Karşılaşma
今宵の宴は一層華やかだった。
東方の友好国——トルキア共和国の面々がここ、ヴァルセニア王国に訪れるのは、王弟アルヴェルの成人の儀以来のことである。
絢爛な装飾、華やかな楽の音、そして行き交うのは磨き上げられた笑顔ばかり。
妙齢の娘たちの視線の先に、本日の主役がいる。
「ヴァルセニアの皆さんは、もともと同じ血を分けた一族ですから」
その言葉だけで、場の空気がやわらぐ。
「僕にとっては、家族みたいなものですよ」
整った顔立ちに、耳あたりの良い言葉。それを真正面から向けられて、悪い気のする者などいない。男女の別なく、自然と頬が緩む。
ヴァルセニアの第二王弟、ローワンは、その輪の中へとゆったり歩み寄った。
「ご機嫌よう。昼間ぶりですね」
先に声をかけてきたのは、トルキア共和国第三王子——タリク、その人だった。
「こんばんは、タリク殿下。
今宵は楽しんでいただけていますか?」
「ありがとう、ローワン殿下。こんなに楽しい夜は久しぶりだよ。貴殿の成人のお祝いには駆けつけられなかったから」
ローワンについては各国へ書面での報告のみであったから、真っ先に突いてくるとは思っていた。
だが、向けられた笑顔は驚くほど澄んでいて、屈託がない。
「私は……まあご存知だと思いますが、色々ありましたので、友好国の皆様をお呼び立てするのは忍びなく、慎ましく済ませたのですよ」
ローワンは事実だけを述べる。ここで変に波風を立てるべきではない。
「じゃあ、今宵は貴殿のお祝いも兼ねて楽しみましょう」
返ってきた言葉はなおも軽やかで、何の含みもない。ローワンが慎重に言葉を選ぶ一方で、タリクは自然体のまま続ける。
「そういえば、面白い理想をお持ちなんですって?
アーサー王から聞いたよ。ぜひ聞かせてほしいな」
空いたグラスを視線も変えずに従者に手渡し、強請るように小首を傾げた。自分より年上だが、随分と無邪気だ。いかにも末っ子らしいといえば、らしい。
「……兄上もおしゃべりだな。明日は対談でしたね。ではその後にでも。意見を頂ければ、僕としても心強いです」
控えめに返しながら、今度はローワンが新しいグラスを給仕から受け取り、タリクに手渡した。
「今夜はひとまず、どうか存分にお楽しみいただければ」
にこやかにそう言って、ローワンは優雅な所作で礼で締める。
傍目には、若い王族同士の、実に爽やかな挨拶に過ぎなかった。
——けれど。ローワンの胸中は、ひそやかにざわついていた。
これは焦燥だろうか。それとも、名づけるのも憚られるような羨望か。
タリクの纏う揺るぎのない穏やかさ。それは、自分が身につけてきた“そう見せるための柔和さ”とは、決定的に質が違っていた。
第三王子という立場ゆえか。五つ年上という歳月ゆえか。あるいは——王族として生きることを、一度も疑う必要がなかったからか。
答えは分からない。ただ、その自然さだけが、妙に胸に残った。
それでも、ローワンは微笑みを崩さない。
そんな二人の若者を、アーサーは目を細めて眺めていた。
「あの二人、面白くなりそうだ」
愉快そうな兄の声に、後ろに控えていたアルヴェルは、わずかに眉を動かす。
「面白い、などと……」
兄の性格を理解しているアルヴェルは、半ば呆れたようにそう零した。
アーサーはまじまじと二人を見比べていた。
愚直に、ひたすらにベアラーの解放を願うローワン。そして、そのさらに先の未来をゆくトルキアの王子、タリク。
荒削りで、まだ青さの残るローワンにとって、タリクという存在はきっと良い刺激になる。理想を疑い、視野を広げ、選択の重さを知るための。
だからこそ、今回の友好国会談の相手をローワンに任せた。
もっとも、今回トルキア共和国がヴァルセニアへ使節団を送った理由は、単なる表敬訪問に留まらない。第三王子タリクには、もう一つ期待された役目があった。
タリクは、親しみやすい人柄で知られている。柔らかな物腰と、誰に対しても隔てのない態度。国民人気も高い。だが若さゆえか、落ち着きに欠けるのが唯一の玉に瑕だった。
妃を娶り、守るべきものを得れば、いくらかは腰も据わるだろう。聖王はそう考え、幾度となく縁談を整えてきた。けれど当の本人は、そのたびにのらりくらりとかわし続けているという。
「——そんなわけでね」
アーサーは、まるで世間話でもするような調子で続けた。
「今回ヴァルセニアにお越しになった、と。殿下が好みそうな令嬢も、こちらで一通り揃えておいたんだが……」
視線の先では、タリクが相変わらず人の輪の中心で笑っている。
だがどうも食指が動かないらしい。
「本来なら、我が王女を差し出すところなのだろうがな……。いかんせん、ロサリアはまだ十四。フローラに至っては、まだ十歳だ。とても友好国の妃など、任せられんよ」
アーサーはわざとらしく首を横に振った。憂いたような口ぶりとは裏腹に、その声音はどこか楽しげですらある。
年頃になっても、嫁に行かせる気はないくせに。……まったく、筋金入りの親バカめ)
アルヴェルは顔には出さず、毒を吐いた。
夜会の浮ついたムードの中、さまざまな思惑が渦巻いている。アーサーの言う通り、ローワンを大きく成長させるには、この外交は良い経験になるだろう。
アルヴェルが独自に調べただけでも、この国ではすでにティアベアラーの人口減少が目に見えて進みつつあった。
ここ数年の祭事での面々も変わり映えがなく、何より表に出る機会自体が極端に減った。信頼を置く神官筋からも同じ話が聞かれ、どうやら間違いはなさそうだった。
ヴァルセニア王国も例に違わず、ゆっくりと、しかし確実に——神との決別へと歩み始めている。
(……通りであの爺さんがセリウス獲得にあんなに躍起になっていたわけだ)
五年前、セリウスが王宮から解放され、またローワンの王族復帰によって世に溢れていた噂は一掃された。
だが、それも束の間のことだ。
セリウスは、目立つ。
長く押し込められていた感情を解き放つようになった彼は、これまでの近寄り難さが薄れた。人の中で生きる上で、それ自体は喜ぶべき事なのかもしれない。だが、その分危険も増す。
(むしろ……教会相手の方がまだ楽だろうな)
人は誰しも、その姿に都合のいい夢を見て、理想を重ねる。
それだけでも心苦しいというのに、行き過ぎた理想は、やがて失望へと変わり、時に刃となって彼に向けられる。
ベアラーの希少価値が上がれば上がるほど、身に及ぶ危険は増えるだろう。
ティアベアラーの尊厳を守りたい。
力を持つことで搾取や管理を余儀なくされる彼らの人生を変えたい。
ローワンの理想は、セリウスを長く身近で見続けてきたからこそ掲げられるものだ。
それ自体は素晴らしい。
だがそれよりももっと、何か。
根本的な、この国の在り方そのものが変わっていかねばならないのでは、とアルヴェルには思えてならない。
さもなければ。
いつかまた、彼がふいに目の前から消えてしまうのではないか——。
そんな予感が、いつからか胸の奥に居座っている。
それでも、その恐れはアルヴェル自身が抱えるべきものだ。セリウスを縛るつもりなど、元よりない。
彼の望む方へ羽ばたいて欲しい——それだって本心なのだから。
「……で、兄上としては、どうお考えなのです?」
アルヴェルは思考を切り替えるようにして、ちらりとアーサーを見た。
「ナピーリ家の娘は嫁に行ってしまったと言うし……ソフィアの妹君辺りが嫁いでくれるとやりやすいんだがな」
アーサーはひとつ息を吐くと、玉座と対になる位置に座る王妃ソフィアへ、ほんの一瞬だけ視線を送った。
自らの言葉の重さを、受け止め直すように。
ソフィア妃の父——ソレイヴァン侯は、かつてこの国が大水に呑まれかけた折、「神に祈るのをやめよ」と声を上げ、人の力と交易によって国を立て直した人物である。
遥か古の時代から神の代弁者として、そして国の忠臣として国を支えてきたモルフォンド家に代わり、時代の舵を握るようになったのは、つい最近のことだ。
ソフィアは、眉ひとつ動かさなかった。
だがそれは、拒絶でも無関心でもない。
彼女は知っている。夫が、軽い気持ちで誰かの人生を秤にかける男ではないことを。
この国の行く末を見据えた上で、それでもなお選んだ言葉なのだ——そう信じているからこそ、王妃は何も口を挟まなかった。
*
侍従がさりげなく杯を差し出しながら、声を潜めた。
「……殿下。もう少しだけでも、興味がおありの“ふり”をなさってください」
視線の先では、数人の令嬢が期待を滲ませた笑みを向けている。
「うーん」
タリクは困ったように眉を下げ、それでもどこか楽しげに答えた。
「でもさ。もう見つけちゃったんだよ」
「……は?」
侍従が思わず言葉を失う。
「だから。僕だけのカムルセア」
こそりと耳打ちをして、悪びれもせず笑ってみせる。
「まさか……」
「でしょう?僕も驚いた!こんなの運命としか言いようがないだろ?」
あんぐりと開けたままの侍従の口に、手近な卓に盛られていた果実を放り込み、うっとりとした顔でタリクは続けた。
「兄様の言ってた通りだった。銀色に輝く、すごく綺麗な髪でさ」
……また始まった。このままでは話が終わらない。侍従は諦め半分に、夢見心地の王子を半ば引きずるように人混みから離した。
*
「いつまで夢を見ているんだ、お前は」
「父上も毎日同じ台詞をよく飽きませんねえ」
「人のことは言えんだろう。毎度毎度、“僕のカムルセアは一人きりだ”と、そればかりだ」
聖王などと呼ばれても、父親は父親だ。
誰にも期待されぬ三男としてこれまでやってきたのに、それは子どもの頃の話。成人を迎えてからというもの、口を開けばすぐこれだ。
「わかっているなら、放っておいてくれればいいのに」
タリクは口を尖らせてぼやく。
そうはいかない事は、もちろんよく分かっている。国に尽くせぬ王族に居場所はない。ここは、そういう国だった。
それでも、同じような応酬を半ばからかい半分に続けていた。
——この日までは。
「お前、ヴァルセニアへ渡れ」
「……は?」
タリクは数度瞬いた。だが父王はそんなことは気にも留めず、視線を窓の外へと向けると語り始めた。
「我が国は豊かになった。人は神に頼らずとも生きられるようになり飢える者も、病に倒れる者も減った。それは誇るべきことだ。」
いつもの説教とは、少し趣が違う。
タリクはもうふざけるのをやめ、居住いを正す。
「——だが。豊かさと引き換えに、失ったものも多い。工房は姿を消し、祈りと共に受け継がれた技も忘れられ……職人は機械へ職を譲った。その多くは……」
「西へ渡った。でしょ?……ベアラーたちと共に」
タリクが言葉の続きを奪うと、父王はククッと小さく笑った。
「そうだ」
昔、枕元で父王がよく話していた。酒気混じりの吐息は不快だったが、まどろみの中で語られるかつてのトルキアの話は心が美しいもので満たされる心地がして好きだった。けれど。
「奴らはこれから我々と同じ道を歩く。ならばその前に、彼らが持つものを学び。再び後世に受け継がねばならない。そうでなければ、次は世界にとっての損失になる」
あの話の裏で、父王はずっとそんなことを考えていたのか。
「文明とは——昨日を捨てることではない。
昨日の上に、今日を積み重ねてゆくことだ」
返す言葉が見つからなかった。
こんなふうに父王が、自分へ真っ直ぐ国の話をするのは初めてだった。
「……もしや、酒飲んでます?随分と真面目な話をして」
「真面目にもなる」
タリクのからかいに、父王はわざとらしく喉を鳴らした。
「この国が神から自立できたのは僅か数百年。だが神と共にあった歴史は数千年ある。その歴史を忘れれば、この国はいずれ空っぽになる。だから王族がいるのだ」
人々に思い出させるために。昔を懐かしむためではなく、これまでの歩みを——受け継ぐために。
ああ。兄たちもきっとこの話を聞かされたのだろう。そうならば、いよいよ逃げ回ってはいられないのか。タリクは静かにそう思った。
「……それで、僕なんかでいいんですか?」
父王は笑う。
「お前が一番暇だからな」
「ひどい」
タリクも笑った。
「それに……お前は人が好きだろう。それは立派な武器だ。みんなお前を好きになる」
「わはは。親バカ」
「それに、向こうにはお前好みの娘もいるだろう」
「やっぱりそれか」
タリクはわざとらしく肩を竦め「僕の理想はカムルセアなんだってば」となおも駄々をこねたが、
「ならその“カムルセア”とやらを、見つけて来なさい」
もう父王は否定しなかった。
「案外、本当にいるかもしれんぞ」
**
「……殿下?」
侍従に呼ばれ、タリクははっと瞬きをした。
「……え?」
「いえ、何でも」
杯を受け取りながら、小さく笑う。
だって、本当にいたのだ。
思い描いた通りの——僕が見つけた、僕だけのカムルセア。
幼い頃、大好きな兄たちと離れ離れになった時期があった。
遥か西方の友好国、ヴァルセニア。その第一王子が正式に立太子する祝賀のため、父は上の兄二人を伴って旅立ったのだ。
(その王子が、もう今では父と同じ一国の王か……)
タリクは視界の端にアーサーを捉えて、ふっと笑う。
あの時はまだ小さいからと共に来ることが叶わなかった。それでも兄たちは帰国後、この地で見た景色や人々の話をタリクが飽きるまでしてくれたものだ。
中でも、少年御子がアーサーの頭上にオリーブの冠を捧げ加護を行った時の話がお気に入りだった。
『まるで、朝日を浴びてきらめく湖面のような麗しさだった』
『僕よりも幼いのに、凛としていて……本当に素敵だったよ』
兄たちにそこまで言わせるその子は、どんな子なのだろう。
当時は、それ以上の意味などなかった。
「——お疲れのようですわね」
「え、ああ。はは……そうですね、少しはしゃぎすぎたようです」
……また気を抜いていた。軽く笑って言葉を交わすと、相手はタリクを気遣うようにそっと離れた。
聡明そうな令嬢だ。気立てのよい、国にとってもきっと申し分のない家門。
悪くなかった。話せば楽しく、退屈もしない。
けれど。
(……違う)
何が、とは言えない。
ただ、胸の奥に沈んだままの何かが、いつも動かなかった。
兄たちが語ってくれた、あの光景。
朝日を受けてきらめく湖面のような——。
そんなものを、本気で現実に求めているだなんて、馬鹿らしいと思ってもいた。
タリクは無意識に杯の縁を指でなぞる。
甘い葡萄酒の香りが鼻先を掠めたけれど——思い出すのは、昼間の市場に漂っていた香草の匂いだった。
自分でも、もうそんな夢は終わりにしようと思っていた。
それが——まさか、市場の片隅で、こんなにも揺り動かされることになるなんて。
***
同じ神を戴く国でありながら、この国で語られる話は、どこか生々しかった。
信仰というより、生活に根を張った現実の言葉として。
「ついこないだも、カムルセアの治癒師だって名乗って捕まったやつがいたな」
「しかし、あの御子はまたランドフォードに引きこもったって話じゃなかったか?」
「役目を終えて隠居生活?まだ若いだろう」
「俺は方々でエルメリアの加護を授けてるとか聞いたことあるぞ」
往来を行き交う会話の中に、不意に混じるその人物。
(トルキアよりも……ずっと神に近い国だ)
「ねえねえ、お姉さん」
客を送り出しに出てきた、恰幅のいい女主人に声をかける。
「カムルセアの治癒師って、何?」
「あら、あなた他所のお国から?」
女主人はすぐに察したように笑った。
「そうそう。ローワン殿下のご出身では、女神様のことをカムルセアって呼ぶんですって。一時期ね、王宮の御子様も静養でいらしてたのよ」
胸の奥が、ひくりと鳴る。
「……その人、今は王宮に?」
女主人は首を横に振った。
「もう六年くらい前かしら。突然、お役目は解かれてね。王弟殿下をお救いしたなんて言う人も居たけど……、あれもポジティブキャンペーンみたいなものだったと思うわ」
六年ほど前——。ちょうど、あの王弟が王宮を離れていた頃か。
「そっか……」
落ちる声音に、自分でも驚く。
それを不憫に思ったのか、女主人は「そうそう」と何かを思い出したように言った。
「向かいの本屋なら、何か知ってるかもしれないわ。よく立ち寄っていたから。……また、ひょっこり姿を見せるかもしれないしね」
教えられた向かいの本屋の戸を押し開けると、紙とインクの香りがふわりと立ち上り、タリクの鼻先をくすぐった。
店主は奥で、どうやら常連らしい客と世間話に興じている。
ほかには数人、棚の前で本を選ぶ客がいるだけ。
紙をめくる、かすかな音がときおり響く、静かな空間だった。
(……外とは、まるで別世界だな)
天井まで届く本棚には、古びた背表紙から真新しい装丁まで、本が隙間なく並んでいる。
その中で、一冊だけ目を引く本があった。星座図が金彩で描かれた、美しい装丁だった。
(綺麗だな)
思わず手に取る。
厚紙の表紙に、細かな線で描かれた星座図。押し型の凹みに施された金彩が、控えめに光を返している。学術書とも画集ともつかない、不思議な佇まいだ。
これも、父の言うところのヴァルセニアの技なのだろうか。
これは、好きだ。そう思ってふと、気付く。
(……結局、見た目に惹かれてるだけなのかもしれないな)
まだ見ぬ存在。実在するかどうかさえ定かでない誰かのことも、きっと同じだ。頭の中で、都合よく描いているだけ。珍しがって、手に取って眺めてみたい。この本のように。
「ありがとう。それじゃ、また」
店の奥では、世間話はようやく終わったらしい。
振り返ると、目深にフードを被った客が、背を向けて出口へ向かうところだった。
その姿を無意識に目で追ってから、タリクは手にしていた星の本を、そっと棚に戻す。
そして、店主のもとへ歩み寄った。
「ちょっと、聞きたいんだけど……」
店主は、出しっぱなしになっていた数冊の本を書棚に戻しているところだった。
背表紙を指で揃えながら、ちらりとタリクを見る。
「ああ、なんだい?」
「人を探してるんだ」
タリクは、少しだけ間を置いてから続けた。
「王宮にいたっていう御子様で……。ここによく来てたって、向かいの店の人が言ってて」
その瞬間、店主の指が背表紙の上で止まった。
「御子様……?」
視線が、今度ははっきりとタリクに向けられる。
年若い旅人。身なりは軽く、だが目は落ち着いている。
値踏みするような沈黙が、ほんの一瞬流れた。
「……あんた、どこの国の人だい」
「トルキアだよ。観光……みたいなもの」
ごまかしとも正直ともつかない答えに、店主は小さく鼻で息を吐いた。
「ふうん」
もう一度だけ、タリクの顔を確かめる。
探し物をする目だ。好奇心よりも、切実さの方が勝っている。
「……まあ、悪い奴じゃなさそうだ」
独り言のようにそう言ってから、店主は肩を竦めた。
「その御子様ってのが、セリウス殿なら……。
さっき、ここを出てったところだよ」
その名が出た瞬間、タリクの胸が、はっきりと音を立てた。
「本当?」
「ああ。重たい医学書を二冊も下げてな。
そう遠くへは行ってないはずだ」
店主は入口の方を顎でしゃくる。
「追うなら、急ぎな。あの人、足は意外と速い」
「ありがとう」
それだけ言い残して、タリクは店を飛び出した。
先ほどすれ違った男の身なりを思い返しながら、通りを見渡す。
人の流れは相変わらず多い。
露店、呼び込み、行き交う足音。
その中を、タリクは早足で進んだ。
視線を巡らせ、探す。
——と。
ふいに、妙な動きをする二人組が目に留まった。
人波に紛れ、立ち止まっては歩き出し、また止まる。
明らかに、何かを——誰かを、追っている。
(尾行……?それにしては何だか)
少なくとも、自分の従者ではない。
タリクはその視線の先を追った。両手に荷物を抱え、歩調を緩めていたフードの人物。
(……さっきの)
考えるより先に、身体が動いていた。
タリクは走り出す。
その瞬間。
一陣の風が吹き抜けた。
翻った外套のフードが、さらわれる。
「あ——」
零れた声は、思っていたよりも低かった。
銀糸のような髪が風に揺れ、その隙間から、水色の瞳が覗く。
一瞬、視線が絡んだ。
胸の奥が、はっきりと跳ねる。
「あ、君!」
気づけば、声をかけていた。
*
(それはそうと……あの二人組、何だったんだろ)
そんなことがふと頭をよぎったがタリクはすぐにきらびやかな会場に視線を戻した。
楽の音、笑い声、宝石のきらめき。
昼間の埃と香草の匂いは、ここには欠片もない。
タリクはグラスを傾け、ワインをひと口含む。上等だが、焚き火の前で飲んだあの甘ったるいホットワインの方が今は恋しい。
(……明日、午後三時)
胸の奥で、そう小さく呟いて、タリクは再び煌めきの中へと吸い込まれていった。




