De Desiderio Iusto
それからの二ヶ月を、セリウスはただ穏やかに過ごしていた。
数日に一度各村から報告が入ると、彼は説教をするでもなくただ話を聞き、彼ら自身の不安や懸念を言葉にさせた。セリウスは、彼らの紡いだ言葉の中から、本心の様なものをひとつひとつ丁寧に拾い上げる。具体的な助言をしたわけでもないのに、いつの間にか自分たちで答えに辿り着くよう、静かに場を整えていた。
すごい人だ、と思う。
誰かを否定することも、正しさを押しつけることもない。それなのに、話し終えた人々の顔は、来たときよりも少し軽くなっている。
ニコルはいつも少し離れたところから見ていた。
だから、つい考えてしまう。
自分はこれからどう生きるべきなのか。この力に目覚めてから、ときおり自分が自分でなくなるような感覚の正体は、何なのか。セリウスに話せば、きっと整理された答えが返ってくるのではないか、と。
——けれど。
その考えが浮かんだ瞬間、ニコルは小さく息を止めた。
彼は、誰かの人生を決めるためにここにいるわけではない。
それは、ニコル自身が一番よく知っていた。
セリウスはいつも線を引いていた。
優しく、丁寧に。けれど、決して踏み越えない線を。だからもし今、自分が言葉を投げれば——それは「教えてほしい」ではなく、「決めてほしい」になってしまう。
その重さを、彼に背負わせてはいけない。
「ニコル?」
声がして、弾かれたようにニコルは顔を上げた。
「大丈夫?顔色が優れないね」
「え……そう、ですかね?昨日夜更かししたからかな」
返答に困ってこめかみを掻いた。
セリウスは椅子を引いて立ち上がると、「ちょっと触るよ」と許可を取る。
ニコルが黙って肯首すると、セリウスの冷たい手が彼女の手首に触れた。
「……へ?」
単に、脈を測る所作だった。
だが、ズゥンと鈍い感覚があり、胸の奥底に雫が落ちるあの感覚がして、思わず声が出た。
セリウスは弾かれたように手を離し、「ごめん」と一歩下がる。
別に今更何かをするような男だとは思っていないのに、とニコルは思った。
「……覗くつもりはなかったはずなんだけれど」
「今、何をしたのですか?」
聞かなくても、自分の中を見たのだろうと何故か分かった。
セリウスは答えるより先に「気持ち悪かった?」と眉を下げて問う。
「いえ、……少し、変な感じですが」
そういえば。
「……あ、じゃあ、あの時のも……」
乗馬の為に手を貸してくれた時も不思議な感覚がしたことを、今になって思い出す。
「……ベアラーは、互いの泉が共鳴するみたいなんだ」
とセリウスは自身の胸を指差して言った。その言い方は、知識としてというより、経験から得た推察に近い。
「勝手に見ないように、と思ったんだけど……、意識しすぎたのがいけなかったみたいだね」
困ったように眉を下げ、男はもう一度「すまない」と言った。
「え……はい」
ニコルがぎこちない返事になったのは、先ほどまでの甘えまでもを見抜かれたのではと、内心ドキリとしたからだ。
「綺麗な泉だね」
セリウスは短く、そう評した。
それは、確かにニコルの中に宿っている。まだ湧き出したばかりの静かで透明な水面。
心は今も揺れているというのに、セリウスには綺麗に見えたのか。
その事実がくすぐったくて、それと同時に——ほんの少し切なかった。
『泉が共鳴する』という言葉通り、セリウスに泉を覗かれる事はあっても、思考まで知られることはないらしい。そのことにニコルは小さく安堵したが、すぐ別の考えが浮上した。
(なら、あれは……)
先程、ニコルの脳裏に飛び込んできたイメージは、自分のものとは明らかに異なる泉だった。
「やっぱり、少し疲れて見える。後はいいから今日はもう帰りなさい」
しばらく黙って思案するニコルに、セリウスは尚も的外れな心配をしてくる。
一見淡白そうに見えるのに、こういうところが可笑しい。
「先生。やっぱりわたし、今でも考えは変わりません」
ニコルは顔をスッと上げ、唐突に告げた。
「……」
「自分の力が役立てられるならそうしたい。でも、大好きなこの村とも家族とも離れたくない」
「……うん」
「だから……どっちも叶えられるように、わたし頑張ります」
セリウスはその水色の目を見開いたあと、一拍遅れて「ふはっ」と吹き出した。
「うん…、うん」
「馬鹿にしてます?」
男は肩を震わして笑っていたが、ニコルにそう問われると、首を横に振って言った。
「ううん……素敵だ」
セリウスは一度視線を下げると、
「……実に真っ当な欲だ」
ポツリと、そう言う。
その言葉の裏には、セリウスの弱音が滲んでいた。
彼の『欲』は——真っ当ではないのかも知れない。
なぜ、いま彼だけが理の外にいるのか。
なぜ、王国と教会はまるで初めから彼が存在していないかのように黙認し続けるのか。
それを——誰も教えてはくれない。
誰も語らない。
彼自身でさえ。
それでもニコルには、その欲が誰かを傷つけるものには思えなかった。
静謐で青白い光——。
セリウスがニコルの泉に触れたとき、ニコルもまた、セリウスの泉に触れていた。
浅く透き通るその水底には、別の温かな光が幾重にも重なり、無数にできた疵を静かに堰き止めていた。
それでも堰き止めきれなかった疵からは、淡く儚げな光が滲み続けている。
——それは、いつも穏やかに笑う彼そのもののようにニコルには思えた。
*
約束の二ヶ月が過ぎた。
ニコルは最後まで手伝いたいから、今日までセリウスの傍にいた。
意外だったのは、ビアトリスが北方管区の枢機卿に、ベアラー保護の在り方ついて干渉したことだった。
村長の姪とはいえ、たった一人の娘の為にだ。
だが、結局それについては、ただの一度もセリウスに伝えてくることはなかった。
任期を終えた最後の挨拶の場でも、彼女はただ揶揄うように「旅の資金が尽きたらいつでも頼れ。仕事はあるから」と笑うだけで。
(ビー。……随分と思い切ったな)
統治者として正しいかどうかで言えば、正解とは言い難い。だが彼女らしい、とも思えた。
診療所の裏手、夕方の空気が涼しくなり始めた頃だった。
「——先生」
声を潜めて呼ばれ、セリウスは振り返る。
ニコルは一度、言葉を探すように唇を結び、それから、こそっと耳打ちする。
「実は……私、恋人ができたんです」
あまりにも唐突で、セリウスは一瞬、言葉を失った。
「……そうか」
間を置いて、セリウスはそれだけを返した。
それはニコルに渡してやれる最適な言葉を持ち得なかっただけだったのだが、彼女はそうは思わなかったらしい。
「あ、でも村に留まりたいって言ったのは家族や村のみんなが好きだからですからね?……恋人は、その後に出来たので!」
と慌てて取り繕った。
「……その、診療所に出入りしてた人で。前から顔見知りではあったんですけど」
ニコルは少し照れたように笑ったが、すぐに気を引き締める様にスッと表情を切り替えて続けた。
「力のことも、全部話しました。それでもいいって」
「……それは」
そこまで言って、言葉が途切れた。
図書館で目にした古い記録が脳裏をよぎる。
人が人を守ろうとして、情が使命を歪めた記録。
それでもいいだと?そいつは本当に、理解しているのか?
これから先も、その覚悟は揺るがないと言えるか?
そんな問いはいくらでも浮かんだが——
(何様のつもりだ)
それを口にする資格は、自分にはない。
ニコルに都合のいい夢を見させてしまったのは、自分が欲張った所為だ。だが、だからと言って安易に心配を言葉にしてしまうのも驕りのような気がして——。
(……余計なお世話だ)
もう、十分だ。
否定も肯定も——するべきじゃない。
セリウスは結局、何も言わずにただ頷いた。
「これから領主様が教会へ同行して下さることになりました。どうなるかはわからないですけど、村での生活が続けられるか話をしてみるつもりです」
ニコルは——どこか清々とした表情で続けた。
セリウスの許可を求める言葉でもなく、決意という程大仰なものでもない。もっと、生活の延長線にある当たり前の選択を、ニコルは穏やかに提示していた。
「……そう、良いんじゃない。君が選んだんだから」
セリウスの口から出た言葉は、ただの生活者としての感想だった。
自分の生活を、自分の感情を、誰かに預けずに決めたこと——その事実そのものに向けて。
「先生、ありがとうございました」
「……ううん。こちらこそ」
季節は、冬に差し掛かっていた。
風が強く吹いている。
これから来る厳しい季節も、きっとニコルは前を向いて生きるのだろう。
では、私は——。
*
そのわずか数週間後、若き王弟はリュミエール公の館を訪れていた。
冬の到来を告げる冷たい風が庭園の噴水を揺らし、石畳を踏む足音が澄んだ空気に響く。
先を急ぐローワンの瞳には、柔らかな光と同時に、確かな目的意識が宿っていた。
館の扉が開くと、従者たちは即座に動き、行く手を整える。
王弟は無駄な挨拶も形式も省き、用件を告げるように一歩前へ出た。この訪問は、単なる表敬ではないことをその出立ちが示していた。
ビアトリスは、数年前の披露目の席で見た少年王弟の面影がもはやそこにないことに、内心で感嘆した。
「予定よりお早いお出ましでしたね、ローワン殿下」
「急かしてしまいましたか。すみません」
ローワンは軽やかに笑い、丁寧に一礼する。
二番目の兄と似た顔立ちだが、笑ったときの印象はまるで違う。人好きのする雰囲気は、どちらかといえば現王アーサーに近かった。
「もしかしたら、師にお会いできるのではと思いまして……少々、急いてしまいました」
「師……?」
一瞬考え、すぐに思い至る。
「ああ、モルフォンド卿か。ふふ、アルヴェルからは保護者と聞いていたから」
ビアトリスの言葉に、ローワンは「あの人は……」と、少し大袈裟にため息を吐いてみせた。
ビアトリスはくすくすと心底可笑しそうに肩を震わせた後、
「まさか……師匠の動向を探っておられるのですか。王宮はもう手を引いたものとばかり思っていましたが、何かご意向が?」
と問う。脳裏に、セリウスが王宮を去ったあの日の出来事が思い出されていた。
若き王弟自らが動く理由は何なのか気になったが、ローワンは小さく笑って首を振ると、淡々と当たり障りのない回答を寄越す。
「いえいえ、ほんの現地調査です。王宮を離れた御子という存在が、他のベアラーや市井の人々に、どのように受け入れられているのか……それを、この目で見ておきたくて」
「……そうですか」
実年齢以上に落ち着いた物腰。その無邪気そうな笑みの奥は、どうにも読み取れない。
ビアトリスは一度考えるように視線を落とし、それからローワンを見た。
「あいにく、モルフォンド卿は数週間前に発ちました。
でもそうですね……。彼がここで何をしていたかについては、中央診療所の者にお聞きになるとよろしいでしょう。後ほど、ご案内いたします」
「それは、ありがとう存じます」
ローワンは朗らかな笑みでそう返した後、従者の案内に続いて部屋を去った。
ビアトリスは腰掛けに凭れると、天井を仰いでもう一度思考を巡らした。
あの日から——王宮は御子セリウスについて黙秘し続けている。あの場にいた諸侯に対しても緘口令を敷いたはずなのに、なぜ今になって王弟自らセリウスを訪ねて来たのか。
過保護なアルヴェルが差し向けたのではないらしいが、だからと言って弟王弟自らが連れ戻しに来たのでもないだろう。
全くの勘だが、あの青年がセリウスを慕う気持ちに嘘は感じない。
(だとすると……アルとセリウスの預かり知らぬところで何が起きている?)
その瞬間、ある娘の顔が脳裏をよぎった。
……まさか。
「なあ、あの娘はまだ診療所に出入りしているのか?」
ビアトリスはパッと顔を上げ従者に問うと、返事も待たずに続けた。
「やはり私が案内する。馬の準備を」
*
中央診療所の所長の紹介で、ローワン一行は領内の村々に点在する診療所を見て回るはずだった。
「公、お忙しいのにわざわざすみません」
まさかビアトリス自らが自分たちを連れて案内するとは。純粋に驚きもしたし、何より警戒されている理由が分からず、ローワンは少なからず戸惑っていた。
「セリウス先生ですか……正直に言えば、厄介な人でしたよ」
最後に訪れた診療所で、定型の質問にそう零したのは、まだ若い医師だった。
その背後で、同僚が堪えきれずに笑う。
「教えるために来たはずなのに、指導らしい指導はほとんどしないんです。かと思えば、こちらが何か間違えると、『正気か?』って顔をするし」
肩をすくめてそう言った彼を、隣にいた者が肘で突く。
「その度、お前は何度も噛みついてたよな」
「おい、やめろ」
「そうそう、あの女性の傷だって、細かく縫えってプレッシャー掛けられてた。セリウス先生の力を使えば簡単に治せただろうに」
「医者として真面目にやれってことだろ」
そんなやり取りを、ローワンは自身の過ぎ去った日々を思い返しながら聞いていた。
優しいが容赦のない雰囲気が手に取る様に分かって、小さく身慄いする。
(相変わらずだ)
和気あいあいとした思い出話が続いていたが、ふと一人がトーンを落として打ち明けた。
「……正直、最初は怖かったんです。実際ベアラーに会うのも初めてだったし、それにほら……真っ白で、現実感がないって言うか」
冗談めかした口調に、当初の緊張がわずかに滲む。ローワンは内心むっとしたが、その医師が『悪魔』と言わなかったので、拳を僅かに握り込むだけで済んだ。
医師はしみじみ思い返すように視線を僅かに上げて続ける。
「あの人は人智を超えた力を持っているんだろうけど、でも、ただの一人の医者でありたいんだって……気付きました」
「へえ。随分知った口を利くようになったな」
「あんなにセリウス先生に嫌味言ってたくせにな」
「シー!言うな、それを!」
笑いが起こり、場の空気がふっと和んだ。
異能を持つ御子。
白い悪魔——。
だが、彼を知れば知るほど、恐れや偏見は静かに剥がれ落ちていった。
ただ静かに群れから離れて立っていたはずなのに、いつの間にか彼らの中心に置かれ、その背中を追われている。
同じ医師として、同じ人間として。
(……やっぱりセリウス様は、セリウス様なんだ)
ローワンは胸の奥で、静かにそう思った。
そこへ、診療所の奥から一人の女性が姿を見せた。包帯や器具を抱えた、いかにも手伝いといった風体だ。彼女は、室内に足を踏み入れた瞬間、ぎょっとしたように立ち止まる。
「えっ?あ、すみません……!ご来賓のご案内中とは知らず」
目の前にいる場違いに身なりの良い貴公子の姿に、彼女は何が起きているのか理解するより先に、反射的に一歩退き、壁際へと身を寄せた。
若手医師の一人が「ああそうだ」と何かを閃いた様に声を上げる。
「殿下。彼女はセリウス先生の滞在中にお手伝いをしていた子ですよ。普段の彼の様子はニコルさんからお聞きになると良いかと」
それを聞いてローワンは一瞬目を細め、
「へぇ、それは」
一歩、前のめり。
王弟という肩書きを完全に忘れた距離感に、ニコルのみならず、ビアトリスも一瞬どきりとしたが、
「殿下」
すかさずエドガーが背中を掴み、慣れた手つきで元の位置へ引き戻す。
ローワンは抵抗するでもなく、「えへへ」と照れたように笑った。
「ああ…ごめん。つい嬉しくて」
悪びれた様子は、まるでない。この様子だと毎度振り回されているのだろう。
ビアトリスはそっと場所を移動し、エドガーの横に並ぶと「結局のところ、殿下は何が目的で?」と小さく耳打ちした。
「先程申し上げた通り、単なる実地調査ですよ。御子が王宮を離れた先で、どのように生きるのか——それを確かめているだけです」
「……成程。つまり殿下は『前例』を作りたいわけだ」
「……どうでしょうね。まだ、殿下ご自身が思案の最中でしょうから」
ビアトリスは、ローワンとニコルのやり取りを眺めながら、ひとまず胸を撫で下ろした。
少なくとも、あの娘をセリウスの代わりとして王宮へ迎えるつもりではないらしい。
——御子が王宮を離れた先で、どのように生きるのか。
その言葉だけが、妙に胸に残る。
願いは叶えてやりたい。だが現実を思えば、やはり教会へ身を置くのが最善なのだろう。
領民一人の願いすら、聞き届けてやれない。
統治者には、願うだけでは越えられない線がある。その現実だけが、冬の冷気のようにビアトリスの胸へと静かに降り積もっていった。




