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「伊能、伊能灯人」
朝の連絡事項を伝え終えた担任が僕を呼ぶ。
始業前の僅かな時間、談笑していたクラスメイトが何事か、と声を潜める中、教壇へ向かう。
「理事長がお前を呼んでいるそうだ。 昼食を取った後でいいから昼休みに理事長室へ向かうように」
「はい?」
予想だにしていなかった内容に疑問符を浮かべる事しか出来ない。
竜胆学院を運営する学校法人、そのトップが一体何故。
疑問に答えを出す前に、忘れるな、と念押しして担任は教室を後にした。
クラスメイトにも担任の声は届いていたようで、俄かに静まり返った教室の中には困惑の空気が漂う。
授業開始を知らせる鐘が鳴るまでの間、そしてその鐘が都合8回響き、昼休みの開始を告げるまで、1‐Aの教室は形容し難い雰囲気に支配されていた。
突然湧いてきた特大の心配事を抱えたまま昼食を取る気にはなれず、昼休みが始まると真っ直ぐ中央棟3階の理事長室を目指した。
一番の懸念は特待の取り消しだが、まだ入学して1週間と少し、成績の悪化を指摘されるような事は無いはず。
非行を働いた覚えも無く、いきなり学費の無償化が無かった事になる事態にはならないだろう、と自分に言い聞かせる。
逆に称賛に値する事をした覚えも無いし、更に言えば教員や校長を超えて理事長からの呼び出しに紐づく行為に、心当たりがまったく無い。
結局、重厚な理事長室の扉を目にするまでの間、疑問と不安とが膨らみ続けた。
覚悟を決め3度木製の扉を叩くと、奥から入室を促す声がする。
「失礼します」
今までの人生で1番重たい扉を開き入室すると、深い赤色のカーペット、高級そうなソファとローテーブル、アンティークと思われるデスクが順に視界へ入る。
そして西洋の典雅な内装でまとめられた部屋の奥、深い歴史を感じさせるデスクの向こうに掛けていた男と目が合った。
部屋の雰囲気と真逆の和装を纏い、この威厳を感じさせる佇まいをした初老の男以外には誰もいないようで、それならば今対峙しているのが理事長なのだろう。
暫定理事長の元へ数歩進み、頭を下げる。
「伊能灯人、只今参りました」
何がそうさせたのか、時代劇の一幕のような挨拶を述べてしまった事に気恥ずかしさを感じていると、暫定理事長が立ち上がった。
「よく来てくれた! 立ち話もなんだ、こっち来て掛けなさい!」
暫定理事長は何故だか喜色を浮かべながら黒柿色のソファへ移動し、手招きして僕にもソファを勧めてきた。
先程の芝居じみた挨拶が琴線に触れたのか、それとも別の理由があるのか、想定していない自体が続く事に困惑しながらも、向かいに腰を下ろす。
「入学式には顔を出せなかったからな、改めて自己紹介しよう」
「儂が久世通行、竜胆学院の理事長である」
良かった、理事長でなかったら本当にキャパを超えていた。
目に映るのは整えられた白髪、鋭気に満ちた眼光、隙の無い着こなしの和装。
これで偉い人じゃないよ、などと言われてもまず信じないだろう。
いや、暫定理事長が理事長に確定しただけで、特に事態は解決していないのだが。
「随分と早かったな、ちゃんとご飯は食べたのか? 食事を抜いても良い事は1つも無いぞ!」
役職から受ける威圧感とは裏腹に、目の前の理事長は笑顔でこちらを迎えたり、昼食の心配したりとどうやら良い人であるらしかった。
正直に昼食を取っていない事を白状すると、理事長はそれはいかん、とデスクの内線でどこかに連絡を入れた。
どうやら食事を手配してくれたようで、思わぬ厚遇にますます困惑が深まる。
兎にも角にも自分が呼ばれた理由をはっきりさせておきたかったので、お礼もそこそこに本題へと取り掛かる事にした。
「これを解いたのはお前さんだろう?」
理事長が懐から取り出した1枚の紙を見れば、2日前の雨の日、気まぐれに解いた詰将棋が載っていた。
自分が記した回答も残っており、紛れもなくあの掲示板にあった物だと示している。
「これ儂が貼ったんだよ。 いつも散歩がてら誰かが解いていないか確認しててな」
「昨日の朝な、見たら答えが書いてあったもんで、急いで監視カメラの映像を確認させてな、回答したのがお前さんだと断定出来たんで呼び出した訳だ」
説明をされたのに理解が及ばなかった。
あの詰将棋は理事長が用意したもので、それを解いたから呼び出されたと。
やはりわからない。
何かのテストだったのか、将棋の心得がある生徒を集める必要があったのか。
まったく腑に落ちない答えを受け止め、消化しようと唸っていたところ、理事長は再びデスクへ向かい引き出しから何かを取り出していた。
「誰も将棋の相手をしてくれなくてな、対局相手を探しておったのよ」
「詰将棋が解けるなら将棋を指せるだろうし、将棋好きでもなければわざわざ回答したりもしないだろう?」
詰将棋は理事長の対局相手を見つける為の撒き餌だったようで、僕が喰いついたからこうして巻き上げられたのか。
将棋好きと誤解された事以外は、一先ず深刻な事態に陥ってはいないようなので安堵していると、将棋盤を持った理事長が向かいに戻ってきた。
「それでは1局、お相手願おうか」




