間お立ち寄りいただきたく」


「それは、―――たしかに、心なしかお顔が赤みを帯びておられるようだが」


 表情のいかめしさは変わらぬものの、邢顒がふたたび主君に向けた目には真摯な気遣いが宿っていた。

 やはりこのかたは忠良の臣であられる、と崔氏は思った。


「―――ではすまないが、お申し出に甘えさせていただこう。

 侯に暖をとっていただくのが目下の最善ならば、いたしかたあるまい」


子昻(しこう)どの、ならばわれわれはとりあえずは本道に戻るべきですな。路傍でしばらく休息をとってから、崔家へ侯をお迎えに上がりましょう」


 しばらく黙っていた劉楨(りゅうてい)がすっと口を挟んだ。


「侯をおひとりでゆかせるというのか」


「むろん連絡役として、護衛のひとりくらいは伴っていただきますが」


「だが―――」


「ご令嬢はご厚意から仰せだとはいえ、われわれ一行がそろって身を寄せれば、短い間でもそれなりの物入りになりますぞ。


 あの季珪どののご実家であられるからには、権力への追従からは縁遠いご家風かと思料いたしますが、それでも隣県に封ぜられた列侯の家臣団を受け入れるとなれば、この土地に根を張る豪族としてはおろそかにはできますまい。


 今度こそ侯から目を離すわけにはいかないという使命感は分かりますが、かつてのご同僚のご実家にみだりに負担をかけるのは、いかがなものですかな」


「公幹、そなたやはりいいことを言う」


 曹植がぱっと顔を輝かせた。

 邢顒は彼らふたりを牽制するようにこうべを返し、いよいよ口元を厳しくした。

 だが実のところは、幼さを残した主君の面持ちの鮮やかすぎる転変になかば呆れているようでもあり、なかば諦観に傾きかけているようでもあった。


「―――いたしかたありますまい」


 峻厳さだけは失われない声で、彼はようやく同意を示した。


「とにかく、ご訪問先ではくれぐれも行儀よく振舞われますように。わたくしが申し上げたいのはそれだけです。

 意味するところは、お分かりですな」


「大丈夫だ。このむすめは崔季珪どのの肉親だぞ。

 父上が遠慮をおぼえるほどの御仁だ。俺もあの目で射抜くように見られるのは恐ろしい。不届きな間違いは起こさぬから安心せよ」


 曹植もまた妙に堂々とした口調で請け負った。


 そして護衛のなかから選んだひとりに愛馬の手綱を委ねて後ろに従わせると、案内役の崔氏と並んで歩き出し、何の心配もなさそうな―――だがほんのかすかにふらついているような―――足取りでゆっくりとその場を去っていった。








「いつも思うことだが、そなたは侯とひそかに示しあっているのではないか」


 劉楨のほうを見ないまま、邢顒は独語のようにつぶやいた。


「ことばを用いず、目と目で思いを交わすわけですか。それほど抜き差しならぬ天命で結ばれる相手は、できれば妖冶(ようや)な婦人が望ましいですね」


贅言(ぜいげん)は要らぬ。

 ―――それにしても、全くの奇遇に端を発したとはいえ、われらが侯にあの崔季珪どのの家人が、―――何と言おうか、親しみの情をいだかれるとは」


贖罪(しょくざい)以上の気持ちをお持ちらしいということは、子昻どのもお察しになったわけですな」


公幹(こうかん)、そなたまさか、事の成り行きをおもしろがってあのようなことを申したのではあるまいな」


「そんな不謹慎な。陰徳は積むものだと思っているだけですよ」


「陰徳、―――そなたの提言が万一、あの一門が曹家の姻戚になる道をひらくことになれば、季珪どのから生涯の感謝を捧げられるという意味か。

 あのかたならむしろ、率直な困惑を示されそうだがな」


「それはわたしも承知しておりますとも。

 陰徳というのはつまり、身持ち正しき女子の、ふと咲きほころんだ思慕の情に対してということです。

 ときは仲春(ちゅうしゅん)ですからね。うら若き男女が媒氏(なこうど)を立てず手に手をとって出奔したとて、大いに許されるわけですよ*」


「丞相のご子息が、天下のどこに身を隠すというのだ」


 邢顒の声には相変わらず苦々しさが滲んでいた。


 が、よくよく聞き取れば、その底にはどうやら同僚の()(ごと)を許容するだけの緩みが生まれたようであった。

 そしてふっと空を見上げ、傾きゆく陽光の淡さを愛でるかのように目を細めた。




*『周禮』地官司徒

中春之月、令會男女。於是時也、奔者不禁。

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