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HQからの打電を受け取った僕は、午後の授業を何事も無く完遂し、来たるべきD-Dayまで待機している。
つまりは、指定時刻である午後5時までの微妙な空き時間を、例のベンチで缶コーヒーを啜り、文庫本を範読しながら潰している。
放課後にはカフェテリアとして形態を変え、生徒達で賑わう食堂棟へ行っても良かったのだが、まったく人が通らず静寂に包まれているここが気に入っていた。
騒がしい場所は嫌いでもなかったが、別段好んで選ぶ程でもない。
書籍の中で出てきた何度目かの余談に目を通し終わると、丁度秋の歌が流れる頃合いだったので、A6サイズのそれに栞を挟んで仕舞う。
重い腰を上げる為、両足に力を入れて木製のベンチから離れる。
”げにわれは うらぶれて こゝかしこ”なんて一節が脳裏をかすめる。
艦砲射撃の援護は期待出来ない。
待ち受けているだろう機関銃座をどう攻略するのか、名案も浮かんではいない。
それでも古来より、敵前逃亡は死罪と相場が決まっているのだからやるしかない。
艦首を教室棟へ向け、季節は春だと言うのに、落葉の気分で目標地点へ速力を上げていく。
女の子と学生らしく友達付き合いするって、こんなに物騒で悲壮な事だったか?
時刻は17時丁度、1‐A教室へ上陸を果たすとそこには、長い黒髪をしなやかな指先で弄ぶ、本作戦のターゲットが待ち構えていた。
「待っていたわ。 まずは座ったら?」
何故彼女は椅子へ座っていると言うのに、立っている僕へ上からの圧を感じさせるのか。
やはり強敵であると気を引き締め、佳乃の正面、今はいない誰かの席へ、椅子の角度を変えて着座した。
大義名分だけを与えられても、面と向かって何を話せばいいのやら。
まずはあの指令文へ水を向けてみると、さっそく火蓋が切られた。
「仕方ないでしょう? 貴方の連絡先なんて知らないんだから」
「こうして今無事に対面してるのだからいいじゃない!」
「そもそもこんな事初めてなんだから、作法も慣例も知らないの!!」
「あとなんで捨ててないのよ!!!」
責める様な含みは一切持たせていないつもりだったのだが。
いやこれなんだけど、と茶封筒を見せただけでこんなに盛り上がるのか。
あぁそうか、自分でもこの書信がどこかおかしな物だと思っていたのだろうな。
即ち照れ隠しなのだ、と見当をつけると、白い肌を上気させている様子が少し可愛らしく見えてくる。
ともあれ、問題の解決は容易く可能なはず。
スマートフォンを取り出し、連絡先の交換を提案すれば、不承不承と言った顔で了承してくれた。
僕らが目指しているの友達だよな? 何故そんなに仕方ない感じ出すんだよ。
「それで? お爺様は仲良くなんて言っていたけれど、何をするの?」
呼び出したのそっちじゃん。
突っ込みたい衝動を辛くも抑え、建設的な方向へと思考を巡らせる。
さぁ仲良くしましょう、はい仲良くなりました、なんて単純明快な話でもないのだ。
今更お見合いよろしく、まずは自己紹介から、と言うのも何だか気持ちが悪い。
ふと、理事長から駄賃代わりと交流の取っ掛かりに、として受け取ったマグネット式の将棋セットを思い出す。
埒を明ける為にも、鞄からそれを取り出してみた。
「将棋はイヤ。 もう散々お爺様からせがまれてるのに、貴方もなの?」
そんなに飢えていたのか理事長。
その軽蔑や嫌悪をはっきり前面に出した表情から、祖父と孫娘が交わした微笑ましい遣り取りの数々を読み取る。
最早打つ手無し、最善且つ唯一の手が失われてしまった。
投了も止む無し、我が代表堂々と退場す、なんて馬鹿げたフレーズが思い浮かぶ中、意外にも佳乃の方から新手が示された。
「これだったら、相手になっても良いけど」
そう言って彼女が鞄から取り出したのは、長方形の木箱だった。
木目が美しい表面には、将棋盤と同じように正方形がいくつも描かれている。
だが明色と暗色が配置され市松模様を形成しており、マスの数も将棋のそれより少ない。
ほんの少し得意気に見える表情で佳乃が木箱を開くと、中には明暗2色の様々な駒が収められていた。
つまるところ、将棋に並ぶ、いや世界に目を向ければ将棋をはるかに凌駕する知名度を誇る盤上競技、チェスのボードとピースだった。
「貴方、チェスは出来るの?」
チェスピースを1つ1つ丁寧に取り出しながら、こちらへ声だけで問い掛けてくる。
どう答えてもこの後の展開は変わらない気がする。
もしかしたら、僕に心得が無かったとしても、手解きをしてくれるつもりだったのかもしれないが。
ただチェスに関しては、以前とある児童文学を読んだ時に興味を持った事があり、一応イロハくらいは抑えているつもりだ。
その返事を良しとしたのかそうでないのか、そう、とだけ口にして彼女は駒から視線を外さない。
「それより、わざわざ一式を家から持ってきたの? もしかして最初からチェスをしたかったとか?」
手持無沙汰だった事もあり、うっかり浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまう。
先程までは本来の白磁であった佳乃の顔が、途端に漆器の朱に染まる。
「別に良いでしょう? チェス、好きなんだから」
「貴方だってルールは知ってたんだから問題ないじゃない!」
「そもそもこんな事初めてなんだから、どう接したら良いか分からなかったの!!」
「あとなんで男性なのよ!!!」
今度も責める様な含みは一切持たせていないつもりだったのだが。
それに最後、いきなり僕の性別が批判されなかったか?
あまりの剣幕と理不尽に戸惑い、必死に言葉を探していると、赤らめた顔のままで彼女が小さい声で零す。
「せめて同じ位の女の子なら、まだ少しは話をした事もあったのに。 同い年の男の子となんて、何を話して良いか本当に分からなかったの」
悪い事をしてしまったな。
仲良くなろうと、ちゃんと彼女なりに色々と考えていたのだろう。
真面目に、真摯に、理事長の言葉を受け止めて、変革を始めようとしたんだ。
あのチェスセットは、彼女が悩みに悩み抜いて、踏み出した1歩目だったのに。
自分の無神経を深く謝罪して、歩み寄ろうとしてくれた気持ちに感謝を述べる。
僕の誠意が伝わったのだろうか、佳乃の顔色は未だ変わらずとも、先程までの怒気を感じない事から、なんとか寛恕を得られた様だ。
「白は貴方で良いわ。 学年で1番の実力、見せてもらうから」
盤面に駒を並べ、いよいよ対局の開始である。
入試の成績を持ち出すなんて、案外根に持つタイプなのか。
あと入試で1番だっただけで、チェスは指した事無い。
先手を譲ってくれたのはそれを分かっているからなのか、それとも相当な自信があるのか。
ともかく、今大事な事は、今後へ繋がる1歩目である。
先の展開は未だ見えないが、無論良い物にはしていきたい。
いつの間にか前向きになっている胸中に、自分の事ながら驚きを覚えつつ、万感を込めてe4へポーンを突いた。
そこから1時間程経って、涙目の久世佳乃が、教室を飛び出していったのだった。




