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「すまんかった。 そう怒らんでくれ」
朗らかに笑いながら、理事長は暴れ馬を宥めすかす。
先程までは高位の司祭さながらの威徳を感じさせていたのだが、今は孫と戯れる祖父に戻っていた。
「だがな、賢い佳乃ちゃんなら、今の話を理解できるだろう?」
微笑みをたたえたまま、理事長は問いかける。
怒髪天を衝くといった様子であった彼女にも、思うところはあったようで、不機嫌そうではあるが嘶きを止めてソファに腰を下ろした。
立ったり座ったり忙しいな。
「まぁ話はわかったけどそれで? お爺様は私にどうしろと?」
聞く事は聞いていたんだな、あんなにキレてたのに。
言葉には決して出さないが、意外と聞く耳を持っていた事、今日の中では断トツに殊勝な態度を見せた事に驚く。
今の顰めっ面に対して、殊勝と形容する人物もそうそういないだろうが。
「何かを強いるつもりは毛頭無い。 出来れば毎日を楽しく過ごしてほしい、とは思うがな」
随分と漠然とした話である。
基準になる物が不確かで曖昧な、当人の感情1つだなんて。
佳乃にも困惑の色が浮かぶが、理事長はそれすら楽しむように続ける。
「別に難しく考えなくていい。 つまりは普通の学生のように、友達と遊んだり、出掛けたりして、それを楽しいと感じる、普通の学生になってくれたら良いんだ」
「社会なんて物の大半はな、普通の学生から成長した、普通の大人が集まって構成されておる」
「そんな社会で上に立つ為には、無論特別に成らねばならん。 が、普通を知らずして特別には至らんだろう」
「それにな、社会性の動物である人間は、どう足掻いても1人では生きられん。 人間同士で必ず社会の中、何処かで誰かと繋がっておる」
「孤独を是とするような者が、社会に受け入れられ、馴染んでいく道理は無いだろう」
「社会から認められる立派な人物というのはな、須らく普通を理解して、人の繋がりを理解しているんだ」
「だから佳乃ちゃん。 まずは友達と一緒に遊んでみるんだ。 それから、友達と一緒に楽しい事を探すと良い」
「そうやって毎日を楽しく過ごす事が、何気ない普通の毎日が、将来本物と特別を形作るんだよ」
その表情は、菩薩のようであり、救主のようであった。
家族を想う言葉の意味を、1人の少女へ真摯に伝える老人の姿は、真に指導者と呼ばれる物だろう。
そして、腕を組み、眉間に皺を寄せていた彼女が瞼を開く。
一縷の望みが伝わり、改悛を果たしたのだろうか、真っ直ぐに理事長を見据える瞳には穏やかな光が宿っている。
「そこまで言うのなら、わかった」
今度は合ってた。
本当に良い話だ。
何か大事な事が頭から抜けている様な気もするが、今はこの場の雰囲気に浸っていよう。
理事長も今までの苦労が報われたのだろう、取り分け喜色が前面に出ている。
「と、いうわけだ。 佳乃ちゃんをよろしく頼むよ」
そうだった。
頼まれたの僕だった。
先程まで、それはもう底冷えするような視線を僕へと向けていた久世佳乃と、つまりは友達に?
ホッジ予想やリーマン予想の解決と同程度、あるいはそれ以上に高難度と見た。
生じた苦悩を悟られぬよう、極めて慎重に瞳を動かすと、氷点下の視線が衝突する。
「それじゃ、以後よろしくね。 今日は失礼するわ」
友好的な意志がまったく乗っていない挨拶を残し、寒波の主は理事長室を後にした。
残されたのは恵比寿顔の理事長と、多聞天に踏まれる悪鬼に感情移入しそうな僕。
艱難辛苦は人を玉にするそうだが、玉将は下位が使う慣例なんだよな。




