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女神の国 2  作者: 大福駒子


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【Side-story】Blind Spot


 柔らかな陽の差し込む一室に、乾いた駒の触れ合う音が響いていた。


「また負けた……」


 盤面を覗き込んでいた少女が、肩を落として息を吐く。


「ビー、油断したな。そこはフォークで誘えば良かったんだ。欲張るから立ち行かない」


「だって、あの形から崩してくるなんて思わないじゃないか!アーサーはやることが本当に嫌らしい」


 拗ねた声に、相手の少年が苦笑する。


 そのやり取りを挟んで、向かいに座る白銀の少年は、静かに首を傾げた。


「でも、ビーがここでナイトを動かしていたら、盤面は変わってましたよ」


 一番年下だというのに、その声音には迷いがない。


「ほら、こうすると」


 白い指が駒をひとつ動かす。


 それだけで、盤面は完全に閉じた。


「本当だ……」


 ビアトリスは目を丸くしてそう言った後、すぐに


「ねえ、今度はアーサーとセリウスがやってよ」


と強請った。

 ニンマリと笑うと、片方の頬にきゅっとえくぼが出来る。


「だめだよ、セリィはお父様相手でも勝っちゃうんだから」


 だがそれに、なぜかアルヴェルが先に口を挟む。


「なんでお前が断るんだよ」


「すぐ独り占めするんだから」


 そんな、他愛のないやり取り。


 外の世界など何も知らず、異形の自分を当たり前のように受け入れてくれる彼らと過ごす時間。


 ——ずっと続けばいいと、そう思っていた。


 その時までは。





 不意に、世界が歪んだ。


 耳鳴りのようなざわめき。

 強張る指で服の裾を掴んだ。


 視界に、大きな影が落ちた、そのとき。


「何をしている……!」


 強く腕を引かれ、身体が揺れる。

 

「ごめん……守ってあげるって、言ったのに」


 彼はそう言って、泣いた。

 涙ひとつ溢せない自分の分まで。


 ——大丈夫、忘れなさい。

 誰かが、何度もそう言っていた気がする。

 でもそれももう、思い出せない。




 それから。

 再び盤を挟んで座ったのは、二人だけになった。

 駒を打つ音だけが、やけに大きく響く。


「……また負けた」


 アルヴェルが、つまらなさそうに駒を倒す。


「兄上もいないし……ビアトリスなら、もう少し張り合いがあったのにな」


 言い切ってから、はっとしたように、アルヴェルが口を押さえる。


「……えっと」


 ふわりと、笑って。


「どなたですか?」


 アルヴェルの表情が、止まった。




 王宮の大広間は、眩い光とざわめきに満ちていた。

 成人を迎えた王族を祝う夜会——その華やかさは、セリウスにとってあまりにも過剰だった。


 叔父であるベルトラン侯爵とその息子、そして養父シャルルと共に招かれたものの、こうした場に出るのはこれが初めてだった。

 これまで“御子”として、あるいは乳兄弟として王宮に在ることはあっても、社交の場に立つことはなかったのだ。


 向けられる視線の意味は、分かっている。

 興味、好奇、そして——値踏み。


 ひそやかな囁きが、絶え間なく耳を掠める。


 耐えきれず、セリウスは養父たちの輪からそっと離れた。

 壁際へと身を寄せ、息をつく。


 ふと、視界の端に見知った姿を捉えた。


 ——アルヴェル。


 胸の奥が、わずかに緩む。


 彼もまた人の波の中にあって、どこか強張った面持ちのまま祝辞を受けては丁寧に応じていた。

 途切れることのない挨拶の列。その中心に立つ姿は、堂々としているはずなのに、どこか窮屈そうでもあった。


 ふと、視線がかち合って。

 ほんの一瞬やわらかく笑った。


 胸が、とくりと鳴る。


(……何、いまの)


 言葉にならない何かが、胸の奥で揺れた。

 その正体を掴もうとしたセリウスのすぐ前方で、令嬢たちが、小さく弾んだ声を上げる。


「ねえ、ご覧になった?」

「微笑んだわ」


 セリウスは小さく息を吐く。


(ああ、そうか。ご令嬢方に挨拶したのか)


 なんだ、そうか。

 驚いた。


 先ほどまで胸に広がっていた温もりが、すっと引いていく。

 セリウスは視線を逸らさぬまま、再び人の流れを眺めた。次々と入れ替わる顔ぶれ。その誰もが、彼にとっては遠い存在だった。


 ——その中で。


 アルヴェルが、ふと表情を和らげた。

 明らかに、それまでとは違う空気だった。

 親しげに言葉を交わしている相手がいる。


(……誰だ)


 自然と、その人物を目で追っていた。


 すらりとした立ち姿。

 凛とした気配を纏う女性。


「ごきげんよう、殿下」

「お久しぶりですね、公」


 唇の動きで、会話を追う。


「成人を迎え、ますます精悍になられた」

「それを言うなら公、あなたも——」


 どこかで見たことがある。

 知っているはずだ。

 アーサーや自分に向けるのと同じ、あの柔らかな表情。それを向けられている相手。


(誰だっけ?)


 思い出せるはずだと、記憶に手を伸ばす。


 ——その瞬間。


「……ヒュ」


 喉が、空気を掴み損ねた。


 呼吸が浅くなる。

 胸の奥に、ひやりとした何かが走る。


 思い出そうとするほどに、意識が霞む。

 靄がかかったように、近づけない。


(……どうして)


 指の間から零れ落ちるように、記憶が逃げていく。


 代わりに——

 白い光景が、ひび割れたように脳裏に差し込んだ。


 ——怖い。


 そう思ったはずなのに。

 次の瞬間、そのすべてを覆い隠すように、誰かの声が降りてくる。


『俺だけを見ていろ。大丈夫だから』


 まだ声変わり前の、少年の声。

 抱き寄せられる感触だけが、やけに鮮明で。

 それ以外は、何もかもが遠ざかっていく。


 ——思い出す必要はない。


 そんな風にも、言われた気がした。

 誰に?

 分からない。


(……いまの、いつ)


 いつ言われた言葉だろう。

 思い出せない。


 けれど——その言葉に、なぜか安堵してしまった自分がいた。

 胸のざわめきが、すっと静まっていく。

 それが正しいことのように。

 そうしていればいいのだと、どこかで知っているかのように。


 セリウスはゆっくりと息を吐き、再び視線を落とした。


 もう一度あの女性を見ようとは、思わなかった。


 思えなかった。



 祝辞を受けながら、アルヴェルは視線を流した。

 形式的な笑み。決まりきった言葉。

 どれも耳に入っているはずなのに、何ひとつ残らない。


 ——あいつは、大丈夫だろうか。


 ふと、壁際を探す。

 白銀の髪はすぐに見つかった。人の輪から少し外れた場所で、静かに立っている。


(……よかった)


 わずかに肩の力を抜いた、そのとき。


「ごきげんよう、殿下」


 聞き慣れた声に、思考が止まる。


 振り向くと、そこにいたのは——


「お久しぶりですね、公」


 ビアトリスだった。

 北方を統治する若き公爵。


 ドレスを身に纏ってはいるが、相変わらず凛々しい顔立ちと凛とした声音。兄と並び立っていた頃はまるで彼らの方が本当の兄弟の様にも見えていた。


「ますます精悍になられた」


 穏やかに微笑むその姿に、言葉を返すのがわずかに遅れた。


「それを言うなら、あなたも——」


 そこまで言って、言葉が続かない。


「……殿下?」


 訝しげに名を呼ばれて、はっとする。


「いや、すまない。少し考え事をしていた」


 いつものように笑ってみせたが、遅かった。


 「彼は……変わりないか?」


彼女は僅かに振り返り、白い影を見ている。


「あ……ええ、はい」


 ほんのわずか、言葉が詰まる。


「そうか」


 短く、それだけを残してビアトリスは踵を返した。


「ビー」


 思わず呼び止める。


「近づかないさ」


 振り返らないまま、彼女は言った。


「そう怖い顔をするな。祝いの席だぞ、アル」


 一度だけ手のひらをひらりと翳す。

 その背は、誰よりもまっすぐで——振り返ることはなかった。


 アルヴェルは扉の向こうに消えた背を、しばらく見つめていた。


 ——近づかないさ。


 その言葉が、わずかに胸に残る。


 視線を戻すと、セリウスは同じ場所で同じようにひっそりと佇んでいる。

 その形のせいで、どれだけ控えめにしていても周囲の視線を集めていたが、当の本人は気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。


 アルヴェルは小さく息を吐いて、歩み出した。


「セリィ」


その名を呼べば。


「……っあ、」


揺らぐ水色の瞳が自分を捉えて離さない。


「……子どもじゃないのですから、その呼び方はやめてください」


口ではそう言うくせに、そんな風に見つめるから。


 閉じ込めていたくなる。

 凡ゆる外聞を遮断して、自分だけを見ていて欲しくなる。

 怖いのだ。また奪われるのが。


「夜会なんて、お前に必要ないだろ」


「ですが、殿下をお祝いしたくて」


 明るい声だが、顔色がどことなく青く疲れて見えた。慣れない場所で人酔いでもしたのだろう。その時はそう思った。


「そんなの、後で祝ってくれればいいだろ」


 少し強い口調になった。

 なのにセリウスは、ほんの一瞬だけ目を瞬かせてから、


「それもそうですね」


 笑って、あっさりと頷く。

 そこに、疑いはない。


 むしろ——そうしていれば、間違えずに済むと、信じているようだった。


 アルヴェルはその様子を見下ろし、わずかに目を細める。


 それでいい。


 そうやって、何も考えずに。

 自分だけを見ていればいい。


 ——そうすれば、俺は迷わない。


 あの頃はまだ、そう信じていた。



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