Unravel
王宮の正門に辿り着くと、トルキアの従者達の間からノエルドがするりと前に出た。
馬から降りたセリウスの姿を認めるなり、彼はタリクより一歩早く歩み寄り、その肩を支えて静かに距離を取る。
「タリク殿下。この度は、貴重なお時間にもかかわらずお手数をおかけいたしました。
事情につきましては、先ほど王宮医官より報告を受けております。あとは王宮側で引き取りますので、どうぞ迎賓館へお戻りくださいませ」
丁寧で、しかし有無を言わせぬ口調だった。
「いえ、お気遣いなく」
タリクは穏やかに応じる。
「実は彼とは、昨日すでに知り合っていまして。今日も会う約束をしていたんです。そういう意味では、運が良かった」
その言葉に、ノエルドは一瞬だけセリウスへ視線を向けた。
セリウスは黙って、嘘ではないと肯首する。
「……部屋を用意してある。今日はもう休んでいきなさい。エルネスト先生も呼んであるから」
ノエルドは表情を変えないまま、言った。
「……はい」
観念したように小さく息を吐くセリウスに、 ノエルドはようやく困ったように微笑む。
「歩けるかい?」
そう言って、肩を寄せる。
その様子を、タリクは少し離れた場所から眺めていた。
昨日、セリウスの周囲をうろちょろしていた、あの二人組の男たち。診療所に居合わせていた医官も、偶然にしては出来すぎている。あの者たちは、この男の指示で動いていたのだろうか。
だが、奇妙だった。
セリウス自身は、明らかに王宮と距離を取ろうとしている。王宮の従者たちの口から、彼の名が語られることは一切なかったと記憶している。
王宮は、完全に御子を手放した——少なくとも、表向きは。
「……ああ、やれやれ」
他国の内情など、関係ない。
踏み込む理由も、資格もない。
ただ少し、夢に見たカムルセア——その風の中に立っていた姿が、気になってしまっただけだ。
本当に、どうかしている。
「では、彼をよろしくお願いします」
タリクはノエルドに向かってにっこりと笑うと、あっさりと身を引いた。
*
既視感のある部屋だった。
簡素だが手入れの行き届いた調度。窓の位置も、寝台の高さも、かつて世話になった頃と変わらない。胸の奥の不快感が似ているのも、その頃の記憶のせいだろうか。
とはいえ、あの時の状態と比べれば、この状況ははやり過分だ。
セリウスは俯いたまま、欠けた指を注視していた。
「思ったより平気そうだな」
エルネストは顎髭を撫でながら、変わらぬ調子で笑った。
「だがな、セリィ。お前、また痩せただろう?旅など体力も要るだろうに、また碌に食べていないんじゃないのか?」
ヘリオスとの夕餉が思い出され、セリウスは小さく苦笑した。
「先生まで……。皆、私の食事の心配ばかりするのですね。ちゃんと食べていますよ」
口ではそう言いながらも、あの否定しきれない感覚が存在感を増していた。先ほどのふらつきも、周囲の視線や迷いが重なり、力を使いすぎたせいだと——そう思い込もうとした。
だが相手は、身体の小さな子どもだ。あんな吐き気がする程の耳鳴りも、目が眩むほどの負担も、感じるはずがなかった。
なのに、今も残るこの鈍い疲労感を、どうしても説明できないでいる。
「……分かっていますよ」
口に出してみても、何が分かっているのか、自分でも曖昧だ。
まるでそれに気付いた様に、それまでエルネストの後ろで黙っていたラシードが問い掛ける。
「君は、何をそんなに悔いている」
「……あ」
分かりやすく狼狽えた声を出した事に、慌ててセリウスは俯いた。
「頭部の……出血に気を取られました。あんなの、初歩です。最初に胸を見ていれば、……あんな力を……。すみません」
落ち着かない。セリウスは欠けた小指の付け根を弄りながらおずおずと溢す。
「まあそうだな。君は医師なんだから。
……頭部に気を取られた。判断が遅れた。それは反省すべきだ」
ラシードはその言葉を一度受け止めるように頷いた。
「だが、患者は助かった。それで、まだそんな顔をする理由が私には分からないな」
「……ふむ。判断を誤ったことを悔いて?それで、新米医官みたいにしょげておるのか」
エルネストまでもがそう言って笑う。
「少なくともわしが知っているお前は、しょげる暇もなく次へ行く人間だったはずだが」
「ああ……。私が言ったことを気にして?医師としてありたいなら……と」
ラシードは少し困った様な顔をして続けた。
「あの状況じゃ、そうも言ってられなかっただろう。君はただ、咄嗟に選べる手段を選んだだけだ」
そうだ。
だが、それだけなら、どれほど良かっただろう。
——あの場で迷ったのは、医師としてではない。
白い姿を見られること。
悪魔と呼ばれること。
御子として期待されること。
その一瞬の躊躇が、命より先に胸をよぎった。
あろうことか、悪魔と御子を天秤にかけて——。
それは、許されない事だ。
「……」
二人の言うことは正しい。
医師として、それが最も健全な考え方だ。
だからこそ——。
自分のこの苦しみだけは、二人にも分からないのだろうと思った。
エルネストもラシードも、それ以上は何も言わなかった。しばらくの沈黙のあと、ただ短く
「今日は休みなさい」
そう告げて、部屋を出て行く。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
セリウスは寝台の縁に腰掛けたまま、両膝を抱き寄せる。身を小さく折りたたむようにして、その上に額を伏せた。
情けない。
もう慣れたと思っていたのに。
悪魔憑きの身体のままでも、医師として直向きであれば、人間らしくあれると——いつからか、そんな希望を抱いていた。
なのに、目先の恐怖に怖気付いて——結局この力に頼った。
力が及ばないからではなく、自分本位な理由で。
挙句、力に翻弄され——。
飛び出したはずの鳥籠に自分から戻って来て。
滑稽すぎる。
ふいに、ノックもなく扉が開く音がした。
それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
理由なんて考えるまでもない。この部屋に誰がいるか分かっていて、許可など求めずに入ってくる人間は一人しかいない。
セリウスは、顔を上げなかった。
寝台の上で身を丸めたまま、瞼を伏せる。それでも、耳だけは勝手に研ぎ澄まされてしまっていた。
それがセリウスを、更に情けない心地にさせる。
足音。ためらいもなく、まっすぐこちらへ向かってくる気配。
来るな、と思う一方で——。
その距離が、少しでも縮まるのを、どこかで期待している。
寝台が静かに軋む。
「近い」と認識するより先に、大きな胸に包み込まれていた。
——ああ、この匂いだ。
「……重いです」
抗議にもならない声が零れる。
後頭部に、アルヴェルの頬が触れていた。
その温度と、呼吸。
吐息が耳の裏をかすめ、微かに笑った気配がした。
「ここで会うとはな。お前は全く……いつも予想外の行動を取る」
責める響きではない。
呆れと、諦めと、それでいてどこか愉しむような声音だった。
「……だから、目が離せない」
背中越しにその低く甘い声が伝わるだけで、胸が鷲掴みにされる心地がした。
ぐりぐりとアルヴェルがわざとらしく頬擦りすると、縺れた髪が頸をくすぐる。
彼に似合わず戯れるような仕草は、それまで荒んでいた心をいとも容易く解してしまう。
「……すみません。あんな、王都の真ん中で力を使ってしまって」
全ての説明を省いてそれだけを告げたが、言い訳じみた自分の口調に、胸の奥に溜め込んでいる何かが、鈍く軋んだ。
「……報告、受けてますよね?」
すぐに、「ああ」と気の抜けた返事が返ってくる。セリウスは少しだけ上体を捩ってみるが、アルヴェルの顔は見えなかった。
「怒って、ますよね」
「どうして?」
「……危険な事をしたから」
「……はっ」
呆れた、とでも言いたげな笑い声が背中に響く。
分かっている。いっそ、叱責されたいくらいだ。
「別に……」
男は一度、はぁ、と短く息を吐く。
「お前がどこでどんな風に力を使おうと王国は干渉しない。そうだろ?」
「でも。……声が、怒ってる」
「俺が?……危険だから力を使うなって、いつ言った?」
「言わなくても……そうでしょう?私だって、分かってなかった訳じゃない。あの時は、迷って……」
こんな事が言いたい訳じゃなかった。それでもセリウスはわずかに顔を逸らし、少し早口で言い返す。
「……怒ってるのはお前自身だろう、セリィ」
「……」
そっぽを向いたまま吐いた息は、微かに震えていた。今ここで振り向けば、きっとアルヴェルに絡め取られる。
——そんな距離だった。
「……どうしてそんなに鈍いんだ」
アルヴェルは腕を解くと、セリウスの髪をわしわしと撫でた。
そのまま、寝台の重みが一人分、ふっと消える。
「お前が倒れたと聞いて、俺がどれだけ……」
その声に、セリウスはようやく顔を上げた。
「……っ!」
隠しきれぬ焦燥が滲む茜の瞳をはっきりと捉え、セリウスは狼狽えた。
「……まあ、いい」
アルヴェルは一つ咳払いをすると「それよりも」と、わざとらしく不機嫌そうに目を細めた。
「あの異国の王子と、随分と仲がいいようだな。セリィ」
なぜ——。
「それ、本気で仰っているのですか?」
なぜ、責められるような言い方をされなければならないのか。
「あの人の正体もさっき知ったくらいなのに?……助けてもらったことには感謝しています。でも、私は嫌だと言ったのに……。結局、またここへ来ることになって。こんな情けない姿、見せたくなかった」
少しくらい、優しくしてくれたっていいのに。
恨めしい気持ちでつい悪態を吐くと、アルヴェルは、ぱちりと目を瞬かせる。
それから——
「はは、悪い悪い」
堪えきれないというふうに、吹き出した。
そう露骨に愉快そうな顔をされては、こちらが気恥ずかしい。
「まだ怒ってるな、セリィ」
「……怒ってはいません」
「その割に、よく回る口だ」
アルヴェルは肩をすくめた後、躊躇いもせず寝台のそばに跪くと、こちらを見上げてそっと手を取った。
——不思議だ。
抱き絞められていた時も感じたが、アルヴェルと触れ合うと呼吸が楽になる。力を明け渡した訳でも、還された訳でもないのに。
「……単なる、八つ当たりだ」
「……は?」
「お前が他所で無茶をして……それを助けるのが俺ではなく、よく分からん男で……。しかもお前は無防備に身を委ねてる」
欠けた小指の付け根を、彼の長い指が労るように撫でる。
「俺が怒っているとお前が言うなら、それは——」
茜の瞳に射抜かれて、セリウスは言葉を失った。
耳がじわっと熱くなって、さっきまでの理屈も反論も全部溶けてゆく。
「そこにいたのが俺じゃなかったからだよ」
男は照れ隠しの様に笑った。
(……だめだな、これは)
頭では、絶えず自己嫌悪を繰り返していた。
けれど——心は、そんな事などお構いなしに騒ぎ立てる。
もっと触れていたい。
もっと近く——何もかも大丈夫だと思えるまで、この温もりに縋っていたい。
アルヴェルの——繋いでいるのとは反対の手が、寝台を押した。
キシリと寝台が鳴き、どちらともなく瞼を閉じる。
——コンコン。
遠慮がちなノックがして、セリウスは名残惜しげに手を離す。けれどアルヴェルは手を引くことはおろか、立ち上がる事もしない。
「あの、殿下……」
「——入れ」
アルヴェルが返事をすると、ノエルドとその後ろに栗毛の青年が続いた。
「セリウス様……!」
「ロ……!殿下、様付けなど。セリウスで構いません」
セリウスの表情がピシリと切り替わると、アルヴェルは彼にしか聞こえない小さな声でククッと笑った。
「あの。……お話中でしたよね。申し訳ありません」
跪いたままのアルヴェルに戸惑いつつも、ローワンは丁寧に頭を下げる。彼の旋毛をアルヴェルはどこか愉しむ様な顔で見つめた後、
「いや、構わない。先に挨拶させてもらった」
そう言って今度は、セリウスに視線を向ける。
「セリィ、今日はよく休め。では、これで失礼する」
それだけを告げて踵を返しかけ、ふと思い出したようにローワンの肩にそっと手を置いた。
声は低く、周囲には聞こえない程度に。
「思ったより衰弱している。あまり無理はさせぬように」
ローワンが緊張した面持ちで頷くのを確認すると、アルヴェルは今度こそ部屋を後にした。
扉が閉まる。
その外で、わざとらしく小さな声が聞こえた。
「……分かってて通したな?」
「このままではセリウスが危険かと思い」
「……最近俺の扱いが雑じゃないか?」
呆れと苦笑の混じったやり取りは、やがて遠ざかっていく。
室内には、セリウスとローワンだけが残された。
実に——五年ぶりの再会だった。




