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「これは困った、本当に困った」
腕を組み、丁寧に磨かれたローテーブルに鎮座している将棋盤を睨みながら、理事長が唸っている。
虎を想起させる雰囲気を纏ったこの老人は、堅牢な穴熊囲いを突破されかけている現状から、斬り合いに持ち込むべきか耐え忍ぶべきか決めあぐねているようだ。
盤上の形勢は置いておき、困惑の度合で測るならこちらの方が勝っている。
何の前触れもなく理事長に呼び出され、いざ対面してみれば将棋の相手をさせられ。
そして昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った後も解放されず、既に3局目に突入している。
他の生徒は今頃、本日最後の授業を受けている頃合いだろうか。
初戦の途中、仕立ての良さそうなスーツを着た女性が訪れ、カツサンドを差し入れてくれたために胃袋は満たされている。
1局指し終われば感想戦を行い、小休止も設けられ、小用に立つ事も無論咎められなかった。
何かしらを賭けた真剣勝負でもないこの対局、いくら連戦といっても然程苦ではないのだが。
学院に通う生徒の身分である僕が、授業を受けず理事長と将棋を指しているこの時間、どのような心持ちでいるべきなのか検討がつかず、どうにも落ち着かない。
「お前さん本当に強いな。 これでも儂、ウォーズで5段なんだがな」
段位を取得する程、普段から将棋指してるのか理事長。
ウォーズ5段がどの程度の実力を表すのか、状況証拠から判断するにアマチュア棋士の中でも平均以上だろうか。
将棋に関してはルールや囲い、定石のような知識は持ち合わせていたが、実際に指した経験は無かったし、そう相手にも伝えている。
動画投稿サイトを徘徊していた折に、プロが解説しながら対局する様子を映した物を何の気なしに何本か見ただけだ。
それでも眼前の虎は僕の実力を認めてくれたようで、多少の嬉しさを感じるものの、趣味や生業ではない事を称賛されても跳び上がる程ではない。
些細な気恥ずかしさと、授業へ出席せず将棋を指している気まずさを解消する為、理事長へ現状の是非を問うてみる。
「この学園の理事長が良いと言っておるんだ、誰も文句あるまい」
「それにお前さんは特待生だ、1回や2回授業をサボったところで大した問題も無いだろう」
方針が決まったのか、理事長が金将を前進させながらそう零す。
何故特待生だと知っているのか、一瞬驚いたが今返ってきたように対局しているのはこの学院の理事長であった。
まさか生徒全てを把握している訳ではないだろうが一部の、それこそ特別待遇を受ける生徒の事を記憶していても不思議ではないか。
授業に出席していない事も正当化されるのかは、判断がつかなかったが。
一旦の回答を得たところで右の桂馬を跳ねさせる。
数手の応酬を経た後、またもや正面から唸り声が聞こえてきた。
「知っておると思うが、ここの偏差値はかなり高い。 並の成績では特待なんて通らんぞ」
「それに初心者でこれだけ指せるんだ。 つまりは自頭が良いんだ。 お前さんが普段から努力しているって事だろうな」
紛れを期待してだろうか、それとも教育者として感じ入る事があったのか、頷きながらそう僕を褒めそやすが、返答に困る。
「いえそんな、家ではご飯を作ったり家の掃除ばかりしてますから、勉強なんて殆どしていませんよ」
普段から授業はきちんと受けているがそれだけで、生まれてこの方授業以外で勉学に勤しんだ事など無い。
毎日の生活で挙げるなら、台所の水垢や風呂場のカビへ注ぐ熱量の方が絶対に上だろう。
夕食の献立を決定する事だってそうだし、妹の舌を満足させる為に行っている日々の創意工夫をこそ努力と称するべきだと思う。
しかし、謙遜の意味を込めての発言だったのだが、仮にも理事長へ向ける言葉としては間違いであった気がする。
名門で通っている学院の元締めに対して勉強なんて殆どしていない、とは失言ど真ん中ではないか。
学生時代に一番力を入れた事は何か、と将来面接で質問された時はなんと答えようか。
そんな今考えても仕方のない事に意識を逸らし、先の失敗をどうにか忘れようとしている矢先、学院に鐘が鳴り渡る。
どうやら本日の授業は全て終了したようだ。
「参った! 完敗だ! こうもやられるとは!」
口角を上げ、目尻を下げながら理事長が宣言する。
チャイムが対局時計と同義なのかはわからないが、とりあえず3局目も無事終わったようだ。
時折射殺すような視線を盤上に送っていた正面の勝負師も、満足したのか破顔している。
「単に将棋を指したかっただけなんだが、まさに望外の喜びだな!」
単に将棋を指したかっただけで、監視カメラの映像を確認させて捜査線張るし、学生から授業を取り上げるし。
周りにいなかっただけで、上流階級に属する人物というのは皆こうも型破りなきらいがあるのだろうか。
ともかく一連の心配事が全て片付いた事に安堵の吐息を零すと、理事長が再びデスクの内線へ向かって給仕を要請していた。
「お茶と菓子を持ってきてくれるか。 いや、3人分だ。 そう、佳乃ちゃんを呼んでほしい」
これで晴れて自由の身かと思いきや、まだ解放されないらしい。
察するに、更に1人交えてお茶会でも催すつもりなのだろうか。
そして佳乃ちゃんを呼ぶ、と聞こえた。
この名前に心当たりはある。
確か同じクラスだったか、何より理事長のお孫さんが同じ名前であったはず。
入学から今日まで、まったく関わってこなかったせいなのか、彼女の姿が脳裏に欠片も浮かばない。
何故今この場へ呼ばれているのかもわからない。
圧倒的に情報が足りず、推理は難航する。
新手を呼んでまだ指し続けるのか、まさか今度は2面指しをするつもりなのか、流石に2人を同時に相手するのは厳しいのではないか。
脳味噌をフル回転させても結論は出ず、戻って来た理事長が楽しそうに感想戦を始めたので、推理を披露する事も無かった。




