Vacillare
再び屋台街に訪れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
午前中は穏やかだった通りも、昼下がりになるにつれて風の勢いを増している。店々の天幕がばたつき、吊るされた香草や乾物がかすかな音を立てて揺れていた。
セリウスは、通りの端に設けられた簡素な焚き火のそばに腰を下ろしていた。焚き火といっても、煮炊き用に起こされた小さなもので、屋台の主が目を離している隙に、客が勝手に暖を取っていくのを黙認されている類のものだ。
彼はその火に手をかざしながら、膝の上に開いた本へ視線を落としていた。
紙の端が、風にあおられてめくれそうになる。それを指で押さえ、傍目にはゆっくりと文字を追うような素振りを見せる。
内容は既に何度も読んで知っていた。けれどこうして雑踏の中で気を紛らわせるにはちょうど良かった。
少しの辛抱だ。
タリクから本を返してもらえば、もう王都に用はない。今朝、ヘリオスは残念がっていたが——。
怪しい奴に尾けられていたのが本当ならば、一刻も早く離れなければ。
(尾けられていたことは……まあ、言わなくて良いか)
セリウスは目深にフードを被り直す。ただ静かに視線を手元に落としていると、街の景色の一部になったような心地がした。誰かに声をかけられることもなく、視線を浴びることもない。
御子でも何でもない。ただの、少し風変わりな旅人の一人。そう思うことで、胸の奥に沈んだものに、そっと蓋をする。
それでも、昨日のタリクの言葉が引っかかっていた。
「役目から下りる……」
ぼそりと呟いた声は風にかき消された。
セリウスはじっと手を見て、それからその手を胸に当ててみた。久しぶりに感じる自分の泉は、果たしてこんなに頼りなかっただろうか。
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
「……」
その瞬間、風向きが変わる。
煙が一気に流され、周囲のざわめきが、わずかに大きくなった。
セリウスは、弾かれたように顔を上げる。
その時だった。
セリウスの視線の先で、露店のテントが風を孕み、不自然に膨れ上がった。
嫌な予感が、背筋を走る。
緩んでいた留め具が外れ、天幕が乱暴に剥がされた。支えを失った支柱が大きく傾き——
「危ない!」
誰かの叫びと同時に、ガランガラン、と耳を打つ激しい音が響く。
支柱が倒れ、引きずられるようにテント全体が崩れ落ちた。その勢いで、脇に積まれていた木箱が弾き飛ばされ、中身ごと地面に叩きつけられる。
「きゃああ!」
「子どもが——! 子どもが下敷きに!」
悲鳴と怒号が、重なった。
人々が一斉に距離を取り、しかし誰も近づこうとしない。
崩れた布と木箱の下で、小さな影が動かないのが、はっきりと見えた。
——考えるより先に、体が動いていた。
本を閉じることすらせず、セリウスは焚き火のそばを立ち上がる。
セリウスが駆け寄るまでに、ようやく遠巻きに見ていた男たちも慌てて駆け寄り、崩れた木箱を退けていたが、その下から血に染まった小さな身体が現れると、やはり人々はその動きを一斉に止めた。
人垣の隙間をすり抜けるようにしてセリウスが子どもの脇に駆け寄る。
「聞こえるか?おい、返事を!」
「痛……よお、はぁ……あ゛うう……!」
ぜいぜいと荒れた呼吸に混じって、少年は微かに返事をした。
セリウスは子どもの状況をざっと見る。
あいにく、今は応急処置くらいしかできない。
「医師を!誰か、医師を呼んでください!」
それだけを投げて、セリウスは少年の腕にハンカチを手早く巻いて止血し、それからなおも血がじわじわと滲み出ている頭部の傷を押さえた。
意識はある。
頭部も出血は派手だが、これは割創によるもので、骨や内部には問題があるほどではなさそうだった。
だが、少年はみるみる血色を失ってゆく。
原因を探ろうにも人の目が気になり、セリウスは集中を欠いていた。
どちらにせよ、ここでは何もできない。
そう頭では分かっている。だが、辺りを見回しても医師らしき者は現れない。
人は多く、道は塞がれ、少年を運ぶこともままならなかった。
(今、ここで——)
「ねえ……あの人、髪が……!」
ドキリと心臓が跳ねる。
「あんな真っ白……悪魔よ」
「……いや、待て。もしかして、白い御子様じゃないか?」
「え……?」
やめてくれ、今——。
「お願いです、医者を……!」
セリウスがもう一度振り返る。数人が僅かに後退った。
背負って行くか。だが、どこに?
セリウスは固唾を飲み、一瞬躊躇った。
「おじさん……助け、……」
弱々しい力で袖を掴まれた。
「……」
一度、自分胸に手を当て、落ち着けと自らを制すると、覚悟を決めたように少年の胸に手をかざした。
指先に集中し、祈りを込める。
自分の内側から温もりを汲み上げるように、そっと——息を吐く。
わずかに空気が震え、青白い光が二人の間で滲んで消えた。
「うそ……あの人、そうだわ!」
「すごい。初めて見た」
集まった人々の視線は、彼の手元ではなく、セリウス自身に向けられている。
「……御子なんだろ?」
「子どもは動かないぞ」
「力があるなら、全部治せるんじゃないのか?」
囁きが、風に紛れて届く。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
セリウスは顔を上げた。
「……医師は? 誰か、医師を——」
声は、風にさらわれるように消えた。
視線がいくつも交わされるが、誰ひとりとして答えない。
沈黙が、じわりと広がる。
やがて、人垣の端で、ひとりがためらいがちに手を挙げた。
「……診療所なら、近くにあります。
行った方が、早いかもしれません。案内します」
「ありがとうございます」
セリウスは短く応じ、子どもの身体に手を差し入れた。
抱え上げようとした、その瞬間——
キィーン、と。
強い耳鳴りと、胸の奥を針で貫かれたような痛みが走った。
「……っ」
力が抜け、立ち上がりかけた膝が折れる。
視界が揺れる。
倒れ込む寸前、ふいに影が差した。
「セリウス殿」
低く、落ち着いた声。
「私が代わる」
子どもの身体を、確かな手が受け取る。
セリウスが顔を上げると、逆光の中で、男が困ったように笑っていた。
「……ラシード殿?」
なぜここに、という言葉が喉までせり上がる。
「なぜ……?」
問いかけの先を、セリウス自身が飲み込んだ。
「説明は後で。人目が多い」
それだけ言って、ラシードは案内役の後を追った。
振り返らない。
セリウスは一拍遅れて立ち上がり、後に続く。
息が、苦しい。
胸の奥が、まだ鈍く痛んでいる。
——焦って、力を使いすぎた……?
見られてしまうことに、迷った。
助けるべきなのに、力を使うことに躊躇した。
アルヴェルのときには、迷いもしなかったのに。
その迷いが、胸の痛みを一層強くさせていた。
*
診療所は、屋台街の裏手にある小さな建物だった。
煉瓦造りの壁は煤け、窓は低い。扉を開けた瞬間、消毒用の酒精と乾いた血の匂いが鼻を刺した。
「ここに寝かせよう」
ラシードの指示に、セリウスは物置になっていた簡素な診察台を空ける。
ラシードが子どもを下ろしている間、案内役が慌てて水桶を用意していた。
——考えろ。今はそれだけでいい。
セリウスはなおも煩く鳴る胸を、叱るように数度強く叩き、一度目を瞑ってふっと息を吐く。
子どもの頭部を確認し、血で濡れた布を外した。
裂けた皮膚。骨までは達していないが、出血が多い。
ラシードが無言で消毒液をバシャっとかけると、手早く針と糸を用意した。
一方で、セリウスは子どもの衣服を捲ると胸元へと視線を落とす。
「はあ、ぁ……。苦し、よお」
(……こんな、初歩的な)
頭部の出血に気を取られたのか。
それとも——。
セリウスはグッと奥歯を噛み締めた。
ラシードは少年の胸を一瞥してから、ニヤリと笑う。
「目が悪くなったんじゃないか?」
縫合する手はそのままに、僅かに視線だけを寄越し「代わるか?」とセリウスを伺う。
セリウスも、指摘を受けて少年の痩せた肋に手をかけ、静かに、しかしはっきりと答えた。
「……やれます」
ちらと振り向いて、診療所内の器具を探した。留守にしていた常駐医が慌てて戻ってくる。
ラシードは状況を簡単に説明すると、常駐医と共に頭部の縫合の準備を、セリウスは消毒したニードルを手に少年の脇に立った。
ズズッと肉を割く鈍い感触の後、不意に壁を抜ける感覚が指先に感じる。
なるべく痛みが起きぬよう、その指先にもまたセリウスはあの力を込めた。
プシュッ、と小さなガスが抜ける音がする。
張りつめていた少年の胸が、わずかに上下する。
浅い。だが確かな呼吸。
「……戻ってきたな」
ラシードが息をつき、視線を上げる。
少年の顔に、ほんのりと血の気が差していた。
「やはり気胸だったか。処置は済んだ。あとは安静と経過観察だな」
とラシードは息を吐く。
常駐医が頭部の縫合を済ませると、二人は手早く引き継ぎの準備に入る。
セリウスはそれを少し離れたところで確認すると、ようやく深く息を吐いた。
——助かった。
その瞬間、張り詰めていたものが、音を立ててほどける。
足の裏から、力が抜けた。
「……っ」
視界が、ぐらりと揺れる。
診療台の縁に手をついたが、指先に感覚が薄い。
「おっと……!」
ラシードが、即座に支えに入った。
「ごめんなさい……少し、無茶をしたみたいで」
自嘲気味にそう言うと、喉の奥がひくりと鳴った。
屋台街での躊躇。
見られているという意識。
考えなくていいことまで考えたせいで、無駄に胸にきた。
少し、いつもと違っただけ。大したことはない。
「……休め。もう君の役目は終わりだ」
ラシードの声は低く、医官のそれだった。
医師として、この力を好まないのはセリウスとて同じだ。だが、セリウスはラシードの視線の奥にあるものに気付かないふりをした。
外が、騒がしくなっていた。
「御子様が中にいるらしいぞ」
「さっき、加護を授けたが子どもはまだ……」
「救えないなんて事があるのか?」
ざわざわと、声が近づいてくる。
診療所の扉の向こうに、人の気配が増えていくのが分かった。
「……面倒だな」
ラシードが小さく呟いた。
セリウスは顔を上げようとしたが、首が重い。
『医者なら……君が君自身でいたいなら』
いつだったか、ラシードに言われた言葉を思い出す。
頭の奥が、じんと痛む。
——まただ。また、間違えた。
そのとき、診療所の戸が開いた。
「ああ、こんなところにいた」
緊張感のない、妙に緩んだ声。
「約束したのに、荷物だけ置いてどこか行っちゃうんだもの」
タリクは一瞬で室内を見渡した。状況を察したように、ラシードへ視線を向ける。
「ひとまずここを離れた方がいいよね?」
「……そうしてもらえると、助かります」
タリクは軽く頷いて、すぐに腰を屈める。
黒曜石の瞳とかちあった。
「……セリウス、いいね?」
「……」
彼はにっこりと微笑むと、再び診療所の扉を開け、野次馬の群の向こう、自分を追ってきた従者を呼ぶ。
「おい!手伝ってくれ」
その声が、遠くで反響している気がした。
押し寄せる眠気に抗うように、セリウスはタリクの横顔を見ていた。
「なぜ、ここに……?」
問い掛けたものの、返事を聞く前に意識は途切れた。
次に目を覚ました時には馬の上にいた。馬の背の揺れに身を預けながら、流れる景色をぼんやりと眺めているうちに、また音が遠くなる。
この男は、なんなのだろう。
なぜ、こうも当たり前のように関わってくる。
よく分からない相手のはずなのに——。
気づけば、外套が肩に掛けられていた。
誰かの声がして、身体が揺れる。手綱が引かれる感覚。
「……大丈夫、大丈夫。落ちないよ」
耳元で、気の抜けた声がした気がした。
ようやく意識が浮上したのは、馬の歩みが止まったときだった。
揺れが消え、足元から硬い感触が伝わってくる。
「起きて。そろそろ着くよ」
すぐ傍で、またその声。
「……?」
まぶたを持ち上げると、夜気がひやりと頬を撫でた。
視界がゆっくりと焦点を結び——石畳、松明の火、そして。
高く、見覚えのある壁。
「……ここ……?」
一瞬の間。
次の瞬間、セリウスはがばっと上体を起こした。
「ここは、だめだ!行けない!」
声が裏返った。
「いやいや、急に元気出たね」
タリクは驚くでもなく、むしろ感心したように言う。
「いや、なんでこんな場所に……」
反射的に周囲を見回し、はっとする。
ラシードの姿がない。
「……ラシード殿は?」
問いにタリクは答えず、少しだけ声音を落とした。
「セリウス。君が縋ってきたのに」
わざとらしく肩をすくめる。
「忘れた?」
「……いや、だから、なんで……」
言いかけて、言葉が止まった。
昨朝、ヘリオスは何と言った?
噂の件で頭がいっぱいで、耳に入っていなかったが……。
この若さで——たいして興味もなさそうな顔をして、悠然とトルキアの歴史を語り、見知らぬはずの他国のベアラーに、躊躇なく手を差し伸べる。
妙に慣れていて、その振る舞いが、あまりにも自然だったのも——全て。
「……王宮に行くなら、私をここで下ろしてください」
喉の震えを押し殺し、言葉を続ける。
「どうか、お願い致します……」
「どうして?」
口調の変化に、タリクの眉が跳ねた。
「何を、そんなに怯えるの?」
「怯えてなど……」
一瞬、言葉に詰まる。
「……もう、私はみだりに足を踏み入れることは出来ません」
説明でも、説得でもない。ただの、変えられない事実。
なのに。
「知ってるよ」
あまりにもあっさりと言われて、セリウスは息を詰めた。
「君は、王宮を離れた御子。そうだろう?」
「だったら……!」
声を荒げかけて、言葉が途切れる。
怖いのだ。
舞台から降りたはずの人間が、今さら戻ってきて、どう見られるのか。
一人だけ逃げておいて、失態を晒して。
今の自分を見たら、ローワンは何と言うだろう。
アルヴェルは——呆れるだろうか。
「……っ」
タリクは少しだけ目を伏せ、それから困ったように笑った。
「……嫌だよ。今日、待っててくれたじゃない」
胸の奥を、指でつつかれたような感覚。
子どもみたいに、率直に。
「まだ、本も返せてない」
城門が開く音がして、異国の衣装を纏った従者がこちらに向かってくる。
「……君は」
言いかけて、セリウスは言葉を切り替える。
「……殿下は、初めから分かっていて私に声を掛けたのでしょうか」
なぜこんなにも——がっかりしているのか。
昨日の旅人同士の気楽さが嘘だったからか?
差し出された手を安易に掴んでしまった己の甘さにか?
とにかく、線を引かなければこの瞳を直視出来なかった。
「……どうかな」
タリクは少し考えてから、曖昧に笑った。
「少なくとも声を掛けたのは個人的な興味でしかない」
セリウスは唇を噛んだ。
「本当に、君と話したかったんだ」
嘘だ。
「私は……」
言葉を探す間、胸の奥がきしむ。
「殿下に甘えるつもりはありません」
「うん」
「助けていただいたことには、感謝しています」
「うん」
タリクは満足げに笑っている。
「君は、たまたま僕に助けられて、ここに連れて来られてしまった」
冗談めかした口調で。
けれど、その瞳は真剣で、逸らせない。
「ね。今は、それでいいじゃない」




