Limare
翌朝。
会談の場は、王宮奥に設えられた小広間だった。夜会の余韻を引きずるような華美さはなく、壁の装飾は控えめで、長卓の上には数枚の地図と書簡が整然と並べられている。窓から差し込む朝の光が、磨き上げられた床に淡く反射していた。
扉が開き、タリクが入室する。
穏やかな笑みは夜会のまま、その佇まいには余計な気負いがない。
ローワンは一度立ち上がって彼を出迎えた。多少緊張しているが、こちらも元来の人好きのする笑顔である。
「おはようございます、ローワン殿下」
「おはようございます、タリク殿下。よく休めましたか?」
「ええ。心地よくてなかなか布団から出られなかった」
冗談にくすくすとローワンは笑いながら、ごく自然にタリクへ着席を促す。
「ありがとう」
タリクがゆったりと腰掛ければ、書記官と補佐官たちが一礼し、壁際へと下がった。
名目上は友好談話——だが、それだけでは済まないのが暗黙の事実だ。
それぞれの国の現在。そんな話を皮切りに、話題はヴァルセニアの海路の安全確保、交易に伴う港湾技術の共有、近年導入が進む灌漑設備へと進む。
ローワンがヴァルセニアの実情とトルキア由来の先進技術がどのように活用されているのかを説明し、書記官が補足した。
「なるほど……ええ、その点は理解しました」
タリクは地図に視線を落とし、指先で示された航路をなぞる。
「新たな技術交流については、持ち帰って執政官へ共有します。前向きに検討されるでしょう。こちらとしても望んでいたところです」
補佐官が安堵したように小さく息を吐く。
ひとまず、“会談”としての役目は果たされた——そういう空気だった。
だが。
タリクは地図から手を離すと、椅子に深く腰を掛け直し、ふっと視線を上げた。
「……それよりも、ローワン殿下」
声音は柔らかいが、場の空気がわずかに変わる。
タリクは一度、窓際に控える文官たちへ目をやり、肩をすくめるように笑った。
「ここからは、公式な見解ではありません。条約の前段でもない——ごく個人的な興味です」
ローワンは、思わず背筋を正した。
「差し支えなければ」
タリクは穏やかに続ける。
「昨晩お伝えした通り、あなたの思い描く理想について、ぜひ聞かせていただけますか。
神から自立し、人の力をどう活かしていくのか。——それは、トルキアにとっても他人事ではありませんから」
——試されている。
だが同時に、真剣に話そうとしている。
ローワンは意を決したように一度深く呼吸をした。
「僕は……神を否定したいわけではありません。」
ローワンは、卓上の資料には目を落とさず、正面のタリクを見た。
「祈ることはこの国にとってかけがえのないものです。ただ、それが全てではありません。
この国は大水の被害から、まもなく三十年を迎えます。壊れた家屋も、畑も、川も、今やもう何もかもが元通りになりました。ですが、人は……ベアラーの犠牲の上に生かされた私達は、何か変わったのだろうか、と思うのです。
かつて多くの命を奪った天災がいつまた起こらないとは限らない。その時、人が自ら選び、考え、守ることを放棄してはいけないと思っています」
一度言葉にし始めると、これまで抱えてきた不安や葛藤がローワンの意思を超え、口をついて出た。
(まずい、言い過ぎたか……?)
ローワンは衝撃に備える時のように目を細め、神を愚弄したわけではないと弁解しようとした。
「いいですね」
ぽつりと、しかしはっきりと。
予想に反して、タリクは穏やかにそう言った。
「……いい、ですか?」
「ええ。少なくとも、僕は好きです」
タリクは、少しだけ身を乗り出す。
「あなた方の国が置かれている状況は、おそらく、かつて僕の国が歩んだ道です。
昨日少し市井を散歩させてもらって、ふとそう気付きました」
ローワンはまた、目を瞬かせた。
この相手は——ただの友好国の王子ではない。
自分の理想を、甘さも危うさも含めて、真正面から受け止めようとしている。
(何だろう、これ)
昨晩のあのどうしようもない劣等感など、もはや瑣末なことのように思えた。
ローワンはゆっくりと息を整えて、それから頭を下げた。
「あの、タリク殿下。僭越ながら、胸をお借りする気持ちで、お話ししてもよろしいでしょうか」
タリクは一瞬だけ目を瞬かせ、それから穏やかに頷いた。
「もちろん。そのための友好関係でしょ?」
*
二つの国のこれまでの歴史はとてもよく似ていた。遠く離れた地だが、ヴァルセニアはかつてのトルキアであり、ベアラーにとっては、そのトルキアを捨て、ようやく辿り着いた安住の地であるはずだった。
「……僕が変えたいのは、信仰そのものではありません。ただ、選択肢がひとつしかない世界を、終わらせたい」
力を持つ者が、守られる代わりに縛られ、守るはずの国が、その力に依存し続ける——それが、正しい形だとは思えなかった。
それは王族の意見というより、ローワンの個人的な意見に他ならない。
タリクは、静かに息を吐いた。
「……なるほど」
その声には、評価でも、同情でもない、理解の重みがあった。
「僕の国も、似た道を通りました」
タリクは、地図の外縁に指を置く。
「失ったものは多かった。人も、技術も、祈りとともに受け継がれてきた文化も。
それでも今こうしてトルキアがあるのは、残された者への贖罪と、彼らの無念を引き受ける覚悟を持ったからです」
ローワンは、その言葉を噛みしめるように聞いていた。
「でも、十分ではなかった」
タリクは、まっすぐにローワンを見る。
「追われるように逃げたその先でもまた、同じような局面を迎えた。トルキアほどは災害のない穏やかな地で、一時は安寧だったでしょう。……ですが、そのせいで次は、人災を生んでしまった」
タリクが示しているのは、先ほどローワン自身が口にした、大水で失われたベアラーたちの歴史のはずだ。
それでも、ローワンの脳裏に浮かぶのは、やはり白銀の髪の彼の姿だった。
「祈りを否定したい、というより……祈りの名の下で、ベアラーが“役割”として扱われている現状を、変えたいということではありませんか」
——ああ。
ローワンの胸に張りつめていたものが、静かにほどけた。
言葉を選び続ける必要は、もうない。そう思えた。
「現在、我が国ではベアラーの所在を教会に……一元化しています。それが最も安全で、合理的だとされてきました」
だが、とローワンは続ける。
「それでも、異を唱える声はあります。彼らも同じ人間であり、力の発現によって人生を定められるべきではない、と」
言葉の端が、わずかに揺れた。
「僕は、その意見を……無視できません」
視線が、同席していた補佐官へと流れる。
補佐官は小さく首を振った。
——それ以上は踏み込むな、という無言の制止。
その沈黙を破ったのは、タリクだった。
「一応、彼らのために言っておくけれど」
穏やかな声だった。
「これは、あくまで“政策”の話じゃなくて、君自身の思想の話、でいいよね?」
「……ええ、もちろんです」
タリクは一度、窓際に控える文官たちへ視線をやり、軽く肩をすくめた。
「だそうだよ」
文官たちは理解したように筆を止め、姿勢を正す。
その様子を確認してから、タリクはローワンへと向き直った。
「よければ、少し庭園を案内してもらえませんか、ローワン殿下」
*
庭園は、会談の間とはまるで別世界のように静かだった。
風はおだやかで、低木は柔らかな小春の日差しを受け、石畳の小径には水音だけが淡く響いている。
しばらく、二人は言葉もなく並んで歩いた。
「あー、疲れた!」
不意に上がった声に、ローワンの肩がぴくりと跳ねる。
「……っ、いきなりですね」
「ねえ、君も疲れたでしょ。僕はもう限界で」
「ふ、あはは……さっきまでと、雰囲気が違いすぎませんか?」
「何だよ、“雰囲気”って」
タリクは肩をすくめ、苦笑する。
「ああいう畏まった席にいるとさ、だんだん全身が痒くなってくるんだ。ちゃんと座って、ちゃんと話して、ちゃんと期待に応えて……もう拷問だよ」
つい先ほどまで、場を取り仕切り、未熟なローワンを気遣っていた人物とは思えない。
それなのに、今はそんなことを意にも介さず、冗談めかして笑っている。
——不思議な人だ。
それ以外の言葉が、咄嗟に見つからなかった。
ローワンは気後れすらできず、ただ素直に笑った。
王宮に来て、こんなふうに肩の力が抜けたのは、初めてかもしれない。
「さっきの話だけど」
不意に、タリクが足取りを緩めた。
「異を唱える者って、あれは……君自身の意見だよね?」
ローワンの瞳が、わずかに見開かれる。
王族が、教会の在り方に異を唱えている——そう受け取られてもおかしくない問いだった。
「……なぜ、」
タリクは、悪戯めいたというより、どこか穏やかな笑みを浮かべた。
「昨日、少し市井を歩かせてもらったって言ったでしょ」
そう前置いてから、軽く肩をすくめる。
「僕、耳がいいんだ。
人の噂も、独り言も、酒場の隅の愚痴も……案外、よく聞こえる」
歩みを再開しながら、彼は静かに続けた。
「いろんな話を聞いたよ。中には、都合のいい虚像もあったけどね。
でも、その噂が生まれた背景を辿ると、見えなかったものが見えてくる」
ローワンの瞳を、じっと見据えて、タリクは言った。
「ランドフォードで過ごした御子。
君にとって、かけがえのない人なんでしょう」
その一言に、ローワンの喉が、きゅっと鳴った。
けれど、容易く表情を崩したりはしない。
「……さっきも言った通り、僕はティアベアラーに、人として生きてほしいんです」
思っていたよりも、声は落ち着いていた。
言い訳も、弁解もない。ただ、積み重ねてきた考えを、そのまま差し出すような声音だった。
「もうこれ以上、彼らを王宮の道具にも、教会の所有物にも——したくない。誰にも縛られず、自由に生きて欲しい。そうあるべきだと……」
そこで、いったん言葉が途切れた。
「だから僕は、教皇と約束しました。
あの人を王宮から逃がす代わりに……王族として、正当な血として、制度を語れる立場で。御子を“神話”からも“道具”からも降ろす役目を担う、と」
ローワンは足を止め、庭園の奥へと視線を投げたまま、続けた。
「……あの人は、確かに僕のきっかけになった人だけれど、……ただの、最初の一人ってだけです」
ローワンが次の言葉を探しているうちに、タリクもまた、立ち止まる。
「うん。そういうことにしておこう」
半身だけ振り返って、笑った。
なぜ、見透かされている気持ちになるのだろう。
「それで、例えばだけど……何か案はあるの?」
「そこまで……聞く必要、ありますか?」
ローワンは少しムッとして答えたが、タリクは笑顔を崩さぬままあっけらかんと答える。
「だってさ。君の考えてることって、まだ誰も見たことのない未来だろ?ワクワクしない?」
ワクワクだと?
ベアラーの、いや、人の人生が掛かっているというのに。これまでどれだけ試行錯誤して、未だに少しも前に進めた心地すらしないっていうのに。
なのに、どうして。
聞いてもらいたいと思っている。
『ワクワクする』だなんて、馬鹿みたいな言葉なのに。
「……ベアラーの所在を」
声が少し震えている。
ローワンは一度唇を噛んで、もう一度口を開いた。
「ベアラーの所在を、教会だけに委ねない仕組みです。力を持つ者を“管理する場所”ではなく、選べる居場所を複数用意する」
タリクは、何も言わずに聞いている。
「教会に残る者もいれば、王宮がその存在を認知した上で市井で生活できる道もある」
それは、理想論に近かった。
だからこそ、ローワンは言葉を継ぐ。
「当然、反発はあります。教会は独占していた権限を失う。民もまた、安全のためとはいえ、王宮に自分たちの情報を握られることへ不安を覚えるでしょう。
そして、“神の加護”が目に見える形で存在しなくなれば、信仰そのものが揺らぐかもしれない」
一息に喋り切ると、ローワンは静かに息を吐いた。
「それでも……一箇所に集め、役割を与え、
“守っているつもりで縛る”やり方を、続けるべきではないと思って」
踏み締めた枯葉が、カサリと音を立てた。
「……早く形にしなければ、いけないんです」
かすかに、唇が歪む。
「僕が彼を……新しい神話にしてしまったから」
タリクは、黙ったまま、それを受け止めていた。
しばらく、風の音だけがあった。
「ああ、そっか。……やっと腑に落ちた」
タリクは歩き出しながら言った。
ローワンは、思わずその横顔を見る。
黒い瞳が、穏やかに空を映していた。
「君は完璧主義者なんだね。少なくとも、古い神話からは彼を解放できたのに」
タリクは一度ローワンに視線を向け、それからまた、微笑んだ。
「それにさ。彼の自由の責任まで、君が背負う必要はない。セリウスだって……こうなることは最初から分かった上で、その道を選んだんじゃないかな」
「……なぜ、その名を」
「さあ、どうしてかな?」
今度は悪戯っぽく笑って、タリクは一歩だけ距離を詰めた。
「ローワン。
僕は、君の国のやり方に口を出せる立場じゃない。それ以前に——自分の国の“やり方”や“これから”についてすら、語れない。その上で、なんだけど……」
黒い瞳が、冗談を許さない色になる。
「君のその政策が、“セリウスを自由にしたい”がために進められているのなら——やめるべきだと思う」
「……理解しています」
ローワンは、ゆっくりと頷いた。
それでも、彼を切り離して考えられるほど、僕は強くない。
*
王宮の回廊の奥、庭園を見下ろす高窓の陰から、二人の姿を見守っている者がいた。
「……大丈夫ですかね」
ノエルドが、ぽつりと呟く。
「……さあな」
アルヴェルは、窓の外から視線を外さずに答えた。
「放っておいても構わん」
少し間を置いて、静かに続ける。
「いつまでも庇ってもやれないしな。早いところ、自立してもらわなければ、こっちも動けない」
相変わらず淡々とした口調で。
その口元がわずかに緩んでいたのを、ノエルドは見ないふりをした。




