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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(十六)吉士 之を誘う

「なんということか。見せていただきたい」


「大したことではない。ここに来るまでに馬を不用意に飛ばして、どこかの枝に裂かれたのだ。

 軽傷だが止血用だ、ほどくには及ばない」


「ほどきはいたしませんが、―――お召し物の切れ目だけでも自明です。木の枝でこうなるはずがない」


「どう見ても刃物ですな」


 無残に裁たれた袖の付け根近くから覗く手巾の赤黒いにじみを見つめながら、劉楨(りゅうてい)もうなずいた。


「お傷は浅いようなのが、不幸中の幸いだが」


「そうだ、大した傷ではない」


「―――あの刀ですか」


 劉楨はそうつぶやくと、少し離れた路傍で鈍い光を放つ短刀を、背後の兵士に命じて取りにやらせた。


「たしかに血がついている」


「そしてこの丈は」


 ふたりの家臣は崔氏のほうを見た。農婦そのままに質素な麻服を地味に装飾するかのように、腰帯には擦り切れた革製の鞘が下がっている。

 それは短い刃渡りを収めるものであり、そして肝心の中身はなかった。


「ご令嬢」


 邢顒が崔氏の顔を見た。先ほどの凝視よりもはるかに剛直な、己のなすべき任をわきまえた官僚の目だった。


「この傷を負わせた者をご存じか。侯は庇いたがっておられるようだが」


「庇おうとしているわけではない。刃を振るったのはこのむすめだ」


 崔氏が意を決して答えるより先に、曹植はきっぱりと言い切った。


「―――ほう」


「なぜ、そんなことに」


「俺がいかがわしいことを迫ろうとしたからだ」


 先ほどと同じくらい堂々とした声で彼はつづけた。

 邢顒の眉間は愕然とひそめられ、逆に劉楨は興がるような顔になる。


矜持(きょうじ)ある女子が貞操を守ろうとするならば、刃を振るったとて非はあるまい」


「それは、―――たしかに、そうですが。

 ご令嬢、それはまことか」


「いえ、あの、それは」


「子昻、他家の女子に恥をかかせるものではない」


 いましがた暴行未遂を告白した男とは思えぬような泰然としたようすで、曹植は尋問に割って入った。


「では、整理いたしますと」


 劉楨がさらに、邢顒と主君の間に入って言う。


「侯はわれわれの一行を煙に巻かれたあと、単騎で平原の方面へ向かわれ、この川辺へ至り、興が乗って水に入ってみたら溺れられ、このご令嬢に助けられ、次いで恩を仇で返すかのように無理強いを試みられたと、こういう次第ですな」


「いわれてみるとひどい話だな」


「まったくです」


「―――侯よ」


 邢顒が劉楨の肩をおしのけて前に出た。こわばりきった顔は色を失い、唇はわななかんばかりになっている。


「一体、―――一体、何をお考えか」


「何というか、魔が差したのだ。

 助けてくれたうえ、春の盛りでもある。俺に気があるのかと思った。

 ほら、“女 有りて春を(おも)い、吉士 之を(いざな)う”*と言うだろう。

 男のほうから挑むべきかと」


「先ほどは惻隠の情(あわれみいたむこころ)によって助けられたとおっしゃったではありませんか。それをどう曲解すればそうなるのです。

 そもそも、仮に好意があったとして、出会い(がしら)に淫事を迫られて応じる女人がどこにおりますか」


「それは言えている。早まって誤解したのがよくなかった。

 辺りに人気(ひとけ)もないことだし、つい勢い余って」


「勢い余って、ではありません。お立場を一体何だと心得ておられるのですか。看過できることとできないことがございますぞ。

 仮にも丞相の子息ともあろう御身がご遊行先でそのような穢行(わいこう)を、しかも丞相府官僚の身内にはたらかれるとは!」


「まあまあ、子昻どの。落ち着かれよ。

 見たところ侯はよくよく反省されて、崔家のご令嬢に詫びられたのですよ。そうでなければご令嬢はとうに逃げ帰っておられる。さようですな?」


 劉楨から急に話を振られて、崔氏はびくりと肩を震わせた。

 平原侯にこのまま恥ずべき罪を着せてはいけない、と焦燥が募る一方で、事実が露呈したときに一族が蒙る処罰の重さが不安でならなかった。


「――――――いいえ」


 ついに崔氏は小さく首を振った。

 ばかな、と曹植がつぶやきを漏らした。

 邢顒が改めて崔氏を見つめた。


「ならば、どういうことか」


「侯は何もなさいません。

 わたくしの心得違いで、侯の御身を傷つけてしまいました。

 まことに、お詫びの申し上げようもございません。

 ですが、わたくしひとりで犯した過ちです。家人はまったく関係ございません」


「たとえそうだとしても、貴女ひとりの罪がどれだけ重いか、分かっておいでか」


「子昻どの、気を鎮められよ。侯が先ほど虚偽を述べられた意味はお分かりでしょう。侯はもう、このご令嬢を咎めるおつもりはないのですよ」


「だとしても、世には法というものが―――」


「もうよいと言っている」


 曹植の一声が争論を断ち切った。




*『詩經』國風・召南「野有死麇」

野有死麇、白茅包之。有女懷春、吉士誘之。

林有樸樕、野有死鹿、白茅純束。有女如玉。

舒而脫脫兮、無感我帨兮、無使尨也吠。


王先謙撰『詩三家義集疏』巻2「野有死麇」には、韓詩説が「有女懷春、吉士誘之」をどう解釈していたかについては言及なし。


曹植はたぶん「毛詩も読んでいるけど韓詩びいきの人」なんですが、『詩経』各学派のうち大半の詩が完全な形で現代まで残っているのは毛詩のみなので、この欄で『詩経』の詩を一首ごとに引用するときは基本的に毛詩のテキストになります。

韓詩など三家詩のテキストを引用する場合は、その旨を記すようにします。

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