8
久世理事長からのちょっとした頼み事を引き受ける羽目になってから半日と数時間が経過して、そろそろ足も覚えつつある通学路を歩く。
空模様とは打って変わって、気分は暗雲が漂う絶不調。
理事長室を辞してからの記憶もあやふやで、恐らくは自分の足で帰宅し、自分の腕で夕食を作り、自分の床に就いているはず。
1人の少女にここまで心中乱され、また1人の少女がここまで胸中を占める事など、まったく予想出来なかった。
悲しいかな、内に抱くのは思慕や恋情の類ではなく、不安と恐怖なのだが。
そもそも友達なんて言われましても。
過去の自分ならともかく、現状ではすっかり縁遠い概念ではないか。
昨日理事長から賜った金言は、実のところ少しばかり、そこそこ、それなりに僕を責めるようにも聞こえた。
立派な人物にはきっと程遠い。
自宅から然程離れておらず、学費が無償となる特待制度があり、有象無象の私学を蹴散らす看板が付いてくる。
周りから一切の反対も無かったし、むしろ選ばない場合における最高の選択肢だと嘗ての担任は言っていた。
そう、単に行けたから行った、それだけなのだ。
学院が高らかに掲げる伝統や誇りに、何の執着も無い。
理事長の持つ理念、明治時代から現代まで脈々と続いてきた学院の柱は、崇高で高尚だ。
それでも今の僕には、抱石や山羊の舌とそう変わらないのだから。
友達なんて言われましても。
詮無い事を頭へ浮かべていれば、いつの間にやら学院の正門を潜り、教室棟へ到着している。
2階へと階段を上り、廊下を右に曲がればすぐに1‐Aの教室だ。
そういえば昨日は午後の授業を丸々サボった事になる。
クラスメイトや担任からどう見られているのだろうか、授業のサボタージュは伝統的不良仕草だよなあ。
実際は不運と踊ってしまった感もあるのだが、妙に罪悪感が湧いてくる。
今週何度目かの溜息を吐き、教室の戸を開いて自分の席を目指した。
先に教室へ着き、談笑しているクラスメイト達と形式的な挨拶を交わす。
互いに発声した4文字には、特に今までと変わったニュアンスを感じなかった。
自分の席へ腰を下ろし、横目に見ても僕を気にする様子も無く、四方山話を続けているようだ。
昨日担任から呼び出しを告げられた時には、クラス内の空気が名状し難い物になっていたが、所詮は他人事、1昼夜で些事と成り果てたのだろうか。
杞憂の故事が浮かぶ中、授業に備えて教科書やタブレットPC等を鞄から取り出しては机に仕舞う。
すると不意に、薄い紙が擦れる音が机の物入れから聞こえる。
過去の配布物かと思い、天板下の空洞へ手を伸ばしてみれば、紙製の何かに触れる。
慎重に引き出し、正体を確かめると、飾り気のない長形の茶封筒であった。
表裏共に何の記載も無く、切手も無い。
郵便番号の枠も印刷されていないそれは、ミステリーボックスと形容するべきか。
箱ではないし、ワクワクもしないけど。
件の茶封筒を開封する段になったのは、昼休みに昼食を終えてからであった。
何かしらの通知、通告を目的とするであろうこれは、開けるまで内容が分からない以上、早急に確認した方が良いのは自明である。
それでも、本当に極めて異常に低い可能性だが、中身がラブレターだったらどうしよう、なんて我ながら思春期過ぎる懸念を抱いてしまい、その場で封を開ける事を躊躇ってしまった。
いや、初めてもらった恋文がオフィス用品に入っていた、というのも嫌と言えば嫌なのだが。
ともかく教室では開封出来ず、微妙に浮ついた心地で午前の授業を受け、数日前に詰将棋を解いたあのベンチで、満を持して開封に臨んでいる。
改めて茶封筒を眺めれば、無骨と言うか、事務的と言うか。
青春だとかロマンスだとか、そういった語群からはかけ離れた外見に、つい乾いた笑いを零してしまう。
いよいよ中を検めてみれば、2つ折りの紙が1枚だけ。
”17:00 1‐A 久世佳乃”
戦時の電報みたいな内容だった。
おそらく集合時間、集合場所、差出人、の順だろうか。
普通は業務連絡でもここまでコンパクトに収めないと思う。
せめて文章にしてもらえれば、あと日付も添えてくれれば。
最近は取り越し苦労ばかりしている気がするな、と自嘲したところで、隅にもう一文ある事に気付く。
”読後は速やかに当文書を破棄されたし”
軍事機密みたいな内容だった。




