Bare
「私はまた……、何様のつもりであんな」
閉じられた扉の向こう側で、一人取り残されたセリウスの声だけが小さく響く。自分だけに聞こえる、自分だけに向けた言葉だ。
一本一本、糸を継ぐように暮らしてきた。
「大丈夫だ」と。
「これで良かったのだ」と。
自分で自分に言い聞かせながら。
そうやって、五年かけて編んできたつもりだった。医者として。ただの一人の人間として。
けれど今になって思う。
五年かけて編んだと思っていた日々は、本当はそれらしいものを繋ぎ合わせていただけだったのかも知れない——と。
ローワンはどんな状況も、あんな風に単純にしてしまえる子だ。だからあの子の眼にはきっと、今の自分が矛盾して見えたに違いなかった。
ローワンは「力を使えていない」と言ったが、そうではない。
王宮の外へ出てみれば、癒しの力を必要とする場面は、思っていたよりずっと少なかった。
それに、自分の心というもの——浅ましく、卑しい類の感情さえ受け入れてからは、泉が溢れるほど心を乱すことも減っていった。
医者として働き、人と笑い、腹を空かせ、疲れれば眠る。ありふれた日々を繰り返しているうちに、いつしか思い始めていた。
もう、自分は普通に生きられているのではないか、と。
(……でも)
セリウスは自身の両肩をぐっと抱き寄せ、深く息を吸う。未だ微かに残る香りを惜しむように、強く。
リュミエールでの夜、理性に反してアルヴェルを引き寄せた。あれは本当に、自分の意思だったのか。それとも、守り人との繋がりが呼び起こした衝動だったのか。
今となっては、それすら分からない。
この力は——どこまでも、自分を手放してはくれない。
静かでも、常にこの胸にあり続け——穏やかな日々の中でも満ちてゆく。
喜びも、悲しみも、安堵も、愛情さえも。
人らしく生きようとすればするほど、胸の奥だけは、自分がベアラーであることを忘れさせてはくれなかった。
一時は、力を使わない事を自分に課しもした。だが感情を殺しても、泉は静かに満ちてゆく。それを嘲笑うかのように、水底の疵が疼くのだ。
だから——せめて。
医師として許される範囲だけ。痛みを和らげ、ほんの少しだけ、人が自分で立ち上がる力を支える程度に。
そんな言い訳を重ねて。
ローワンは知らない。
人の良さそうな老人。死に時を待つ者。間違っても『セリウス』という存在について騒ぎ立てない者。
そんな相手ばかりを選んできた事を。
苦し紛れの折衷案を。
卑怯な言い訳を。
それでも、それが自分なりの精一杯だった。
だが今日。
あの少年を前にして——何を迷った?
命より先に、悪魔と呼ばれることを恐れたのではなかったか。
そして結局——。
「……君は、私を見誤っているよ。ローワン」
足を崩し、そのまま寝台へ倒れ込む。
今日助けた少年は、無事だろうか。
騒ぎは収まっただろうか。
そんなことばかり考えている。
結局、自分はそういう人間なのだ。
ただの人間になりたいと願いながら、悪魔であることを認めたくないばかりに、都合のいい時だけ力に縋って。
「悪魔でも御子でも……どうだっていいと言ったのは、お前だろう……?」
夜は静かに更けていったが、どうにも眠れそうになかった。
身体は重く、耳の奥がまだ少し痛む気がしたが、それでも——己を罰さずにはいられないでいた。
*
翌朝、セリウスの姿は謁見の間ではなく、小さな客間にあった。
柔らかな日差しの差し込む部屋で、アーサーは向かいのソファに体を預け、相変わらず朗らかに笑っている。
「体調はどうだ?」
「ええ、おかげさまで。
……もう少し、ましな再会ができれば良かったのですが。お恥ずかしい限りです」
アーサーは肩を竦めるようにして、くつくつと喉を鳴らした。
「なに、水臭いことを言う。もうそなたを“御子”として扱いはしないのに。いつでも遊びに来ればよい」
「そんなこと、できるはずがないでしょう」
即座に返すと、アーサーは少しだけ目を細めた。
「……ふむ。相変わらずだな」
そう言われ、セリウスは視線だけで続きを問う。
「そうやって、立場も距離も、先に自分で線を引く」
異論はない。
すぐにまた紅茶に視線を落とした。
「それで?」
アーサーは、わざとらしく何気ない調子で続けた。
「久々に会った“息子”の様子は、どうだった?」
セリウスの指が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……随分と、言葉の選び方が悪いですね」
「褒め言葉だ。嬉しくないのか?」
にやにやと笑うアーサーに、セリウスは小さく息を吐いた。
「……たった二年やそこら過ごしただけで親を名乗るほど自惚れてはおりません」
「なんだ」
満足な返事をもらえず、アーサーは興醒めしたようにふっと息を吐いた。
「どうせお前の事だ。そんなこと言って、内心心配していただろうに」
「……」
「お前にそんな気がなくても、ローワンにとっては起爆装置なのだろう……。昨夜は遅くまで執務室に籠っていたようだ」
セリウスは一瞬躊躇ったが、
「……余計なことを言った自覚はあります」
とだけ口にした。自分を棚に上げて偉そうな事を言ったのは事実だからだ。
それでも、アーサーの受け止め方は違う。
「嫌だねえ。子どもが巣立つと親ってのはそういう顔をするのか」
そんな風に笑って。
セリウスは返さない。ただ、ほんのわずかに視線を逸らした。
「ところで」
僅かに語調が変わったのを、セリウスは聞き逃さなかった。
逸らしていた視線を再びアーサーに戻すと、彼はまた何か面白い遊びを思いついたようににっこりと笑っている。
「ちょっと頼まれてもらえないか」
間違いなく面倒な案件だろうとセリウスは眉を顰めたが、一晩王宮に厄介になった手前、返答に迷い、結局「内容によります」とだけ言った。
「そんな身構えんでも良い。
今来国しているトルキアの第三王子——お前はすでに顔見知りだというじゃないか」
「はぁ」
あれを顔見知りだと言うのならひどい誤釈だ。
「あと数日はいるから、一緒に行動してくれないか?向こうの意向なんだ。
それで王子の放浪が止まるなら、こちらとしても聞き入れる価値がある」
「ですが……」
反論しようとして、結局その声は失速した。
「……いえ、承知致しました」
王宮に連れ込まれたのは不本意だったが、それでも助けられたままというのも癪だ。
「理解が早くて助かるよ」
どこか愉快そうに、アーサーは笑った。
*
タリクの姿を見て、やはりこちらが現実だったかとセリウスは深いため息を吐く。
鮮やかな朱色の上衣は光が差すと花のような模様が浮き出る、なかなかに凝った細工で重厚感もあり、軽やかすぎる彼にとっては実にいい塩梅だ。
「さすが陛下、素敵な計らいに感謝します。初めて自国をこんなに長く離れるので、心細かったんです」
そう言って、じぃっと視線を送って来られると妙に居心地が悪い。思わずセリウスはタリクから上体を逸らした。
「なんの、大したことではない。本人も貴殿に興味がありそうだったのでね。互いに良い時間を過ごしてもらえると嬉しい」
(またそう妙な言い方を……)
なおもこちらを観察し続けるタリクを一瞥もせず、セリウスは誰ともなしに問いかけた。
「それで、今日の予定は……」
すると、傍に控えていた文官の一人が一歩前に出る。
「本日は、教会本部へ使節の皆様をご案内する予定と……なっております」
彼が曖昧に言葉尻を濁す理由に気付かない訳がない。
「……それは」
セリウスは思わず声を上げ、それから文官に向かって問いかけた。
「それは、私が同行する訳にはいきませんよね?」
だが彼はその問いに対する回答を持ち得ない。
答えあぐねた文官の視線の先で——すっと手を挙げてローワンが口を開いた。
「セリウスの懸念は、もっともかと」
アーサーに向かってそう言ったあと、彼はセリウスに向き直る。
「僕も同行します。既にエドガーが先に猊下へ話を通していますから」
「ほう。随分と信頼をおいているな」
アーサーの返事に、ローワンは肩を竦める。
「——と言うよりは、彼は自分の仕事を全うする人間なので。教会のお目付役として、もうとっくにセリウスがここに来ていることは伝わっているはずです」
その時、後方の扉が細く開かれ件の人物の姿が見えた。
「遅く……なりました」
皆の視線に耐えかね、小さく礼を取るエドガーにローワンは笑って問う。
「で、猊下は何だって?」
***
目抜き通りから二区画ほど離れた場所に、その古びた診療所はあった。
城郭近くに大きな拠点医院があるために、普段は市民に忘れ去られたようにひっそりとしたこの場所も——今朝ばかりは様子が異なった。
「ほら、どいたどいた。司祭様がお見えなんだ、少し静かにしてくれ」
診療所の世話人は持っていた箒で野次馬を追い払うが、人垣はすぐにまた出来上がる。
「……それで、件の医者は王宮医官とここで処置をしたんだな」
中では、神官が老医師に昨日の出来事を聞き取っていた。
「ええ。一人は王国の紋様の入ったコートを纏ってましたから、確かです」
そう言って、奥の部屋で規則的な寝息を繰り返す少年に視線を送る。
「怪我も、呼吸も……実際は大したことはありません。処置が適切で、何より早かった。
外の奴らは何を見たのか知りませんがね、御子様の力が本物なんだったら、ここに担ぎ込む前にすっかり治っているでしょう?」
「……」
答えられずにいる神官の奥で、「ハッ」と誰かが嘲笑う。
「……未だに幻想を抱いている者がいるとは」
「ルチア……!黙りなさい」
叱責されてもルチアは涼やかな表情のまま、少年の枕元へと歩み寄った。
(こんなことに何の意味がある……)
さすがに、そんな悪態は声に出すことはなかったが。
彼の母親は不安気にルチアを見上げるが、やはりルチアは微笑むでも労うでもなく、ただ淡々と掛布をめくる。
ルチアはふっと息を吐いて、少年の胸元にそっと手を置いた。
すると、それを見た司祭が小さく合図を送る。
従者たちは診療所のカーテンを一斉に開け放った。
(チッ、余計なことしやがって……)
パッと、眩いほどの青白い光の矢が窓の外へと伸びる。時間にしてごく僅かではあったが、その一瞬、まるで時が止まったかのような静寂に包まれた。
「すごい……」
「昨日はもうダメかと思ったが、今の様子じゃ……あの少年はきっと大丈夫だ」
次の瞬間には、囁きは通りの向こうへと駆け抜けてゆく。
「……」
やり方はどうあれ、これで教会の思惑通りに事態は収集されたのだ。
「それで、あの白いのは本当に加護を与えたのか?」
教会へと戻る道すがら、司祭が問うた。
馬の足音にかき消され、やっとで聞き取れるほどの声だ。
「……奴の泉の気配がしました。間違いないかと」
ルチアはただ事実だけを伝える。そんなことより、気怠い身体が馬から落ちぬように堪えるのに必死だった。
「ああ、全く……」
司祭は忌々し気にそうこぼすと、深くためいきを吐いた。
「大人しくしていると思ったらこれだ。しかもこんな王都のど真ん中で、中途半端に力を使うなど……!」
確かに。司祭のことはいけ好かないが、その意見には同意できる。
ベアラーの持つ癒しの力は、魔法ではない。
人間の持つ生命力を底上げしてやる程度のもので、ベアラーのみの力で治癒を試みても完全に癒すことは困難だ。それ以前に強引に力を放出すれば、ベアラー自身の身体も無事では済まないだろう。
だが、セリウスは少し特殊だ。
彼は元々、常人とは比べものにならない泉を持っている。生まれながらの資質か、それとも幼い頃から自らを省みず力を放出し続けた結果か——。
その理由は誰にも分からない。
あの王弟を死の縁から蘇らせたのは、まさに奇跡に近かった。
そんなセリウスのことだ。癒しの力のみであの少年の傷を閉じることくらい、容易いはずだ。
だが、実際は——司祭が言うように、中途半端に加護を与えた。
力を使うことを躊躇ったのか、あるいは初めは使う気などなかったのか。
(どうでもいい……)
そんな事は、自分には関係のない事だ。
どうせベアラーである以上は、行き着くところは皆同じなのだから。
「ぼんやりするな。使節団の到着までには戻らねばならん」
急な声に手綱を握る手に力が入った。いつの間にか司祭が横並びになって怪訝そうにルチアを見ている。
「すみません……急ぎます」
まったく、人遣いが荒い。急ぎたいのはそっちの都合だろうが。
再び頭ひとつ分前に出る。
漏れた舌打ちは、蹄の音に呑まれてすぐに消えた。
**
国賓用のキャリッジに、まさか自分も乗る日が来ようとは。
いかにも豪奢なそれに、乗り込むタリクを見上げながら、そんなどうでもいいことをセリウスは思う。
それ程に、今のこの状況は現実感がなかった。
この男に遭遇しなければ、街中で力を使うことも、こうして王宮に舞い戻ることも、自分にひどく落胆することもなかったかも知れない。
(いや……)
セリウスは俯いたまま、ごく小さく首を振った。
「まだ調子悪いの?」
タリクが眉を下げ、問いかける。
「いいえ」
セリウスは、今度ははっきりとかぶりを振って応じた。出会い方はどうあれ、異国で頼れるところと言えば真っ先に王宮が思い浮かぶのは、タリクにとって当然のことだったのに。
(……こんなのは、八つ当たりだ)
座席に腰掛けると、抜けきらぬ疲労がずしりと全身に乗る心地がした。馬車が石畳を越えるたび、その揺れが胸の奥まで静かに響く。
王門をくぐる頃にはローワンとタリクは雑談をし始め、セリウスはそっと視線を窓の外に流した。
礼を欠くことは分かっていたが、和気あいあいとするのも違うように思えた。
昨日タリクは、トルキアにはもうベアラーは存在しないと言ったが、一方で、存在そのものは無くならない、とも言っていた。
矛盾する二つの言葉は、消えゆく種に向けた慰めか。あるいは、彼の立場上そう言うしかなかっただけかも知れない。まるで、その考えに呼応するように、耳鳴りがふっと強くなった。
「先生……やっぱり王宮に残った方が良かったですよね」
顔に出していたつもりはなかったが、ローワンが問いかける。怪訝そうな茜の瞳に、セリウスは努めていつも通りに笑って見せた。
「ここまで来てそれを言うのは人が悪いですよ、殿下。どうせ王宮が私を連れ戻したのではないと示す必要があるのでしょう?」
「……まあ、そうなんだけど」
「なんだ。僕をもてなしてくれているんだって、無邪気に喜んじゃってたよ」
横からタリクが口を尖らせて言う。
同年代だからなのか、互いの性格のお陰か、二人はもうすっかり打ち解けているようだった。
「心配はご無用です。ただ少し、緊張しているだけですから」
タリクの言葉通り、皆ただの人間になるというのなら。この痛みもその予兆なのだろうか。
そしてそれは、教会にいるベアラー達にも起きている現象なのだろうか。
(もしそうなら——)
冷え始めた指先を握り込む。
漠然とした心許なさが、少しずつ形を成してゆく様にも思えた。
もっと以前から気付いていたはずの小さな変化は、もう目を逸せないところまできているのかも知れなかった。




