Undone
「……無事で良かった」
切羽詰まった響きだった。
それは、これまでに幾度となくセリウスの身に起きた出来事を、ローワンが知っているという何よりの証でもある。
「ご心労をお掛けして、申し訳ありません」
反射的にそう返すと、ローワンはわずかに眉を下げて首を振った。
「やめてください。やっぱり慣れない」
困ったように笑って、少し身を乗り出す。
「普通に話して欲しいです」
返答に迷っていると、「だめ?」と上目遣いに問いかけられた。昔と変わらないその仕草に、セリウスは思わず苦笑する。
「ずるいですよ、殿下」
「うーん……じゃあこうしましょう。僕はセリウス先生って呼びます。先生なら、僕は敬語を使わないといけないし、先生も生徒にもう少し親しげにするべきでしょ?」
ローワンはにっこりと笑った。
「……なるほど。そう来ましたか」
セリウスは一度ふむ、と顎に手をやり、少し考えた後で「ですが」と切り出す。
「私は元来この口調なんです。子どもに対してはれいがいですが……。殿下はもう大人でしょう?」
「……はぁ」
言葉では敵いそうにない。
ローワンは早々に諦めて、壁際に寄せてあったスツールを寝台のそばまで持ってくると、そこに腰掛けた。
久しぶりのセリウスは、痩せたというより、少し窶れたように見えた。先程、アルヴェルが「衰弱している」と評さなければ旅の疲れくらいにしか思わなかっただろう。
それは諸領地を巡ってセリウスの行動を細かく観察してきたローワンにとって、ある不吉な予感をより確信に近いものにさせる程の力があった。
「セリウス先生。ひょっとして、あまり力を使えていないんじゃないですか?」
「……殿下も懲りないですね」
「先生」と呼ばれた事に、わざとらしく肩を竦めると、セリウスは小さく息を吸ってから、少しだけ表情を改めた。
「なぜです?」
「……だって、セリウス様」
今度はあえてその呼び方を選び、ローワンはじっとセリウスの瞳に問いかける。
「以前なら、あんな程度でふらついたりしなかったでしょう」
セリウスは言葉に詰まった。否定しようとすればできる。疲れのせいだ、迷いがあった、久しぶりだった——理由ならいくらでも。
ローワンは何も言わずに待っていた。
ただじっと、本当の答えが返ってくるまで動かないという顔だ。
どうやら、意固地なのは変わらないらしい。
「……君の前で、そんなに力を使った覚えはないけど」
結局言えたのは、苦し紛れの言い訳だった。昔の話し方になっていた事に、声に出してから気付く。
「五年分です」
ローワンは懐から、擦り切れた手帳を取り出した。
「セリウス様が訪れた場所、出会った人……これはほんの一部だけど、それでも……その五年分を、僕は追いかけて来ました」
何度も手に取って、書き込んだそれ。自分の軌跡のようなものが、小さな手帳に詰まっていた。
「四月三十日、ハイネ村。腰痛のご老人に施術——緩和目的。六月二日、グラクソ村。終末期の女性——緩和目的。それから……」
「もういい」
「ほとんど使っていない。使ったとしても、昔僕にしてくれた様に——応急処置程度か、死を待つのみの人の苦痛を少し取り除く程度だ。それ以上は、踏み込まない」
踏み込まない。その言葉が、静かに胸に落ちる。
セリウスは視線を伏せた。
「……私は医者です」
「でも、ベアラーでしょう?」
ローワンは即座に返した。
だが、続く声には、わずかな悲壮が滲んでいた。
「自分を隠して生きたって、自由じゃない!」
その一言で、空気が変わる。
「ちょっと待って、自由って……何?」
思わず、セリウスは顔を上げる。
これまで控えめに伏せていた視線が、初めてまっすぐローワンを捉えた。
ローワンが言わんとしている事は分かる。
何にも縛られないベアラーとして生きること。それは、能力を隠して生きるのではなく、自由意志で安全に使え、且つ世の中に認められること。搾取や崇拝を生まず、一人の国民として。
「君が言う“自由”は、力を使えることが前提だろう?」
ローワンが息を止めた。
「使えると証明すること。社会に認めさせること。ベアラーを野に放っても、なんの問題も生じないと」
視線がまっすぐ合う。
「それは誰のため?
私は……!力を持たない人間と同じように、生きたいと望んではいけないんですか?」
「あ……」
ローワンの口が微かに戦慄いた。
「えっと……僕はただ……」
「すみません」
「いえ、その……。あぁ、これじゃあまるで、教会のやり口と一緒だ」
「……ローワン殿下、それは」
「だから、その呼び方はやめてください!」
ローワンは眉根を寄せ、それでも視線は逸らさなかった。
「じゃあ……じゃあどうすれば?僕は……どうすればあなたを孤独にせずに済みますか?
僕はずっと、あなたに……ランドフォードみたいな場所をもっとたくさん作ってあげたかっただけなんです」
言葉が、少しだけ詰まる。
「あなたが力を使っても、その為に利用されたり、それを恐れてどこにも根を下ろさずに、不安な夜を過ごしたりしないで済むような」
少し間を置いて、ぽつりと付け足す。
「僕に出来ることはありますか?……僕は、あなたを助けられる立場に、なってしまったんですから」
それは宣言でも、誇示でもない。
自身の選択が招いた結果を受け入れた、静かな声だった。
馬鹿げている。
この国の歴史を知っていれば、無謀だと分かる。
彼が今、苦しんでいる理由も、痛いほどに。
もっと打算的であればよかったのに。
もっと器用であれば、楽に生きられた。
だが、ローワンはそうしない。
それは、セリウスの想定外だった。
自分は、もう助かっている。
王宮からも、教会からも逸脱した。
それによる孤独も、不利益も、全部——自分が背負うと決めた罰だ。他のティアベアラーの未来まで背負うつもりはない。
少なくとも、そう割り切ったはずだった。
だからこそ、ローワンだけは——。
この子だけは、いつか現実を知って立ち止まると思っていた。
なのに。
ローワンは、まだこちらを見ている。
救おうとしている。
自分自身で選んだ罰を、間違いだと言わんばかりに。
セリウスは、ふっと息を吐く。
「……本当に、生意気になりましたね」
それでも——言っておかねばならない。
この分からず屋の青年に。
「私の教え方が悪かった様です」
セリウスは冷ややかな瞳でローワンを見つめる。
「殿下——自分が、何を言っているか分かっていますか?」
責める調子ではない。
だが、問いとしてはあまりにも重かった。
ローワンは一瞬、言葉に詰まる。
「私は、殿下に“助けてほしい”と言った覚えはありません。
少なくとも、孤独であることと、救われるべきであることは——同義じゃない」
ローワンの喉が、小さく鳴った。
「殿下が目指していたのは、そういう制度じゃなかったはずです」
「……」
「たった一人の例外を守るための権限を、正義と呼ばないでください」
そこで、ほんの少しだけ声が低くなる。
「それは、ティアベアラーを自由にするための思想ではない」
沈黙が落ちた。
セリウスは、膝の上で指を組み直す。
「私は、自分の意思でここを出ました。そして……自分の意思で、旅をしています」
責任を押しつけるでもなく、突き放すでもない。
ただ、事実として。
「それを“救うべき状態”だと定義されるなら、あなたは、五年前のあなた自身を否定することになる」
「そんな言い方……しなくたって」
ローワンは、小さく息を吐く。
力の抜けた、けれどどこか降参にも似た仕草だった。
「お忘れの様ですが……私は、そんなにいい人間ではありません」
言葉を切り、視線を外さずに続ける。
「殿下は言いましたね。——僕を利用しろ、と」
ローワンの息が、わずかに詰まる。
セリウスは五年前のあの時と同じように、冷ややかな笑みを湛えていた。
——ただ、その視線だけはもう、ローワンを見てはいなかったが。
「私はローワンという少年を利用して、鳥籠から出たんです。……だから、いいですか」
本当に、こういう時ばかりだ。
「殿下は私に負い目を感じる必要も、慈悲をかける必要も、ありません」
穏やかな口調のまま、一歩も退かない。相手に考える余地だけを残して、逃げ道だけはきれいに塞いでしまう。
(知らない人みたい……)
だが最後は、ほとんど突き放すようにセリウスは目を細めて言った。
「理想を追うなり、諦めるなり——好きにしなさい。……ただ、私をそこに挿げるな。いいですね?」
ローワンは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「分かりました……勝手にします。でも——僕は諦めません」
セリウスは答えない。
ただ、ほんの小さく笑いを溢した。
*
部屋からようやく出てきた主人の顔は、エドガーにとって初めて見るものだった。
「……良い話ができたようですね」
思わず、そんな言葉が口をついて出る。
「……どうかな」
ローワンは曖昧に笑った。
疲れは見える。だが瞳の奥の炎は、また一層強く燃えている気がした。
「さあ、戻ろう。考えることが、たくさんある」
そう言って歩き出す足取りは、先ほどまでよりも力強い。
執務室へ向かう背中を見送り、エドガーはもう一度、閉められた扉へと振り返った。
(——なるほど)
あれは、答えを与えられた顔ではない。
答えを、自分で引き受ける覚悟を決めた人間の顔だ。




