Speculum
川沿いの道を南下し、途中の宿場では世話になった礼に困りごとを請け負いながら、セリウスはのんびりと馬を進めていた。
そうして一週間ほどが過ぎた頃、懐かしい都に再び彼の姿はあった。
「……何年ぶりかな」
旅人の風体は往来の興味を削ぐ。だが昔より短く整えたとはいえ、白銀の髪と白い肌は相変わらずで、どうしても人の目を引いた。
かつて住んでいた邸はすでにランドフォード男爵へ返却され、今や王都に、セリウスの“家”はない。
賑わう花街を抜け、やがて喧騒の薄れる石畳の小道へ入ると、閑静な邸宅が並ぶその一角で、彼はとある屋敷の門前に足を止めた。
鞄から一通の手紙を取り出し、改めて目を落とす。
——その瞬間だった。
「や!カムルセアの治癒師!待ってたよ!」
唐突にかけられた声に、セリウスは肩を大きく跳ね上げた。
物音ひとつ立てず、いつの間にか門扉の向こう側に、男が立っている。
「……ヘリオス殿。相変わらずですね」
胸元を鷲掴みにしたまま、セリウスは一度、深く息を整える。
「……カ、カム?今、何と?」
「ああ、これ?たぶん君の新しい浮き名だろうな」
ヘリオスは軽い調子で肩をすくめた。
「君が作ったっていう薬を法外な値で売ってた奴がいてさ。そいつが言っていた。
“王宮を捨てた奇跡の治癒師直伝”だとか、まあ聞くだけで胃が痛くなる宣伝文句だった」
「……」
「もちろん、逮捕したよ」
にこにこと笑いながら、物騒なことをさらりと言う。
「私……疑われてます?」
「あはは、まさか。それにエルネスト氏に鑑定してもらって、素人の調合だって確定してるから」
「疑ってるじゃないですか」
「便宜上必要な事なのよ」
ヘリオスは冗談めかして言ってはいたが、その事実を否応なしに突きつけられた気がした。
いなくなったつもりでいても。
役目を降りたつもりでいても。
(……本当に、どこへ行っても)
名前も、役目も、自分から切り捨てたはずのものが、向こうから追いついてくる。
「さあさあさあ、入って入って〜!」
セリウスの神妙な空気に気付いたのだろう。ヘリオスはぱん、と手を叩く。
「迷わなくてよかった。一応場所は書いたけど、目印でも置いておくべきだったかと心配してたんだ」
促されるまま門をくぐりながら、セリウスは小さく息を吐いた。
久しぶりの再会のせいか、ヘリオスはやけに饒舌だった。
返事をする間もなく背中を押され、そのまま屋敷の中へと迎え入れられる。そのまま廊下を半ば引きずられるように進み、行き着いた先はバスルームだった。
「とりあえず、入って。僕は綺麗好きなんだよ、知っているでしょう?」
有無を言わせぬ笑顔に、セリウスは思わず苦笑する。
「あ、すみません……」
「なんのなんの〜。あ、着替えも置いておくよ。あいにくお手伝いはいないから、自分でやってもらわないといけないけど……できるよね?」
「まあ、一人で旅してましたしね」
「そうだよね。よかった」
あっさりと言い切って、ヘリオスは満足そうに頷いた。
湯の用意が整えられた浴室は、無駄な装飾のない実用本位の造りで、しかし隅々まで手入れが行き届いている。
扉が閉まる間際、ヘリオスが振り返る。
「上がったら、食事にしよう。ゆっくりあったまっておいで」
それだけ言い残し、軽い足音が遠ざかっていった。
セリウスは静かに外套を脱ぐと、自身の衣服をそっと嗅いだ。
「うーん……。臭ってたかな?」
昔馴染みでもなければ、同僚ですらない。
数年前、そんなヘリオスを盤面に引き摺り込んだのは他でもない自分だった。
ローワンが自らの意志で立つと決めた時点で、彼から離れる事だけは決めていた。自分がこれ以上そばにいれば、彼が“セリウスの延長”として語られるのは火を見るより明らかだったからだ。
アーサーの事は信用しているが、それでもこの国の王だ。あのときただ黙っていれば、遅かれ早かれ誤った噂がローワンの覚悟すら歪めただろう。国政における弊害の方が大きいと判断すれば、たとえ同じ血が流れていようと国王がただの子どもをみだりに掬い上げたりはしない。
湯が肩を滑り落ちる。
辺りは湯気が立ち込めていて、王宮を発ったあの日の朝の景色が甦る。数年が経ったというのに、記憶だけは昨日のことのようだった。
今でも——別の選択があったとは思えない。
多少乱暴でも、混乱を一度意図的に起こしてしまえば、その後の選択肢は整理できた。何より、アルヴェルを少しでも楽にさせるためなら、自分が汚れるのが一番手っ取り早かった。
その点において、ヘリオスは適任だった。
彼ならばきっと、自分がやることに文句は言っても拒みはしない。彼にとっても友人の窮地を打破したい考えは、同じだったはずだから。
初対面でローワンを見るなり、彼は明らかに何かを見抜いていた。よく知りもしない自分に対して「力を貸す」と言ったのは、単に親友がそばに置いていた御子に興味が沸いたからではなかったはずだ。
秩序を重んじるターナー子爵の御曹司でありながら、セリウスの目には、ヘリオスが家門のためでも、王国のためでもなく、何かもっと自らの信じるところにおいて行動している様に見えていた。
のらりくらりとしている様で、その実いつも周りの状況を的確に判断している。その上で彼は敢えてアルヴェルの側に立っていた。
だから、自分が盤上から消えた後——。
アルヴェルも、そして、ローワンも——きっと託せるだろうと信じた。
(きっと……信じた、か)
湯に沈みながら、セリウスは小さく息を吐いた。
いつからだろう。自分が「信じる」という言葉を、こんなふうに使うようになったのは。
確証もなく、ただ願うみたいな、これは——まるで、アルヴェルの思考回路だ。
「……こんなことまで」
初めは打算のつもりであったのに。そう思って、苦く笑う。
ヘリオスは、それからも時折手紙を寄越した。
どうやって居場所を突き止めたのかは今更不思議にも思わない。どうせアルヴェルが手を回しているのは分かっていた。
けれどあの人の元へ戻って来いとは、ただの一度も書いていなかった。
ただ、王宮の空気はどうだとか、ローワンがすっかり大人びたとか、アルヴェルは今、どこにいるのかとか——そんなことばかりを書き連ね、最後に、この家の住所だけが、毎度欠かさず記されていた。
その距離感が、ありがたくもあり、痛くもある。
湯気の向こうで、天井がぼやける。
セリウスは目を閉じた。
——ただの一つとして、願いはなかった。
あるべき場所に、あるべき人が残れれば。
個人としての願いなど、それくらいで。
ローワンもヘリオスも、きっとあの日の選択を自己犠牲と理解しているだろう。
でも、それは違う。
私には、初めから願いなどない。
外に出て生きたいと望んだことも、あの生き方を不自由だと思ったこともない。
逃げたのは、そんな理由からではない。
ただ、一つだけ。持ってはいけないものを、持ってしまった。
だからせめて、それが膨れ上がり、私という殻を突き破って、誰かを傷つけてしまう前に——。
どうか、なにか綺麗なものへと昇華されますように。
それだけを、今も願っている。
*
湯浴みを済ませ、扉を開けると、ヘリオスの言葉通り食事の準備が整っていた。
香ばしい匂いが、久しぶりにセリウスの食欲を刺激する。
ヘリオスは上から下までセリウスを見渡し、にやりと笑った。
「丈は問題なさそうだ。でもさすがにウエストはゆるいか」
そう言うと、自分のベルトを外し、セリウスに手渡す。
「体型はそう変わらないと思ってましたが、さすが近衛師団長ですね。筋肉の付き方が違う」
セリウスは思わず感心する。
ヘリオスは自分のベルトが彼のスラックスを締め上げるのを眺めていたが、目が合うと、からかいが口をついて出た。
「よくその細腰で、よく付き合えるな。あのデカい男に」
「え…?」
最初、その意味するところが分からず、セリウスは首を傾げたが、ヘリオスの笑顔は崩れない。
「あ……」
意味が遅れて理解されると、セリウスの色素の薄い顔はみるみる赤く染まった。
「何を、言って……。まさか、アルから聞い——」
「いやあ、はは。マジか。まさかそんな初心な反応をされるとは。だって君たちもう二年は経つだろう?」
ニヤニヤとヘリオスは笑っている。
「カマをかけたんですか?!」
「アルヴェルは何も教えてくれないから」
「ああ、もう。忘れて下さい!」
セリウスは半ば強引に話題を切り上げ、用意された卓へと歩いた。
椅子を引く仕草が、ほんの少しだけ乱暴になる。
「腹が減っているんです。まずは食事にしましょう」
「はいはい。ほーんと、逃げ足だけは相変わらず早い」
ヘリオスは肩をすくめつつも、それ以上は追及しなかった。代わりに給仕役のいない食卓に皿を並べ、何でもない調子で言う。
「でも安心したよ。ちゃんと生きてる奴の顔をしてる」
「それはどういう意味です?」
「昔の君はホラ、月の精だったでしょ?」
セリウスは一瞬だけ手を止め、口には出さず「何言ってんだ」という顔をして、それから何事もなかったようにカトラリーを取った。
皿から立ち上る湯気が、視線を曖昧にする。
「私だって、王宮にいた頃とは……そりゃ変わりますよ」
ぽそりと言った言葉を、ヘリオスは丁寧に掬う。
「まあ、それもそうだね。変わらざるを得なかっただろうし」
湯気の向こうでヘリオスはやっぱり笑っていた。
「それでも、いい顔をしてると思うよ。澄ました顔じゃなくて、照れたり、ムキになったり。そういうの、もっと初めから出してたら良かったのに」
セリウスは曖昧に目を伏せた。
そう見えるだけだ。
生き方が変わっても、生まれ持ったものは変わらない。
——この世に生を受けた時点で、間違っていたのだから。
「それで、王宮でも教会でもない場所で生きてみて、どうだい」
セリウスは、カトラリーを置いた。
「気楽ですよ。……それがたまにすごく、心苦しい」
「だろうね」
短くそう返して、ヘリオスはグラスに手を伸ばした。
軽く鳴った音が、食堂に静けさを落とす。
「誰かの犠牲の上に生きていると気付いた時、だいたい人はそういう顔になる」
「……随分、慣れた言い方ですね」
「君がいなくなった後の王宮で、嫌というほど見たからね」
言外に、お前だけじゃないとヘリオスはそう滲ませた。
実際、王宮の方も楽になったのは確かなのだ。御子のいない王宮は教会にとって脅威でもないが、干渉材料のない、極めて扱いづらい目の上のたんこぶに他ならなかった。
アーサーも表向き右腕を失ったが、継承権を放棄した王弟はむしろ動かしやすく、アーサー王の御代を維持するという点においては余計な噂が一掃されたことで安定感は増していた。
それらは全て、王宮の御子諸共に葬られたからだ。
「……」
セリウスは言葉に詰まり、視線を落とす。
皿の上の料理は、まだ半分も減っていなかった。
「……ローワン殿下は?」
「愚直にやってる。折れずにね」
ヘリオスは即答した。
「……そうですか」
「やっぱり、君が負い目に感じるのはあの子な訳だ」
ヘリオスはフォークを置き、真っ直ぐにセリウスを見る。
「でもさ……盤面を荒らした張本人が、いまさら後悔しても仕方ないだろ?君は少年を使って、利を得た。でも、少年だって権力を望んでいた。だから、少年の選んだ未来まで君が背負うのは驕りだよ」
「……それは」
「それに、あの時点で君はすでに詰んでいた」
言い切られて、セリウスは息を止める。
「セリウス殿。君は、自分が壊れるのには妙に鈍感だ」
「どうでしょう、よく分かりません」
「君はあの選択を合理的な判断だったと思いたいだろうけど、僕からしてみたらとても利口なやり方とは思えなかった」
ヘリオスは、少しだけ笑った。からかうようでも、慰めるようでもない表情で。
「それでも、あれがあの時の最適解だったと……僕は思うよ」
セリウスはしばらく黙り込んだあと、ようやく小さく息を吐いた。
「ヘリオス殿にそう言ってもらえると、少し照れますね」
「褒めてはいないけどね」
ヘリオスは立ち上がり、空になった皿を片付けながら、何気ない調子で続ける。
「僕がどうして君を好んでいるか、知ってる?」
「え?」
「嘘が下手だからだよ」
料理はどれも美味しかった。
それでも皿は、半分ほど残ってしまった。
「……片付け、手伝います」
そう言って立ち上がると、ヘリオスは心底おかしそうに笑った。
ああ、この人は本当に敵にしたくない。
少し悔しいような、少し淋しいような。けれど、そのどちらとも違う穏やかな感情が、胸の奥へ静かに残った。
*
食後、ヘリオスは戸棚から酒瓶を取り出した。
濃い色の液体をグラスに注ぐ音が、静かな部屋に小さく響く。
「強くはないよ。久しぶりなら、これくらいがちょうどいい」
「助かります」
ヘリオスは棚に寄りかかり、セリウスは手近な椅子に腰を下ろすと、二人はしばらく取り留めのない話を交わした。
旅の途中で見た景色だとか、都の外れに増えた宿屋の噂だとか。酒が進むにつれ、言葉の角が少しずつ取れていく。
その途中で、ヘリオスがふと思い出したように言った。
「そういえば、少年には会えたかい?」
グラスを傾けていたセリウスの手が、一瞬だけ止まる。
「……いいえ。なぜです?」
「ここ数週間、王宮を空けていたんだ」
何でもないことのように、ヘリオスは続けた。
「君の形跡を追ってね」
静かに、酒の表面が揺れる。
「……何のために?」
僅かにセリウスの頬が強張るのを見るや、先回りするように、ヘリオスは片手を上げた。
「あの子の大層な目標、忘れてしまったかい?」
穏やかに笑うヘリオスに対し、セリウスは視線を落とす。
「それでさっき……」
愚直に、折れずに——。
先ほどの言葉が、嫌な重みを持つ。
「君はローワンの意志を汲んで王宮へと彼を導いた。後のことはローワンが選んだことだ。気にすることじゃない」
視線を逸らしたまま、ヘリオスは独り言のように続ける。
「でも、そうだな。だからって、君に罪がない訳じゃない」
わざとらしく間を置いて、ようやくこちらを見る。セリウスは苦笑を漏らすと、その意地悪な相貌に向かって答えた。
「あの子に“セリウス”という幻想を抱かせた」
言葉は、二人の間へと静かに落ちた。
そこに派手さも、断罪の色もない。けれどそれは、これまで自分だけが知っているつもりでいた罪を、初めて白日の下に晒された瞬間でもあった。
言葉にして初めて、その重みが身に沁みる。
ローワンが、理想を貫く人間だということは分かっていた。潔癖で、打算がなくて、折れるくらいなら全てを壊して初めからやり直すような人間だ。
あの少年の中にはそういう激しさがあるのを、気付かなかった訳ではなかっただろうに。
そもそも、だから利用したのだから。
自らの立場を取り戻し、言葉を持ち、守られる側から守る側へ行くこと。それをあの少年が欲さずにはいられない事をよく分かっていた。
あの好奇心と探究心に満ちた眼差しは、新しい時代を切り拓くことを切に望んでいたのだから。
だが、理想は通過点に過ぎない。
いずれ現実に摩耗して、丸くなる。アーサーのように、維持することを選べる王になる方が、国にとっては正しい。聡いあの子なら、そのうちにきっと解るだろうと、どこかで高を括っていた。
だが、ローワンは違った。
王宮に戻ってなお、理想を手放さない。それどころか、掲げるだけでなく形にしようとしている。
不意にグラスに酒瓶が触れる音がして、セリウスは顔を上げた。
「……それも間違ってない。でも、もう一つある」
ヘリオスはセリウスのグラスに酒を注ぎながらふっと笑う。
「少年はいつまでも少年のままじゃない」
「……」
「君こそ、あの子に幻想を抱いていたって事さ」
そう言って彼は自分の分も手酌すると、傍に酒瓶を置いた。ドス、と鈍い音が嫌に大きく響いた。
「あの子も、王宮に戻ってから随分いろんなものを見た。でも現実を知って尚、理想を今も抱き続けてる」
ヘリオスは苦笑する。
「むしろ、もっと厄介なものに形を変えてね」
セリウスは杯の中、揺らぐ水面に映る自分を覗き込んだ。
そこに映るのは、やはり——誰かを導く英雄などではない。
ただ、自分のことすら見誤った、紛い物の姿だった。




