Aspectus
ニコルが畑の手入れをしていると、医師たちと村を歩いて戻ってきた一行の中から、ローワンがひょこっと顔を出した。
彼はエドガーが何か言いかけるのを片手で制し、近くにあった切り株のスツールに腰を下ろす。
「邪魔はしないよ。座ってるだけだから」
「……はい」
決して広くはない畑。そこに王弟がいる光景に、いまだ慣れない。彼の侍従も、主に命じられて今は少し離れた場所にいる。
だから本来ならあり得ない組み合わせの二人だけが、その場を共にしていた。
実際には診療所の窓辺に、もう一人分の影が存在していたが、二人が気づく事はなかった。
「彼は……ここに来て、どんな感じだった?」
ローワンは足元の土を見つめたまま、ぽつりと聞いた。
「元気だった?……ちゃんと、ご飯は食べていた?」
あまりにも素朴な問いに、ニコルは思わず手を止める。
王族らしくない、というより——まるで家族の問いかけだ。
「……はい。忙しそうではありましたけど、元気でしたよ」
「そっか」
ローワンは、ほっとしたように小さく息を吐いた。
その笑みは、診療所で見せていた社交的なものではなく、年相応に幼かった。
「それなら、よかった」
冬を告げる風は冷たいが、この畑は家屋に守られて日だまりになっている。
セリウスが好んで使っていた香草が、かすかに揺れていた。
「あの人、何かに集中すると本当に周りが見えなくなるんだ」
ローワンは、どこか困ったように続ける。
「寝るのも食べるのも後回し。自分の扱いがとにかく雑でね。今も従者もつけずに旅をしているんだろう。……危険だって分かっているはずなのに」
若き王弟から紡ぎ出される言葉は、愚痴というよりも、よく知るものだからこその心配の形をしていた。
ニコルは、その声音に少しだけ胸が緩むのを感じ、自然と口角が上がる。
「……先生らしいですね」
「君もそう思う?」
「はい」
少し笑ってから、ニコルは言葉を探す。
「詳しいことは、よく分からないですけど……」
一度、土に目を落とし、
「先生、自分の力のこと、あまり好きじゃなさそうでした。そもそも自分のこともあまり……。そんなふうに見えました」
ローワンは何も言わず、続きを待つ。
「他人のことは丁寧に扱うし、患者さんのことなんて、その人の生活のことまで考えるのに、誰かの人生に自分が影響するのを極端に嫌うと言うか……」
ニコルはそこまで言って、はた、と止まる。
話は抽象的すぎるが、これ以上は自分の話をしてしまいそうでやめた。
代わりに、ニコルは問う。
「先生の欲って何かご存知ですか?」
「え?」
ローワンは視線を揺れる香草に固定したまま、「それ、本人が言ったの?」と言って笑った。
乾いた笑いは簡単に風に攫われた。
「……あ、いえ。正確には違うんですけど」
ニコルは、作業用の手袋を外しながら、少し言いにくそうに続ける。
「私がその……理想の話をしたときに、『それは真っ当な欲だ』……って」
土の上に、ぽとりと手袋が落ちる音がした。
「何となく……言い方が気になって」
「そう」
ローワンから見たセリウスは、無関心なようでいて、その実、自由を欲していたように思えた。
だから、彼が初めて「逃げたい」と弱音を吐いたあの時、ローワンは迷わなかった。彼が何にも縛られずに自由に羽ばたく姿を見たかったのだ。
もっと言えば、彼の自由こそ、この国にとっても救いになると信じてさえいた。
だからローワン自身も、自分の血を利用した。セリウスにも、自分を利用すればいいと、そう言って。
(我ながら、都合のいい……)
僕は、一度でも訊いただろうか。
逃げた先に、何を願うのか。何をしたいのか。
唯一、制度から自由になった存在。
王宮にも教会にも属さないティアベアラー。
それは、例外。
前例であり、新たな象徴になり得る存在。
あの時、彼がそれを想像出来ないはずがなかった。なのにそれでも、セリウスは選んだ。
エミリアや、アルヴェルを救うため。
そして、自分を王家に戻すため。
そこに彼の『願い』はあったのだろうか。
ローワンは、ようやく理解する。
自分が自由にしたと思っていた人間に、別の重さを背負わせてしまっていたことを。
セリウスは、解放されたのではない。
新しい神話の中心に、立たされただけだ。
(彼自身が望みもしなかった役割を、僕は——)
ローワンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
彼の願いは。欲は。
もっと別のところにあったのかも知れない。
であるならば。
このままではいけない。セリウスを、この国の例外にしては——唯一にしてはいけない。
早く、後続を増やさなければ。同じ選択をしてもいい人間を、特別ではないものにしなければ。
セリウスが切り開いてしまった道を、“当たり前の道”にするしかない。それができて初めて、彼は象徴ではなくなる。英雄でも、神話でもなく——ただ、最初に歩いただけの一人になれる。
急がねば。
セリウスが、ただ最初に歩いただけの人間になれる日まで。
「……いつか、セリウスも、そして多くのティアベアラーも、当たり前の『欲』を持てたらいい」
ローワンは、ぽつりと呟いた。
「特別じゃなくていい。誰にも何かを背負わされず、個としての幸福を選べる。そんな日が来たら……と、僕は思っているんだ」
それは建前ではなかった。
だが、王族として語るべき理想を口にしながら、彼の脳裏に浮かぶのは、たった一人の白い男の姿だった。
理想の根元にあるのは、あまりにも個人的な願いに他ならない。
なのに、目の前の彼女は驚くこともせず笑った。
「……そんな日が来たら、良いですね」
まるで自分のことのように、希望に満ちた顔で。
ニコルはそっと目を閉じる。
生まれ育った村。畑の匂い。変わらず続いていく日常。
力を特別視されることも、奪われることもなく、それを自分の一部として受け入れられる未来を、静かに思い描いた。
「先生……いつも、楽しそうでしたよ」
少し神妙な面持ちになったローワンを前に、ニコルはそう付け足した。
決して、不幸そうには見えなかった。
誰かに期待される人間ではない、と寂しげに言う一方で、誰かに信じてもらう喜びを、確かに知っている人。
ニコルには、そう見えていた。
親しげだったあの騎士の話題になったときの、ふっと緩んだ表情。
あれは、取り繕ったものではない。決して孤独な人のそれではなかった。
象徴ではない。誰かにとっての希望でも、同胞にとっての道標ですらない。
ただ、生きている一人の人間。
「……」
二人の間に再び沈黙が落ちると、建物の影からエドガーが顔を出した。
「殿下……そろそろ」
ローワンは、切り替えるようにひとつ深呼吸をして立ち上がる。
「ニコル嬢、いい話を聞かせてくれてありがとう」
それは丁寧で、誠実で、どこまでも王弟らしい言葉だった。けれど、ほんの少し前まで畑の土に目を落とし、セリウスの無事を案じていた少年の声とは、もう違っていた。
「こちらこそ……」
深々と頭を下げてニコルが応じている間に、王弟は立ち去っていた。
冬を告げる風が吹き抜け、香草がかすかに揺れる。
残されたニコルは、ほっと小さな息を吐いてから手袋についた土を払う。
すぐ後ろの窓際で、ビアトリスは組んで佇んでいた手をゆったりと解いた。
「……成程。これが貴殿の言う"成し遂げたいこと"か」
薄く開いたままの窓から吹き込む風が、時折小さくヒュウと鳴く。
それがまるで、いつまでも決断を先送りにしている自分を責めている様にも聞こえ、ビアトリスは苦笑した。
いつからだろう。願いよりも、秩序を優先するようになったのは。
「私も随分、つまらない大人になってしまった」
*
馬に跨り、手綱を引く。
冷たい風が、容赦なく肌を刺した。
エドガーは一度だけ、斜め前を行く王弟の横顔を盗み見る。
大人びてはきたが、まだどこか危なっかしい。
それでも外面の切り替えだけは、嫌になるほど上手かった。
彼のこれまでの経験が、そうさせたのだろう。
「あの人は結局、ここでもほとんど力を使わなかったみたい」
「そうですね。使わずに済むのなら、それに越したことはありませんが……」
エドガーは言葉を濁した。
だが、その先を察する程度の勘は、王弟にはすでに備わっている。
「目立った事象が起きないのは、彼だからだろうな」
そう言って、ローワンは小さく笑った。
「万人にできることじゃない。でも、自分をコントロールできなければ、市井で暮らすのは厳しい」
ベアラーの人権を守るという理想——それ自体には、エドガーも異論はない。
実際、教会の内情も一枚岩ではない。昔よりは随分マシになったとはいえ、管区の中でも地方の小さな支部ほど、その実情は決して良いとは言えなかった。
傍系に教会関係者を抱えているモルフォンド侯爵兄弟が、養子セリウスを敢えて教会ではなく王宮御子へと据えた判断も、すべてが野心だったとは考え難い。それでも、あの一族に出来たのは、せいぜい一人を教会の外へ逃がすことだけだった。
それも、結局は王宮という、より小さく豪奢な鳥籠へ移したに過ぎない。
ベアラーという存在そのものを、市民として生きられるようにすること——それだけは、未だ成し遂げられていない。
この若き王弟は、その本当のところを理解しているのだろうか。
(……違うな)
解っている。むしろ解っていて、それでも愚直に切り拓こうとしているのか。
(なるほど。本当に、面白き人だ。どおりで猊下が目を掛ける訳か)
エドガーは、思わず苦笑した。
「……プロトタイプが完璧すぎて、困りましたね」
その声は、冬の風に攫われ、後方へと流れて消えた。




