Incognito
「随分と詳しく、神を語るんですね。トルキアの人間はみんな、そうなのです?」
セリウスは小さく笑った。
少なくとも、ヴァルセニアでは違う。
人々は都合よく神を語りはするが、ベアラーがなぜ存在し、何を背負い、どこへ行くのかなど、気に留める者はほとんどいなかった。
祈りはあっても、関心はない。
それが、この国の日常だ。
それと同時に確信する。
目の前の青年は単なる商人ではない。敢えて品を欠く態度を取ってはいるが、所作の端々に隠しきれない育ちの良さが宿っている。そして何より、ヴァルセニア語が流暢すぎた。敢えて学んだとしか思えないほどに。
「まあ……」
タリクは曖昧に言って、指先でカップの縁をなぞった。
「一応僕、神官みたいなものだからね」
「……とても、そうは見えないけれど」
セリウスの返しに、タリクは声を立てて笑った。
「よく言われるよ。でも、うちの国じゃ、神官は“信じさせる人”じゃないから」
焚き火に向けられていた瞳がこちらに向き直った。
「女神と今日まで国のために尽力してきた使徒たちを、みんなに覚えていてもらうようにする係ってとこかな」
また小さな沈黙が落ちた。
セリウスが、コップに残ったワインをぐいっと飲み干すのを待って、タリクは少しだけ間を置いてから「ねえ」と声を出した。
「僕の国に来ない?君、一人なんでしょ?」
にっこりと、人好きそうな笑顔でタリクは笑った。
「僕と一緒に来てくれたら、今よりもっと——君は自由になれる」
(……自由、か)
その言葉だけが、不思議と胸に残った。
他人の未来を断言するなんて、ずいぶんと自信家だ。あるいは、何も考えていないだけか。
「ふっ……あはは」
思わず、笑いが漏れた。
「随分と私をご存知なようだ」
警戒すべきだろうに、随分と頬が緩いのは——
あれほど強引に距離を詰められたというのに、不思議と威圧感がなかったからか。
ただ——この異邦人に、少しだけ気を許してしまったのは、確かだった。
「あ、しまった!そういえばいま何時?」
それまでニコニコと愛想よく笑っていたタリクが、急に焦った顔をした。
「ええと……」
セリウスが懐中時計を取り出そうとした、その時だった。
前方の往来を、人混みを掻き分けるように数人の男たちがこちらへ向かってくる。
「タ……タリク。あれ……」
セリウスは咄嗟に声を潜めたが、タリクは名を呼ばれて一度だけ大きく瞬いた後、妙に緊張感の欠いた声で応じた。
「あー、まずい。見つかった」
やはり何かがおかしかった。
先程タリクは自らを『神官みたいなもの』と言ったが、あながち冗談ではないのかも知れない——。
だがそれを問おうにも、タリクはもう立ち上がってセリウスの数歩先にいた。
「ねえ、また会える? 明日の午後三時、ここで待ってる。もう少し話そうよ。楽しかったから」
「え、ちょっ——」
返事も待たず、タリクは身を翻した。しかも——追手が現れた方向へと向かって。
「お急ぎを!」
人混みの向こうから誰かが叫ぶ。
タリクの姿は、そのまま男たちの中へ吸い込まれるように消えた。
誰一人、取り押さえようとはしない。
(揶揄われていたのか……?)
後には、空になったベンチと、コップ。
「あ………」
手提げがひとつない。
さっき買ったばかりの新書。
「ちゃっかり担保にしたな……」
わざと棘のある言葉を選んだのに、音になったそれは軽かった。
「仕方ない……」
本を返してもらわなければならない。
——そんな都合のいい理由を見つけて、セリウスはようやく腰を上げた。
*
日が暮れ始めていた。
王宮の東側。石造りの小橋が掛けられ、池を抱くように建てられた迎賓館の前で、ヘリオスは腕を組んだまま待ちぼうけを食らっている。
「寒い……寒すぎる……。国賓警護って、もっとこう、華やかな仕事じゃなかったっけ」
外套の襟を立てても、冷気は容赦なく首筋へ入り込む。
「頼むから、早く帰って来てくれ……」
国賓は、昼間の国王との謁見までは確かにここにいた。にこにこと、無駄に明るい笑顔を振りまきながら。
だが——その時点ですでに怪しさは満点だった。
友好国トルキア共和国の第三王子。
形式上は親善大使。だが、それらしい公務を任されてはいても、本人にとっては窮屈な自国を離れ、堂々と羽を伸ばせる絶好の機会に過ぎない。
(……あの目だ)
初対面では礼儀正しい。笑顔も柔らかい。だが目だけが落ち着かない。
あれは、常に何か面白いものを探している子供の目だ。ああいう手合いは、命令で椅子に縛りつけても抜け出す。
——嫌な予感は、朝からずっとしていたのだ。
ヘリオスは迎賓館の扉を一瞥し、次に王都の方角へ視線を投げる。
「……早くかえりたぁい」
呟きが、池の水面に吸い込まれて消える。
程なく、足音が近付いてきた。近衛たちが一斉に姿勢を正す。
「やっと来たか」
……いや、伝令の足音ではない。
砂利を踏む一歩一歩が重く、見られることを意識している足音だ。
「え……?殿下、何?」
思わず声が裏返る。
アルヴェルだった。
確か——今は西辺縁領を任されているのではなかったか。
(ああ……。陛下に呼び戻されたのか)
ローワンも王弟が板についてきたが、初めての対外的な政務だ。もしもの為の収拾要員という訳か。
だが、こんなのが今ここに立っていたら、若手の部下が萎縮してしまうではないか。
さっさと戻れ、とヘリオスは視線で訴えた。
「あれは、お前のところに居るよな?」
だが、相手はヘリオスの懸念など意に介さず、ただ要件だけを伝えた。
「え?」
一瞬考えてから、ああ、と思い至る。
「ああ、居るんじゃない?買い物に行くって言ってたし、今頃は家に——」
「そうか」
短く返されて、ヘリオスは眉をひそめる。
「あれ?来るって、殿下に言ってあったっけ?」
「……」
「……何?え、もしかして二人で約束してた?王都で会おうって?……隅に置けないなぁ、二人とも〜」
調子に乗って人差し指でアルヴェルの胸を突くと、すぐさまその手を掴まれた。
「違うわ、バカタレ」
低く響く声に、視界の先で何人かの部下の肩が跳ねた。
「……ひょっとして、君」
ヘリオスはもしやと思い訊ねるが、アルヴェルは顎に手を当て、黙り込んだままだ。考え込むときの、あの癖。
「いやまさかねえ」
冗談半分にそう零した、その直後。
迎賓館の敷地の向こうが、ざわりと騒めいた。
「師団長!いらっしゃいました!」
その知らせに、ヘリオスの顔付きは師団長のそれになる。
「ああ、やっとか……」
程なく、砂利を弾きながら王賓用キャリッジが乗り入れた。
従者がすかさずサッと踏み台を差し込むと、開いた扉の中から長い足が差し出された。
「ごめんなさい!探し物をしていたら遅くなってしまって」
軽い調子の声とともに姿を現した青年は、どう見ても場違いだった。
育ちの良さを隠しきれない顔立ちに、擦れた旅装。そのチグハグさがどうにも胡散臭く、露天商か見せもの小屋の使用人と行った方がしっくり来る。
だが。
アルヴェルの姿を認めたその一瞬。
それまで肩の力を抜いていた青年が、静かにそしてごく自然に呼吸を整えた。
背筋が伸び、顎が僅かに上がる。微笑みだけはそのままに、纏う空気だけが確かに変わった。
ああ、王子なのだ——と、ヘリオスは胸の内で唸った。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえいえ。まだお支度の時間はございますから、どうぞ慌てずに」
切り替えの見事さはさすがだが、それを受け止めるアルヴェルもまた、腐っても王弟だ。隙のない応対を返す。
ほんの少し前まで、恋人の行方が気になって友人のもとを訪れていた男とは思えない。
(……王族ってのは、どこの国でもこうなのかね)
ヘリオスは呆れ半分にそう思いながら、かじかんだ手をこっそりと揉んだ。
「……?」
王子の腕に提げられた荷物が、ふと視界に引っかかる。この場に、そして彼の身分に、どうにも似つかわしくないその袋。
「ご無礼を。……お買い物ですか?」
「ええ、なにか?」
問い返す声は朗らかだが、ヘリオスが一歩踏み出すと、導線を遮るように彼の従者が一歩前に出た。
「どうかお気を悪くなさらないでください。ただ、形式上の確認です。……お荷物を拝見しても?」
面倒だな、と思いつつも、ヘリオスは笑みを崩さない。仕事は仕事だ。
従者の一人が王子の顔色を窺い、彼は小さく頷いた。
「ええ、どうぞ。……僕のじゃないけどね」
(僕のじゃない?)
半信半疑で麻袋の口を開く。
中にあったのは、分厚く難解そうな本。
……医学書?王子が読むにはずいぶん実用的だ。
それに香草と、乾燥させた……これは何だ?
「これは……殿下の?」
「いいえ。預かり物です」
だから誰のだよ、とは言えなかった。
ちょうどそのとき、王宮の使いが苛立たしげに声を上げた。
「お通しを急がせよ」
「……失礼いたしました。どうぞ」
「ありがとう♪」
ご機嫌で館の中へ消えていく背中に一礼し、ヘリオスはようやく息をついた。
(ありゃあ、また抜け出すな……)
振り返ると、アルヴェルは姿勢を崩さぬまま、ぼんやりと立っていた。こういう時は大抵、まだ何か言い足りないかここを抜け出したいか、どちらかだろう。
「寒い……もう帰っていい?」
試すようにそう言葉を投げた。
「……まだだろ」
「嫌だよ。セリウス殿と夕食なんだから」
嫌がらせの意図に気付いたのか、アルヴェルは黙って一瞥するとぼそりと呟いた。
「……いい身分だな」
ヘリオスは肩を竦めるだけだった。本気で羨ましがっている訳ではないと知っているからだ。
「ほら、夜会が始まる。行ってやらなきゃ、お兄ちゃん」
「その言い方、ローワンの前ではやめてやれ」
アルヴェルはすぐに表情を整える。いつもの、余裕のある顔だ。
「……セリウス殿、まだ次行くところを決めていないらしい」
「……」
「うちで再会だけは勘弁してよ?」
冗談混じりにそう言えば、アルヴェルは今度こそ小さく笑った。
「そんな暇はない」
けれど。軽く受け流しながらも、彼の視線がふと王都の方角へ流れるのを、ヘリオスだけが気付いていた。




