Peregrini
翌朝、身支度を整えるヘリオスの背中を、セリウスは静かに眺めていた。
飾緒を掛け、礼装に近い装いを整える姿は、昨夜の軽口が嘘のように公的な人間のそれだ。
「別段急いでいないなら、数日ゆっくりしていけばいい。あと一時間もすればハウスキーパーが来る。何かあれば彼女に聞いて」
「ヘリオス殿は……今日は何か特別な任務でも?」
守秘義務があるだろうとは思いつつも、その格好を前にしては、聞かずにいられなかった。
「ああ……」
だが、ヘリオスは少しも気にする様子なく、あっさりと答える。
「トルキア共和国の国賓を迎える。形式上は友好国交流だね」
「トルキア……。ああ、東方の?」
「そうそう。同じ神を戴く国だ」
トルキア共和国。
遥か東方にある、ローワンの母、リディアの母方——ヴァルグレン家の一族が辿ってきた土地の名だ。
彼女が“死亡したことになった”以降も、国と国の関係は静かに続いていたにはいた。それも近年では、互いの国の教皇による形式上の表敬訪問に過ぎなかったが。
「ああ。……それで、"カムルセア"ですか」
「そういうこと」
ヘリオスは肩をすくめた。
「昔もあっただろ?“神の御手に選ばれた治癒師”だの、“ランドフォードの白い御子”だの——」
冗談めかした口調とは裏腹に、その目は冷えている。
「どこから漏れたのか、トルキア共和国の王子が来るって話が広まってさ。向こうの神様の御名と、かつての白い御子を無理やり結びつけた、しょうもない商売が横行してるって訳」
——ああ、また。
自分の知らないところで、自分が一人歩きしている。
セリウスは、無意識のうちに指先を握り込んでいた。
「——おい、またそんな顔して」
ヘリオスはぴしりとそう言って、セリウスの思考を断ち切った後、声色を和らげ付け足した。
「これが終わればまた静かになる。一時のことさ」
「……そう、ですね」
「じゃ、僕はもう出るから。外に出るなら……誰か付けようか?」
「いえ、お構いなく。顔見知りのところにしか行かないから」
「そ?」
ヘリオスは少し呆れたような顔をして、それ以上は勧めなかった。
*
目深にフードを被り、セリウスは久しぶりに王都の目抜通りを歩いていた。
本屋で新刊を何冊か手に取り、輸入食材店では、見慣れない薬草や乾燥した臓物を前に足を止める。
さすが王都だ。品揃えが段違いで、ついあれこれと購入してしまっていた。
「……荷物が嵩張ることを、考えてなかったな」
両腕いっぱいに抱えた包みを持ち直しながら、遅れて後悔が浮かぶ。
次の行き先はまだ決まっていなかったが、薬が底をつく前に必要なものを買い揃えておく必要があったのは確かだが……。
これなら、ヘリオスに甘えて誰か付けてもらえばよかった。
何度目かのため息を吐き、包みをもう一度持ち直したその時だった。
不意に吹き抜けた突風が、外套を叩く。
フードがめくれ、差し込んだ陽光に、視界が一瞬、白くなった。
「うわ——」
隠していた白銀の髪が露わになり、セリウスは慌ててフードを戻そうとしたが、
「あ、君!」
呼び止める声。
ほとんど同時に、肩に重さが乗る。
「ちょ……!え、え?」
肩を抱かれ、そのままずり、と路地の方へ引かれた。
「な、何を!……やめ、」
声を張るより早く、陽気な声がかぶさった。
「大丈夫、大丈夫」
状況とまるで噛み合わない軽さでそう言って、男はなおも手を離さない。
抵抗する間もなく、視界が通りから切り取られていった。
——ああ、もう。
いよいよ決定的に、ヘリオスの言葉に甘えるべきだったと、セリウスは心の中で嘆いていた。
人気のない路地裏の中ほどまで来たところで、男はようやく腕を解いた。
「ね、君。もしかして——カムルセアの遣い?」
距離を詰めたまま、男がこちらを覗き込んだ。首も回せないほどがっちりと肩を組まれていたから、その時になってようやく男が自分よりも若そうな青年であったことに気付いた。
黒髪に黒い瞳——異国の血を感じさせる顔立ちだった。
「……違いますが」
即座に否定すると、青年は気分を害した様子もなく、にこりと笑う。
「嘘だよ。こんな綺麗な髪、そうそういない」
あまりに屈託のない声音。
そしてこの距離で、その確信に満ちた言い方。
(変なやつに目をつけられたな……)
セリウスは身を固めたまま、視界の端で退路を確認していたが、
「怖がらせてごめんよ。実は僕、ちょっと怖い人に追われてて」
青年はそう言うなり、躊躇なくセリウスの両手を包み込んだ。
持っていた荷物がどさりと落ちる。
彼の指は長く、力があった。振りほどこうと思えば出来るが、あまりにも自然に距離を詰めてくるものだから、一瞬判断が遅れる。
「誰かと一緒なら、カモフラージュになるかなって思ってたところに君に出会ってさ。つい、ね」
黒曜石の瞳をうるうるとさせ、上目遣いで覗き込む。声も、表情も、無邪気さを装っている。
(……なにが“つい、ね”だ)
ついさっき、確かに「カムルセアの遣いか」と訊いてきたではないか。偶然を装うには、あまりに手際が良すぎる。
「……手を離してください」
「え、嫌だった?」
「嫌です」
「でも離したら逃げちゃうでしょ?」
あっけらかんと言われ、セリウスは言葉に詰まった。
「君、名前はなんていうの?綺麗な顔しているよね。歳は?」
「……」
「ずっとダンマリ?」
「………人に名を尋ねるなら、先ずは自分から名乗るのが筋でしょう?」
人の顔を不躾に眺め続ける男に、セリウスは冷ややかに視線を返した。
「あっはは!確かに」
屈託なく笑うと、未だ掴んだままの両手をぐいっと引いて、言った。
「僕はタリク、二十三歳。よろしくね」
距離が近い。
視線も、声も、ほんの目と鼻の先にある。
ぞわりと産毛が逆立つ感覚。
「いつまで掴んでる……!」
力一杯腕を振り下ろし、セリウスはキッと睨む。
落とした荷物を拾い上げるともと来た道へと踵を返す——はずだった。
「待って、待って待って!」
背後から慌てた声がして、すぐさま肩を掴まれる。とんだ馬鹿力だ。
「痛……!」
「今出て行ったら本当に捕まるって!」
「私の知ったことじゃない!」
「君も……!君も、後をつけられてる」
「何言って……」
反論しかけた言葉は失速し、セリウスの脳裏には、またしても今朝のヘリオスの呆れ顔が甦った。
判断を誤ったのか。そうだ。今朝発つべきだったのだ。つい懐かしさに気が緩んで、長居をしてしまった。そんな資格はもうないのに。
「ほらあそこ、見えるだろ?」
タリクが指し示す方向に、二人組の男がキョロキョロと辺りを見回しているのが見えた。
「あなたの追っ手じゃないんですか?」
「それは、あっち」
セリウスの反応が想定内だったのだろう。したり顔で、タリクはすぐさま答えた。
「ちょっとは信用してくれた?」
「……セリウス」
「……ん?」
「だから、名前……」
「……」
青年は目を丸くし、まじまじとセリウスを見下ろした。
変な奴だが、少なくとも今この場で刃物を抜くような人間ではなさそうだ。
そう思ってしまった自分にげんなりする。
「ねえ、セリウス」
タリクはぐいとセリウスの腕を引いた。
「僕たち協力しよう。そうだろ?」
理由はどうあれ、誰かに追いかけられるような人間だ。協力していいことなど一つもない。それに、自分を貶めるための嘘だったらどうする。
当然、今すぐ逃げるべきだ。
——そう思ったところで、足元に転がる薬草の包みが目に入った。
「……その代わり、荷物持ってください」
路地を抜け、再び人通りの多い通りへ出る。
タリクは自然な仕草でセリウスの隣に並び、肩を寄せるように歩き出した。
「もう少し離れてください」
「カモフラージュ」
「男二人でくっついてたら、余計目立つでしょう」
「意外とツンツンしてるんだね、セリウスって」
あっけらかんと笑われ、セリウスは額を押さえた。逃げるにしても、大きな手にがっちりと掴まれていては、振りほどく方が余計に目立つ。抵抗するのもいよいよ馬鹿らしく思え、セリウスはもうそれ以上抵抗するのをやめた。
「ほら、こっち」
タリクは市場の露店と露店の隙間を縫うように進み、声を潜めた。追われていると言った割にはこの状況をどこか楽しんでいるようにも見える。
「一体、何で追われているんです?」
年齢の割に妙に落ち着き払っている。追われ慣れているか、それ自体が嘘か。
「なんでだと思う?」
「さあ。単なる物取りではないでしょうし……詐欺でもしたんですか?」
「ふふ。いい線いってる」
初めから正解を言う気などないくせに。
(……やり口が、妙に慣れている)
「ねえ、セリウス」
囁くような声が、耳元に落ちた。
「君さ、治癒師?」
「……違います」
「嘘。この袋の中、医学書が二冊入ってる」
「……嫌な奴だな」
軽蔑の眼差しに、タリクはくすっと笑った。
人懐っこそうな態度は、初めローワンに似ていると感じたが、違った。少なくともローワンはもっと可愛げがあるし、たとえ何かをなす為であっても、お構いなしに他人の領域へと踏み込むような真似はしない。
「いいねその目。ゾクゾクする」
この男の言動は奔放過ぎて、まるで読めない。何か魂胆があるに違いないが、だとしてもなぜこんな面倒なやり方で自分に付きまとうのか。
「……何が目的なんです?」
「うん…」
男は一度、通りの向こう側を例の男たちが過ぎ去るのを確認してからセリウスのフードに手を掛けた。
「君に会って、少しでいいから話してみたかったんだ。これは本当。あと、尾行を撒きたい。これも本当」
その言い方では——。
「やっぱり初めから、私を探して?」
「いたらいいな〜って。そしたら、なんとびっくり」
「はぁ?……闇雲に探して?……馬鹿な」
思わず苦笑が漏れ、誤魔化すようにゆるゆると頭を振った。
人の流れが少し落ち着いた辺りで、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「ねえ、……お腹、空いてない?」
唐突にタリクが言う。
「……呑気ですね」
「何をするにも腹ごしらえが必要でしょ?」
「……へえ」
二人の足は自然と屋台の並ぶ一角へ向かっていた。
炭火の上で焼かれる串肉、香辛料の効いた煮込み、舶来の甘い蜜菓子。大して食に興味のないセリウスでも、その賑わいに目を奪われる。
「これにする」
タリクは迷いなく、香草をまぶした串を二本取った。
「母国のに似てる」
「……なぜ私の分まで」
「いいから。さ、食べて」
ズイ、と目の前に差し出された串から香ばしい香りが立ち上がる。仕方なく受け取ると、「代金は私が払うんですがね」と細やかな悪態を吐いた。
「ね、セリウス。君ってやっぱりベアラーなの?
串を食べながら、タリクは何でもない調子で訊ねた。
一瞬セリウスの肩に力が入るのを、彼は直ぐに察知して、「ああ、違くて」と笑う。
「そっか、この国にはまだ残っているんだね」
明言したわけでもないが、彼の訛った発音や風貌から、恐らくはトルキアからの国賓渡来に乗じてやって来た商人の類であろう、とセリウスは当たりをつけた。だが、その予想もまだしっくりとはこない。
「あなた、……外からいらしたんですね?」
思わず尋ねると、タリクはにこりと笑ったまま小さく頷く。
「僕の国にはもうベアラーがいないんだ。神様も今は形だけ。だからこの国は母国に似ているようで、全然違う」
タリクの放つ言葉には、本当に何の含みもない。
淡々と、ただ事実を述べているという様な——。
(ベアラーが、いない……)
屋台の喧騒がひどく大きく聞こえていた。
「……」
青年がじっとこちらを見ているのが分かって、セリウスは咄嗟に右手で隠した。
「あれ、指どうしたの?」
「え、ああ」
指の欠けた手。
さっき握ってたくせに今頃気付いたか。
「ただの怪我です。大したことはない」
「痛い?」
「いいえ、もう」
タリクは一瞬迷うような絶妙な顔をして、何も言わずにその手に触れようとした。
「こら、触るな」
まったく。油断も隙もない。持っていた空の串をタリクに向け、セリウスは睨んだが、青年は悪びれずにくすくすと笑っている。
わざとらしく両手を上げ、降伏のポーズを取ると
「隣に座るくらいは許可してくれる?」
と上目遣いで訴えた。
屋台街の一角には焚き火があり、そのまわりに簡単な椅子がいくつか並んでいた。
セリウスは買って来たホットワインを青年に手渡す。当たり前のようにその隣に腰掛けた自分に気付いて、小さなため息を漏らす。
「さっきの続きだけど」
タリクはそう前置きをして、遠いトルキア共和国の話をし始めた。
「トルキアにも神話があって、君の国でいうティアベアラーも存在していたんだ。僕の国には大きな河が流れていて、昔からよく氾濫を繰り返していた」
それは知っている。
だから治水技術が進歩して……セリウスはそう心の中で先を描いていた。
「その度にベアラーは酷使され、とうとう彼らは国を出た。どこか遠く、ずっと西へ逃げようってね」
「それって……」
「そう、この国。バルセニア王国だね。と言っても、まだ国を成すず〜っと昔の話だ」
肩をすくめて笑って、それからまたタリクは静かに続けた。
トルキアは多くの犠牲を払いながら、長い間水と闘ってきた。
河の流れを制し、共に生きるために。
祈りよりも、人の力を信じて。
「君も知っている通り、今や僕の国は世界有数の治水技術を誇る。それだけじゃない。様々な分野の技術が、次々と発達していった」
その一方で、ベアラーたちは——次第に、その力を必要とされなくなった。やがて推進力のある新たなリーダーが市井から生まれると、王族は国の未来を彼らに託した。
その代わり、王族はトルキアの歴史と文化を象徴する存在として位置付けられた。
「王族の役目は、ただ一つ。これまで犠牲になった多くのベアラーの魂を鎮め、敬い、祈り続けることだ」
国の礎を築いた存在を皆が忘れることのないように——。
「……ベアラーは、この癒しの力は本当にもう、トルキアには存在しないと?」
焚き火の爆ぜる音に紛れて、セリウスはそう尋ねた。タリクはすぐには答えず、カップの中の酒を一口含む。
「少なくとも、僕が生まれた頃にはもういなかったよ」
口調は軽かった。けれど、そこに曖昧さはない。
セリウスは思わず身を乗り出す。
「なぜ、存在しなくなった?」
炎が揺れ、薪が静かに崩れる。
セリウスの喉が、小さく鳴った。
タリクは焚き火を見つめたまま、少し考えるように黙った。
「……人が、神から自立したからかな」
やがて、タリクはそう言って、一度小さく息を吐く。焚き火の赤が、黒曜石の瞳を照らしていた。
「制度を作って、生きる知恵を身につけて、責任を分け合って……。神の奇跡に委ねるより、時間はかかるし、不格好だ。でもその代わり、自分と同じはずの人間を、神の身代わりにしなくて済む」
そこで、初めてタリクはセリウスを見た。
「だから僕の国では、癒しの力は“終わった”んだよ」
それは例えば、巨人が滅んだように。
エルフや妖精が、いつしか姿を消したように。
人間が力を増し、彼らの脅威が薄れ、そして——その力を、必要としなくなれば。
「……私たちは、いずれいなくなる?」
セリウスの口をついて出た呟きは、焚き火の音に溶けそうなほど小さい。
なぜこの青年の話を、こんなにも聞きたいと感じるのか——心当たりなら、ずっとあった。
以前ほど、力を持て余すことはなくなっていた。だがそれは、自身の心の機微に以前より目を向けられるようになったからだと思っていたのだ。
それでも時折、力の流れが噛み合わなくなる。
土に触れた時。夜更け、眠りにつく前。
じわりと、自分という輪郭が解けていくような感覚があった。足元だけが静かに崩れていくような、ほんの僅かな違和感。
疲れていると言ってしまえば、それまでのことだった。
「存在そのものは、なくならないよ。きっと」
タリクはセリウスをじっと見つめたまま、言った。否定でも、慰めでもない言い方で。
「力の在り方が変わるだけさ。神話が終わって、歴史になるみたいにさ」
「……それを、“いなくなる”と言うのでは」
「違うよ」
タリクは小さく首を振る。
「その役目から下りるだけだ」
セリウスの胸が、わずかに軋む。
それは、待ち焦がれていた救いであり、同時に、足元を揺るがす言葉でもある。
紡がれて来た歴史の上に、今まさに自分は立たされているのだ。
いなくなる日は、明日かも知れない。ここ数ヶ月感じていた心許ない感覚の正体は、これであったようにも思う。
セリウスは僅かに視線を落とした。
「それにさ」
タリクはそんなセリウスの小さな変化には気付かずに、続ける。けれど少しだけ、調子を崩した声に変わっていた。
「それって、きっと神様が気まぐれに与えた能力だよ?必要そうだから生えてきて、要らなくなったら消えていく。ただそれだけのことだよ」
あまりに軽い言い方で、あまりに取り返しのつかないことを言う。
「まるで進化論ですね」
「そ。いずれみんなただの人間になる。自然の摂理だ」
予言でも忠告でもない。ただ、遠い国では、それが当たり前の未来として語られていた。
焚き火の熱が指先を温める。
それでも右手だけは、少しも温まった気がしなかった。




