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女神の国 2  作者: 大福駒子


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17/25

Unravel

 王宮の正門に辿り着くと、トルキアの従者達の間からノエルドがするりと前に出た。

 馬から降りたセリウスの姿を認めるなり、彼はタリクより一歩早く歩み寄り、その肩を支えて静かに距離を取る。


「タリク殿下。この度は、貴重なお時間にもかかわらずお手数をおかけいたしました。

 事情につきましては、先ほど王宮医官より報告を受けております。あとは王宮側で引き取りますので、どうぞ迎賓館へお戻りくださいませ」


 丁寧で、しかし有無を言わせぬ口調だった。


「いえ、お気遣いなく」


 タリクは穏やかに応じる。


「実は彼とは、昨日すでに知り合っていまして。今日も会う約束をしていたんです。そういう意味では、運が良かった」


 その言葉に、ノエルドは一瞬だけセリウスへ視線を向けた。

 セリウスは黙って、嘘ではないと肯首する。


「……部屋を用意してある。今日はもう休んでいきなさい。エルネスト先生も呼んであるから」


 ノエルドは表情を変えないまま、言った。


「……はい」


 観念したように小さく息を吐くセリウスに、 ノエルドはようやく困ったように微笑む。


「歩けるかい?」


 そう言って、肩を寄せる。

 その様子を、タリクは少し離れた場所から眺めていた。

 昨日、セリウスの周囲をうろちょろしていた、あの二人組の男たち。診療所に居合わせていた医官も、偶然にしては出来すぎている。あの者たちは、この男の指示で動いていたのだろうか。

 だが、奇妙だった。

 セリウス自身は、明らかに王宮と距離を取ろうとしている。王宮の従者たちの口から、彼の名が語られることは一切なかったと記憶している。


 王宮は、完全に御子を手放した——少なくとも、表向きは。


「……ああ、やれやれ」


 他国の内情など、関係ない。

 踏み込む理由も、資格もない。


 ただ少し、夢に見たカムルセア——その風の中に立っていた姿が、気になってしまっただけだ。


 本当に、どうかしている。


「では、彼をよろしくお願いします」


 タリクはノエルドに向かってにっこりと笑うと、あっさりと身を引いた。



 既視感のある部屋だった。

 簡素だが手入れの行き届いた調度。窓の位置も、寝台の高さも、かつて世話になった頃と変わらない。胸の奥の不快感が似ているのも、その頃の記憶のせいだろうか。

 とはいえ、あの時の状態と比べれば、この状況ははやり過分だ。

 セリウスは俯いたまま、欠けた指を注視していた。


「思ったより平気そうだな」


 エルネストは顎髭を撫でながら、変わらぬ調子で笑った。


「だがな、セリィ。お前、また痩せただろう?旅など体力も要るだろうに、また碌に食べていないんじゃないのか?」


 ヘリオスとの夕餉が思い出され、セリウスは小さく苦笑した。


「先生まで……。皆、私の食事の心配ばかりするのですね。ちゃんと食べていますよ」


 口ではそう言いながらも、あの否定しきれない感覚が存在感を増していた。先ほどのふらつきも、周囲の視線や迷いが重なり、力を使いすぎたせいだと——そう思い込もうとした。

 だが相手は、身体の小さな子どもだ。あんな吐き気がする程の耳鳴りも、目が眩むほどの負担も、感じるはずがなかった。

 なのに、今も残るこの鈍い疲労感を、どうしても説明できないでいる。


「……分かっていますよ」


 口に出してみても、何が分かっているのか、自分でも曖昧だ。

 まるでそれに気付いた様に、それまでエルネストの後ろで黙っていたラシードが問い掛ける。


「君は、何をそんなに悔いている」


「……あ」


 分かりやすく狼狽えた声を出した事に、慌ててセリウスは俯いた。


「頭部の……出血に気を取られました。あんなの、初歩です。最初に胸を見ていれば、……あんな力を……。すみません」


 落ち着かない。セリウスは欠けた小指の付け根を弄りながらおずおずと溢す。


「まあそうだな。君は医師なんだから。

 ……頭部に気を取られた。判断が遅れた。それは反省すべきだ」


 ラシードはその言葉を一度受け止めるように頷いた。


「だが、患者は助かった。それで、まだそんな顔をする理由が私には分からないな」


「……ふむ。判断を誤ったことを悔いて?それで、新米医官みたいにしょげておるのか」


エルネストまでもがそう言って笑う。


「少なくともわしが知っているお前は、しょげる暇もなく次へ行く人間だったはずだが」


「ああ……。私が言ったことを気にして?医師としてありたいなら……と」


ラシードは少し困った様な顔をして続けた。


「あの状況じゃ、そうも言ってられなかっただろう。君はただ、咄嗟に選べる手段を選んだだけだ」


 そうだ。

 だが、それだけなら、どれほど良かっただろう。


 ——あの場で迷ったのは、医師としてではない。


 白い姿を見られること。

 悪魔と呼ばれること。

 御子として期待されること。


 その一瞬の躊躇が、命より先に胸をよぎった。

 あろうことか、悪魔と御子を天秤にかけて——。

 

 それは、許されない事だ。


「……」


 二人の言うことは正しい。

 医師として、それが最も健全な考え方だ。

 だからこそ——。

 自分のこの苦しみだけは、二人にも分からないのだろうと思った。


 エルネストもラシードも、それ以上は何も言わなかった。しばらくの沈黙のあと、ただ短く


「今日は休みなさい」


そう告げて、部屋を出て行く。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 セリウスは寝台の縁に腰掛けたまま、両膝を抱き寄せる。身を小さく折りたたむようにして、その上に額を伏せた。


 情けない。


 もう慣れたと思っていたのに。

 悪魔憑きの身体のままでも、医師として直向きであれば、人間らしくあれると——いつからか、そんな希望を抱いていた。


 なのに、目先の恐怖に怖気付いて——結局この力に頼った。

 力が及ばないからではなく、自分本位な理由で。


 挙句、力に翻弄され——。

 飛び出したはずの鳥籠に自分から戻って来て。

 滑稽すぎる。


 ふいに、ノックもなく扉が開く音がした。


 それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。

 理由なんて考えるまでもない。この部屋に誰がいるか分かっていて、許可など求めずに入ってくる人間は一人しかいない。

 セリウスは、顔を上げなかった。

 寝台の上で身を丸めたまま、瞼を伏せる。それでも、耳だけは勝手に研ぎ澄まされてしまっていた。

 それがセリウスを、更に情けない心地にさせる。


 足音。ためらいもなく、まっすぐこちらへ向かってくる気配。

 来るな、と思う一方で——。

 その距離が、少しでも縮まるのを、どこかで期待している。


 寝台が静かに軋む。

 「近い」と認識するより先に、大きな胸に包み込まれていた。

 ——ああ、この匂いだ。


「……重いです」


 抗議にもならない声が零れる。

 後頭部に、アルヴェルの頬が触れていた。

 その温度と、呼吸。

 吐息が耳の裏をかすめ、微かに笑った気配がした。


「ここで会うとはな。お前は全く……いつも予想外の行動を取る」


 責める響きではない。

 呆れと、諦めと、それでいてどこか愉しむような声音だった。


「……だから、目が離せない」


 背中越しにその低く甘い声が伝わるだけで、胸が鷲掴みにされる心地がした。

 ぐりぐりとアルヴェルがわざとらしく頬擦りすると、縺れた髪が頸をくすぐる。

 彼に似合わず戯れるような仕草は、それまで荒んでいた心をいとも容易く解してしまう。


「……すみません。あんな、王都の真ん中で力を使ってしまって」


 全ての説明を省いてそれだけを告げたが、言い訳じみた自分の口調に、胸の奥に溜め込んでいる何かが、鈍く軋んだ。


「……報告、受けてますよね?」


 すぐに、「ああ」と気の抜けた返事が返ってくる。セリウスは少しだけ上体を捩ってみるが、アルヴェルの顔は見えなかった。

 

「怒って、ますよね」


「どうして?」


「……危険な事をしたから」


「……はっ」


 呆れた、とでも言いたげな笑い声が背中に響く。

 分かっている。いっそ、叱責されたいくらいだ。


「別に……」


 男は一度、はぁ、と短く息を吐く。


「お前がどこでどんな風に力を使おうと王国は干渉しない。そうだろ?」


「でも。……声が、怒ってる」


「俺が?……危険だから力を使うなって、いつ言った?」


「言わなくても……そうでしょう?私だって、分かってなかった訳じゃない。あの時は、迷って……」


 こんな事が言いたい訳じゃなかった。それでもセリウスはわずかに顔を逸らし、少し早口で言い返す。


「……怒ってるのはお前自身だろう、セリィ」


「……」


 そっぽを向いたまま吐いた息は、微かに震えていた。今ここで振り向けば、きっとアルヴェルに絡め取られる。


 ——そんな距離だった。


「……どうしてそんなに鈍いんだ」


 アルヴェルは腕を解くと、セリウスの髪をわしわしと撫でた。

 そのまま、寝台の重みが一人分、ふっと消える。


「お前が倒れたと聞いて、俺がどれだけ……」


 その声に、セリウスはようやく顔を上げた。


「……っ!」


 隠しきれぬ焦燥が滲む茜の瞳をはっきりと捉え、セリウスは狼狽えた。


「……まあ、いい」


 アルヴェルは一つ咳払いをすると「それよりも」と、わざとらしく不機嫌そうに目を細めた。


「あの異国の王子と、随分と仲がいいようだな。セリィ」


 なぜ——。


「それ、本気で仰っているのですか?」


 なぜ、責められるような言い方をされなければならないのか。


「あの人の正体もさっき知ったくらいなのに?……助けてもらったことには感謝しています。でも、私は嫌だと言ったのに……。結局、またここへ来ることになって。こんな情けない姿、見せたくなかった」


 少しくらい、優しくしてくれたっていいのに。


 恨めしい気持ちでつい悪態を吐くと、アルヴェルは、ぱちりと目を瞬かせる。

 それから——


「はは、悪い悪い」


堪えきれないというふうに、吹き出した。

 そう露骨に愉快そうな顔をされては、こちらが気恥ずかしい。


「まだ怒ってるな、セリィ」


「……怒ってはいません」


「その割に、よく回る口だ」


 アルヴェルは肩をすくめた後、躊躇いもせず寝台のそばに跪くと、こちらを見上げてそっと手を取った。


 ——不思議だ。


 抱き絞められていた時も感じたが、アルヴェルと触れ合うと呼吸が楽になる。力を明け渡した訳でも、還された訳でもないのに。


「……単なる、八つ当たりだ」


「……は?」


「お前が他所で無茶をして……それを助けるのが俺ではなく、よく分からん男で……。しかもお前は無防備に身を委ねてる」


 欠けた小指の付け根を、彼の長い指が労るように撫でる。


「俺が怒っているとお前が言うなら、それは——」


 茜の瞳に射抜かれて、セリウスは言葉を失った。

 耳がじわっと熱くなって、さっきまでの理屈も反論も全部溶けてゆく。


「そこにいたのが俺じゃなかったからだよ」


 男は照れ隠しの様に笑った。


(……だめだな、これは)


 頭では、絶えず自己嫌悪を繰り返していた。

 けれど——心は、そんな事などお構いなしに騒ぎ立てる。

 もっと触れていたい。

 もっと近く——何もかも大丈夫だと思えるまで、この温もりに縋っていたい。


 アルヴェルの——繋いでいるのとは反対の手が、寝台を押した。

 キシリと寝台が鳴き、どちらともなく瞼を閉じる。

 

 

 ——コンコン。


 遠慮がちなノックがして、セリウスは名残惜しげに手を離す。けれどアルヴェルは手を引くことはおろか、立ち上がる事もしない。


「あの、殿下……」


「——入れ」


 アルヴェルが返事をすると、ノエルドとその後ろに栗毛の青年が続いた。


「セリウス様……!」


「ロ……!殿下、様付けなど。セリウスで構いません」


 セリウスの表情がピシリと切り替わると、アルヴェルは彼にしか聞こえない小さな声でククッと笑った。


「あの。……お話中でしたよね。申し訳ありません」


 跪いたままのアルヴェルに戸惑いつつも、ローワンは丁寧に頭を下げる。彼の旋毛をアルヴェルはどこか愉しむ様な顔で見つめた後、


「いや、構わない。先に挨拶させてもらった」


そう言って今度は、セリウスに視線を向ける。


「セリィ、今日はよく休め。では、これで失礼する」


 それだけを告げて踵を返しかけ、ふと思い出したようにローワンの肩にそっと手を置いた。

 声は低く、周囲には聞こえない程度に。


「思ったより衰弱している。あまり無理はさせぬように」


 ローワンが緊張した面持ちで頷くのを確認すると、アルヴェルは今度こそ部屋を後にした。


 扉が閉まる。


 その外で、わざとらしく小さな声が聞こえた。


「……分かってて通したな?」


「このままではセリウスが危険かと思い」


「……最近俺の扱いが雑じゃないか?」


 呆れと苦笑の混じったやり取りは、やがて遠ざかっていく。


 室内には、セリウスとローワンだけが残された。

 実に——五年ぶりの再会だった。

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