2
昼過ぎから降り出した雨は次第に雨脚を強め、今や横殴りに打ち付ける雨粒がズボンの裾を濡らす程になっていた。
正門は下校する生徒を迎えに来た車両で混雑しており、普段は直立している警備員も今日ばかりは雨合羽に身を包み、忙しなく動き回っている。
そんな中を傘も差さずに突っ切るつもりは微塵も無く、かといって待てば迎えが来る訳でもなく、晴れ間が覗く事に賭け、サイの目が出るまでの間雑談に興じる友人もいない。
つまりは、暇を持て余していた。
私立竜胆学院大学付属竜胆学院高等部。
明治時代から続く名門大学の付属校であり、先週晴れて特待生として入学を果たした新たな学び舎。
中等部と高等部の校舎が併設されている事を差し引いても、学院の敷地はやたらと広大で、雨を避け各棟を繋ぐ渡り廊下をおもむろに進むこと20分程だろうか。
ふと気付けば、まったく見覚えの無い景色が広がる一帯に辿り着いていた。
つまりは、迷子になっていた。
どうせ暇なのだから、と学院の敷地を探索する事にしたのだが、棟内ならまだしも屋外に目を引くような刺激的な物はついぞ見当たらず。
大きく変化しない風景を横目に、取り留めの無い事を考えながらただ漫然と足を動かしていた結果である。
機能的でかつ優美な、たとえるなら高級なマンションや大企業のオフィスタワーだろうか、洗練された各棟の内観とはかけ離れた一画。
錆の付いた自販機に、隣接された木製のベンチ、そして腐食こそしていないものの歴史を感じさせる掲示板。
渡り廊下の終わりには、兼好法師や松尾芭蕉が小躍りしそうな寂びに満ちた空間があった。
自販機から缶コーヒーを取り出し、汚れておらず、濡れてもいない事を確認したベンチへ腰を下ろすと、自然と息が零れる。
時間と体力を無為に消費した事もそうだが、入学から今日に至るまで感じている疎外感が気分を落ち込ませる。
外部から高難度の入試を受け入学を果たした自分とは違い、新入生の殆どは中等部からの内部進学者である。
高額な学費でも知られるこの学院の生徒は、自然と裕福な家で育った者が圧倒的多数を占める。
そういった上流階級と形容される彼らは、入学前から親のお仕事や習い事等、何かしらの繋がりを持っている事も多い。
入学式を終え振り分けられたクラスに向かう道中、まだ見ぬクラスメイトへ繰り出す初手を数パターン考案していたが、いざ教室に到着してみればこさえた腹案は全て消し飛んだ。
初対面の人物と会話する時に生まれる緊張感、互いの人物像を探り合う穏やかな情報戦、想像していた初日の光景は無く。
落ち着いて今年もよろしく、と気安く挨拶を交わす彼らを、教室の扉に備えられた小窓越しに見た時に受けた衝撃は未だに忘れ難い。
出鼻を挫かれ、意気消沈しながら教室に入った僕に向けられたあの視線、あの表情だって覚えている。
外部入学者、そして特待生。
それは、去年の続きが始まる新入生と新しい1年を始める新入生とで、既に別れている両者を更に引き離す大きな溝だった。
「それはそうだよなぁ」
ため息交じりに一人ごちる。
入学先の事をもちろん知らなかった訳ではないが、完璧に実態を掴んでいた訳でもなかった。
あれから1週間、ずっと居心地の悪さを感じている。
幸いクラスメイトから邪険に扱われたり、いじめられたりという事は無かった。
むしろ気にかけて声を掛けてくれた者だっていたが、一般家庭で育った僕は彼らと共有できる話題を殆ど持っていない。
生まれ育った環境が違うのだから、そこから形成される価値観だって当然違ってくる。
そのズレた価値観と既に構築された上級の関係性を乗り越えて、友誼を結ぼうとする積極性が備わっていなかったのだ。
沈む気分を振り切ろうと、手に持つ缶コーヒーから視線を上げてみれば、正面には古めかしい掲示板。
そこには1枚だけポスターのような何かが掲示されている。
黒のインクのみで印刷されたと思わしきそれには81マスに区切られた正方形。
配置された銀や香の文字、そして5手詰めとの記載、どうやら詰将棋のようだ。
将棋部が勧誘のために作ったのだろうか、しかし問題と回答欄以外は何も記載されていないその紙面が勧誘の意図を持つとは思えない。
そもそも将棋部なんてこの学院にあるのだろうか、色々と疑問が浮かんだものの、空き缶をゴミ箱へ入れると同時に、自然と意識の大部分は駒の配置へ注がれていった。
考えることおよそ数秒、あっさりと回答を出す事に成功し、ほんの僅かな達成感を得る。
別段将棋を普段から嗜むような生活は送っていなかったが、短手数の詰将棋程度なら労せず解ける程度の知識はあった。
問題を脳内で解いたその時点で既に興味を失ってはいたのだが、たまたまブレザーの胸ポケットに入っていたボールペンの存在に気付くと、それを使い回答欄に手順を記した。
大道詰将棋でもないのだから賞品が出てくる事もない、だというのに律儀に回答を書き込んだ理由はわからない。
元々暇だったのだし、敢えて言うなれば気まぐれだろうか。
詰将棋を解いた事で、気分を沈ませていた些事も頭から抜け、思考が切り替わる。
そろそろ正門を賑わせている車も数を減らしているだろう。
走って帰宅すれば、シャワーを浴びてから夕飯の買い物へ行っても普段通りの時間に夕食を仕上げられるはず。
あまり手間のかかるメニューはやめておこう、冷蔵庫には何が残っていただろうか。
今度は自宅の台所へと意識を飛ばしながら、渡り廊下をおもむろに戻っていった。




