Vestigia
翌週から、セリウスの元には数人の医師が派遣された。ニコルの村で三日ほど診療の様子を見てもらい、それが済むと隣の村へ移り、また同じように往診して回る。
驚いたのは、それぞれの村に常駐医用の小さな家屋が設られていた事だ。ニコルの村にあるのと同じく、最低限必要なものは揃っている。
(本当に、父親のためだけに呼び寄せたのでは無かったようだ)
医療拡充と医師の技術向上。ビアトリスの描く未来——それは今と地続きにある"予定"なのだ。贖罪の為の、おこぼれみたいな仕事ではない。
セリウスの背筋も自然と伸びた。
「元王宮医官とか言うから、てっきりもっと偉そうな人かと思ってましたけど」
研修に来ていた若手医師の一人がそう言った。
すぐさま隣にいた同僚が「言い方!」と肘で小突いた後、セリウスの方をチラと見た。
「実際、どうでした?」
カルテをまとめていた手を止めて、セリウスは彼へと笑顔を向ける。無自覚そうな表情に、若手医師は片方の口角をヒクリと上げる。
「大したことなさそうだ」
「おい、お前!モルフォンド卿にそんな言い方!」
隣の男は流石に今度は肩を掴み諌めるが、一方のセリウスは手を押し出すようにしてやんわりと制止し「いいよ」と笑顔を崩さない。
「実際、大したことはしていませんしね」
この手の言い掛かりは今に始まった事ではない。王宮医官時代も、実力もないのに医官の家系だからというだけで地位を手にしたのだとか、御子に医術は必要ないだとか影で言われていたし、それにいちいち傷付く必要がない程度には研鑽を重ねてきたつもりだ。
「……聞いてますよ。奇跡の力を振りまいて王宮では随分重宝されたとか。陛下も王弟殿下もずいぶんとあなたを買っているようだ」
セリウスの反応が望んだものではなかったのだろう。彼はセリウスを逆撫でようと尚も続ける。
「御子なら御子らしく、"癒しの力"とやらを使えばいいのに、そんな人が今更医術を教えるだって?」
カルテを閉じる音が、静かに響いた。
「その噂は、初めて聞きました」
「……え?」
「ずいぶん評価が高いんですね。そんな都合のいい力があったなら、今ごろ私も腰痛にも悩まされずに済んだのですが」
場に、わずかな笑いが零れる。
「安心しました。あなたも、医術で人を助けたいと思っているのでしょう」
言って、セリウスは静かに立ち上がるとカルテを棚に戻す。
「さ、行きましょうか。午後も忙しいですよ」
その後も、セリウスは何も変わらなかった。
患者を診て、必要な処置を施し、同行する医師へ助言を与える。ただ、それだけを繰り返していた。
なすべきことを、ただ淡々とこなす。セリウスは、そういう医師だった。だがだからといって、そこに情熱がないわけではない。
若手医師がセリウスへの認識を改めたのは、ある村での出来事だった。
ある村で、彼は一人の女性患者を担当した。
家の裏手で転倒し、脛を深く切っていたが幸い骨には達しておらず、縫合すれば問題ない——そう判断し、彼は手早く処置を進めた。
縫合は得意だった。早さにも自信がある。傷口を揃え、無駄のない動きで針を進める。
「傷痕って、目立ちますか……?」
「そうですね。結構広範囲ですから。でも縫っておけば治りは早いですよ」
そう告げたとき、背後から静かな声がかかった。
「少し、いい?」
セリウスだった。
彼は女性の顔を見て、ほんの一瞬だけ、言葉を選ぶような間を置いた。
「先程お話が聞こえてしまったのですが、ご結婚を控えているそうですね」
女性は驚いたように目を見開き、それから小さく頷いた。
「ええ……来月に」
セリウスは傷口に視線を落とす。
「傷が残るか、不安ですよね」
そう前置きしてから、続けた。
「ただ、この位置なら——細かく縫えば、跡が残りにくいと思います。彼はとても縫合が上手なので心配いりませんよ」
若手医師は、思わず反射的に口を開きかけた。が、目が合うとセリウスに微笑まれてしまい結局何も言えなかった。
治療としては十分だ。生活に支障も出ない。
だが、セリウスは責めるでもなく、むしろ彼の手先の器用さを見込んでそう言ったのだ。
「頼めるかな?」
それだけ。
若手医師は、無言で針を持ち直した。
言われた通り、間隔を詰め、力を調整する。
処置が終わったあと、セリウスはさらに腰を落として、女性の家族にも声をかけた。
「包帯の交換は、ここを押さえて。
痛がったら、無理に剥がさないで綺麗な水をガーゼの上から流して下さい」
実際に手を取って、動かして見せる。
「もし赤く腫れたら、すぐ知らせてくださいね。
遠慮はいりません。診療所は、そのためにありますから」
それは医術というより、生活の話だった。
帰り道、若手医師は自分の指を見つめながら思った。
――自分は、傷しか見ていなかった。
セリウスは、傷の先を見ていた。
その人が、どう暮らし、誰と生きていくのかまで。
だから、癒しの力があろうがなかろうが、やることは変わらないのだ、と。
公爵領の辺縁部の村々を回り切る頃には、セリウスの言葉の意味が、派遣された医師たちの胸にも自然と落ちていた。
*
「君の感覚としてはどうだ?」
三ヶ月が経っていた。
ビアトリスに訊ねられ、セリウスは顎に手をやり、しばし思案する。
「出来ればあと二ヶ月は欲しいのですが」
「へえ、どうして?」
ビアトリスは驚きを隠さずにそう言った。
自分を傷付けた男と対峙させられたというのに、尚もこの場所に留まらねばならないなど、彼の本意ではないと思っていたからだ。
「現在三名ずつ二週間掛けて各村を回って、三ヶ月でちょうど各組二巡したところです。
出来ればもう少しそれぞれの村に長く常駐させて村人と関係性を作った方が良いかと思いまして」
ビアトリスは少し考える素振りを見せてから、頷いた。
「分かった。では、二ヶ月延長しよう」
即断だった。
けれど、その目は数字や体裁ではなく、現場を思い描いている色をしている。
「ただし」
そう前置きしてから、続ける。
「貴殿は、この三ヶ月ずっと動きっぱなしだっただろう」
労わるような声だった。
「この二ヶ月は、彼らに付きっきりになる必要はない。不測の事態があれば報告を受け、その時に動けばいい。あとは――少し、我が領地で羽を伸ばしてくれ」
セリウスは、わずかに目を瞬いた。
「見どころは、それなりにあるぞ」
そう言って、彼女は小さく笑う。
思えば、この地に来てから、診療所以外をゆっくり見る余裕などなかった。
セリウスは一拍置いて、静かに頭を下げた。
「……ありがたく、そうさせていただきます」
その返事は、取り繕いのない、素直なものだった。
「……そういえば」
話を締めかけたところで、ビアトリスがふと思い出したように言った。
「あの娘は、どうした?」
主語を置かずとも、誰のことかは分かる。
セリウスは一瞬、視線を伏せてから答えた。
「ニコルなら、村に残っています。診療の手伝いをしながら、今は……自分の足で考えているところです」
それを聞いて、彼女は小さく「そうか」とだけ言った。
「あなたこそ――教会には、伝えないのですか」
問いというより、確認だった。
まさかセリウスからその言葉を聞くとは思わなかったのか、ビアトリスは目を瞬かせた。
それからふっ、と目を細め、苦笑する。
「道理だとは思っている」
そう前置きしてから、正直に言う。
「だが……正直に言えば、迷っている。ティアベアラーを知りながら黙っているのは、統治者としては褒められた判断ではないと、分かってはいるが」
それでも、と。
「君がついているなら、きっと拙速なことにはならないだろうと……まあ、甘えてしまった」
言葉には自嘲する様な響きがあった。
セリウスは短くふっと息を吐き、立ち上がるとビアトリスを静かに見下ろした。
「……私は彼女をどうするかの判断をする立場にいませんので、ご承知おきください」
明確な線引き。そこに余談はなかった。
「ああ。ちゃんと考えているから」
ビアトリスは何故か笑った。薄らと現れる頬のくぼみに、幼い頃の面影を見た。
セリウスは「そうですか」と返したが、内心では彼女の言葉が引っかかっていた。
(……何を悩むことがある?)
公爵である以上、本来なら迷う余地などないはずだった。
とはいえ、ニコル本人が知らぬ間に教会の"保護"が決まるのも当の本人にとっては些か酷かも知れないが。
「……あの娘と直接お話しいただければよろしいかと」
差し出がましい、と自分でも思う。
ニコルに妙な期待をもたせた贖罪だとでもいうのか。
鞄を肩に掛けながら雑に言ったセリウスに、ビアトリスはまた、小さく笑った。それは呆れたようでもあり、どこか安心したようでもある。
「ビー……その顔、やめていただけますか?」
けれど、その笑みの意味が今のセリウスには、まだ分からなかった。
*
羽を伸ばせと言われたのにも関わらず、セリウスはリュミエール領の中央診療所に来ていた。
領地中心部に設けられた診療所は、村々のそれよりも一回り大きく、建物も新しい。
さすが公爵領というだけの設備に満足したセリウスは、所長と並んで回廊の窓辺に立っていた。
「いやあ、各村を回っていただいて助かっています」
年配の所長は、ほっとしたように息をつく。
「医師同士で話ができる、というだけでも、若い者には随分と違うようで」
「いえいえ、こちらこそ楽しませてもらっています」
セリウスは微笑み、外の中庭に目をやりながら言った。
「地方ごとに診療の工夫も違いますし……それに、旅の話を聞くのも楽しい」
「ほう。例えば?」
「各地の伝承です」
何気ない調子で答える。
「これまで聞いた神話は、土地ごとに少しずつ違っていて。癒しの逸話ひとつ取っても、同じ女神とは思えないほど表情が違う。とても興味深いんです」
所長は一瞬、言葉に詰まったように口を閉ざした。それから、困ったように笑う。
「御子様本人に言うのも何ですが……この辺りの話は、あまりいいものではありませんよ」
「……そうなんですか」
「ええ。癒しの奇跡、というよりは……」
言い淀み、視線を逸らす。
「人が人を縛った話、と言ったほうが近いかもしれません」
セリウスは何も言わず、ただ続きを待った。
所長はその沈黙に促されるように、低く声を落とす。
「今ではほとんど語られませんが、昔はこの周辺にも、ずいぶんと古い記録が残っていたそうです」
「……そういうものは、でも教会の管理下ですよね」
「そうですね。"公式なもの"は」
そう言ってから、少し考える仕草をする。
「この近くに、領の古い図書館があります。今は利用者も少ないですが……もしかすると、目に触れずに残っている書付があるかもしれません」
紹介、というほど大仰なものではなかった。
「ありがとうございます」
セリウスは素直に頭を下げたが、浮かび上がった疑問をそのままにしておけず、訊ねる。
「でも、そんな事……なぜ私なんかに」
「さあ、なぜでしょうね」
所長は肩を竦めたが、少し考えてから付け足した。
「知る人が読んでくれるなら、書いた方もうかばれるかも知れない、と思ったのかも知れません」
書かれている内容を知っている。けれどその口ぶりは、単にベアラーという存在に纏わる秘密を知っているという風には聞こえなかった。
(まあ、行けばわかるか……)
所長に紹介された図書館は、領都の喧騒から少し離れた場所にあった。
人の気配は少なく、忘れ去られてしまったような場所だ。それでも長い年月磨かれてきた木の床に、かつて大切にされてきた記憶が宿っている。
「おや、意外に早いお目見えだ」
司書はセリウスの顔を見るなり、驚くよりも先に納得したように頷いた。
「あなたのことは存じております。白い御子様」
どこか含みのある言い方だった。
「思ったより名が売れているみたいですね」
セリウスは苦笑しつつ、名乗るだけに留めた。
「所長さんからお話は伺っていますよ。あまり人に出すものではありませんが……あなたになら、と」
案内されたのは、通常の閲覧室よりさらに奥まった書庫だった。光を避けるように設えられた棚から、司書は慎重に一冊の蔵書を取り出す。
「これは、この国が形を成すよりも、ずっと以前の記録です。正史ではなく、口伝を書き留めたものですから……神話、と言ってしまっても構わないでしょう」
机に置かれたそれは、想像していた“物語”とは違っていた。
豪奢な挿絵も、英雄譚めいた装飾もない。あるのは、淡々とした書式と、規則めいた文章。
頁を繰るにつれ、セリウスはそれが何に近いものかを悟った。
(……婚姻の記録だ)
ティアベアラーと、その伴侶。名が並び、関係性が記され、その傍らには、細かな条件と制約が列挙されている。
力の行使に関する取り決め。
感情の抑制。
居住地の制限。
子を成すことへの規約。
頁が進むごとに、その文言は修正され、書き足され、削られていく。
まるで、誰かが試行錯誤を重ねるように。
やがて、制約は急激に増え、そして——頁の中ほど、制約が最も多く書き連ねられている時期の記録に、セリウスはふと、見覚えのある地名を見つけた。
後見人指定:モルフォンド地方より選定。
——当事者は当面、同地方へ移送。
家名すら、まだ記されていない。
さらに数頁進むと、文言は少し具体性を帯びる。
——感情安定を目的とし、養子縁組による保護を認める。
——後見はモルフォンド地方当主預かり。
説明はない。
功績も、理由も。
まるで、すでに決まった手順であるかのように、
当然の措置として書かれている。
その後、同じ表現が何度か繰り返される。
名は変わり、制約の内容も揺れるが、行き着く先だけは変わらない。
モルフォンド地方。
後見。
隔離とも、保護とも取れる措置。
やがて、その記述も消えた。
制約がなくなり、後見の指定もなくなり、ただ、婚姻の取消印だけが残る頁が続く。
(制度になる前の、試行錯誤か)
力を持つ者を伴侶だけに委ねるには危うく、教会へ預けるには、まだ早い。その隙間を埋めるように、モルフォンド地方が後見を担っていた。
“守り人”になる前の彼らは、まだ誰かを愛した、ただの人間だった。力を持つ者の隣に立ち、その感情を受け止めていたのだ。
飢饉や疫病、干魃に大水……。
人々を取り巻く状況が変われば、その情は容易く使命と相克した。それはやがて使命を歪め、争いが起き、犠牲を生んだ。
もはや"情"だけで使命を果たすのは困難だった。
だから関係は分断され、そしてのちに制度化され、やがて“守り人”という役割に変質していったのではないか。
削除線の並ぶ最後の頁を指で撫でた。
この書物は、教会に置くにはあまりに目障りだ。
人が人を守ろうとした痕跡が、生々しすぎる。
セリウスは、頁を閉じかける。
その拍子に、指先がわずかに滑り、厚手の中表紙がひらりとめくれた。
そこにあったのは、本文とは明らかに異なる筆跡だった。
『我が親愛なる——永遠に』
掠れ、書き直された跡のある文字。
それでも、迷いのない一行。
セリウスは、思わず目を見開いた。
これは、誰かのために残されたものだ。
神のためでも、制度のためでもない。
愛した者を、ただの“器”にしないために。
(……書いたのは、伴侶だった者たちか)
使命を果たせなかった者。
役割を奪われた者。
それでも、名も感情も、選択も——人として確かに在ったのだと、残そうとした者たち。
セリウスは、今度こそそっと書物を閉じた。
「ありがとうございます。読みました」
事務所で船を漕いでいた司書に、そっと声を掛けた。
「ああ……。どうでした?」
「一言では」
「そうですよね」
司書は目尻を擦りながら、ゆるりと笑って同意した。
「あの、これはこちらにずっと隠されていたのですか」
教会だって馬鹿ではない。少しでも教義を危ぶませるようなものは残しておく筈がなかった。
「いえ、所長さんの蔵から出てきたそうです。建て替え為に荷物を出したら、なんと隠し扉があったって。壊して入ってみたらそれが出てきた。なかなかロマンがあるでしょ」
ああ、だからあんな言い方をしたのか。
知られれば、都合が悪い。
忘れ去られれば、それでいい。
それでも、何かを残さずにはいられなかった。
誰にも読まれず、それでも、誰かがいつか辿り着くことを、静かに待つようにして。
この国では、ティアベアラーと知れれば、人は反射的に教会へ向かう。不要な諍いを避けるためにそれが正しいと、まるで魂に刻まれているかのように。
だからニコルも、あの問いを最初に口にした。
「教会に行くべきですよね」と。
(……嫌な話だ)
出来ることなら関わりたくない。
助言もしたくない。
他人の人生に責任を持つ気など、最初からない。
それなのに——自分は、確実に誰かの人生に影を落としている。
セリウスは、そっと目を閉じた。
「……これが、私の罪か」
誰かを殺したわけではない。
力を誤用したわけでもない。
嘘を広めたわけでもない。
道標になりたかったわけでも、同族を守りたかったわけでもない。
ただ、自分の欲を通しただけ。
ただ、自分は勝ち取っただけ。
汚れた手で、取引をして、人を動かし、沈黙を利用して。
その過程を誰も説明などしない。できるはずもない。
だから人は、結果だけを見る。
そのせいで——希望を、無責任に残してしまった。
自分だけが辿り着いた道を、まるで誰にも歩める道であるかのように見せてしまった。
教会にも、王宮にも否定できない形で。
「属さずに生きている御子」
「排除されなかった存在」
ニコルのような者が現れるのは、必然だった。
誰かが「自分にもできるかもしれない」と思うのも、当然だった。
「はは……」
白いからではない。
癒しの力の強さでもない。
たとえ悪意などなくとも、自分という存在そのものが、人を惑わせてしまう。
「……悪魔の所業じゃないか」
セリウスは、小さく息を吐いた。




