Safe Harbor
その夜は、用意された部屋で一夜を過ごした。
だが結局、日付を跨いでも眠気が訪れることはなかった。
彼の人は静かに逝ったらしい。階下で小さな物音が絶えず聞こえていたが、やがてそれもぱたりと途絶えた。それでもやはり瞼は重くなる気配がなく、セリウスは天蓋の向こうの、薄闇に溶ける梁を見つめていた。
「……悪魔」
掠れた声は、夜明け前の静けさにほどけて消えた。誰に向けた言葉でもない。自分の内に巣食う、その“在り方”を呼び出した。
恐怖。嫌悪。
そんな生やさしい言葉で括れるものではなかった。
距離を詰められた、あの瞬間。
逃げ場を失い、息が詰まり、思考が白くなる寸前で。確かに、はっきりと——
(消えてしまえ)
そう、思った。
それが医師としての判断を曇らせていたのではないか。
引き継いだ医師も、ひと通りの確認を終えると、静かにかぶりを振った。だから、疑う理由などない。何も間違ってはいない。
くだらない事だと頭では分かっているのに、後ろ暗い感情に揺り動かされていた。
夜が完全に明けきる前、控えめな音が扉を叩いた。
セリウスは身じろぎもせず、ただ天井を見つめたまま、それを聞いていた。
無視しても構わない。そう思ったが、二度目の音が来る前に身体の方が先に動いた。
扉を開けると、そこにいたのはやはりアルヴェルだった。
外套も徽章もなく、王族であることを示すものは何一つ身につけていない。
ただ、少し眠たげな目と、申し訳なさそうな気配だけを連れて。
「……起こしたか」
「いえ」
嘘ではなかった。眠ってなど、いなかったから。
アルヴェルは一瞬、言葉を探すように視線を揺らし、それから小さく息を吐いた。
「用がある、というほどのことじゃない。ただ……顔を見ておきたかった」
それは慰めと呼ぶにはあまりにも個人的な理由。
だからこそ、セリウスの胸の奥に静かに落ちてくる。
「……昨夜」
セリウスは口を開きかけ、止めた。
言葉にすれば、また同じ問いを繰り返してしまう気がした。
アルヴェルは一瞬、廊下の奥に視線を走らせた。
誰かの気配があるわけではない。が、いつどこに人の目があるかは分からない。
「……中に入っても?」
問いは低く、控えめだった。
セリウスは答えず、ただ身を引いた。
それで十分だったのだろう。アルヴェルは一礼するようにして、部屋へ足を踏み入れる。
扉が閉まると、外の気配は途切れた。天蓋越しの薄闇と、夜の名残だけが、二人を包む。
アルヴェルが、ためらうように一歩近づいた。
慰めるつもりだったのか、それとも、ただ確かめたかったのか。伸びた指先が、セリウスの頬に触れようとしたとき、咄嗟に、セリウスは反射的に顔を伏せた。
あの時。背に触れられた瞬間、スフェーンに触れた時のように——ふわりと、心が凪いだ。
その事実が、今になって胸に重くのしかかる。
ひょっとしたら——悍ましい感情すら、あの手に明け渡してしまったのではないか。そう思うと、息が詰まった。
「……すみません。少し……」
言葉は途中で途切れ、代わりに浅い息が落ちる。
アルヴェルは手を引かなかったが、それ以上、近づきもしなかった。
声だけが、静かに届く。
「怖いか……?」
否定しかけて、やめた。
正確ではないが、嘘でもなかったからだ。
「今は、きっと……全部、殿下にバレてしまうから」
アルヴェルはすぐには答えなかった。ただ、その言葉を受け取るように、一度目を伏せる。
「……もう、知っている」
そう言って、アルヴェルはとすん、と壁に背を預けた。肩の力を抜く仕草は、わざとらしいほど気軽で。
視線だけを、こちらに向ける。
「だが、この力は存外大したことない」
ただ、事実を淡々と置くような声だった。
セリウスは何も返せない。それでも、先ほどよりは躊躇いも後ろめたさも、少しだけ薄れていく。
アルヴェルは、いつも通りの口調で言った。
「……あれも、能力なのか?」
何を指しているのかは、はっきり分かった。
「……能力、というのとは少し違います」
言いながら、セリウスは視線を落とす。
力の源がどこにあるのか——それが“心”であることは、アルヴェルもすでに理解しているのだろう。
「抱えきれなくなると……ああなる、だけです」
セリウスは上手く答えられず、辿々しく言葉にした。
感情の奔流に溺れかけたあの時——アルヴェルの温もりに、無意識に縋った。
古のベアラーの傍にいた守り人も、きっと目の前の男と、同じように在ったのではないか。
「なら……なおさら、俺に頼る方が得策だと思うが」
アルヴェルは今度こそ手を伸ばし、セリウスの髪に触れた。この笑顔に、どうしても弱い。そうやって不思議とこちらのやるせなさや罪悪感など、大したことではないと思わせてしまう。
「お前がパンクしてしまうのは、俺としても避けねばならないしな」
軽い調子だが、冗談ではない。
“避けねばならない”という言葉に、選択肢は含まれていない。
「……だって、嫌じゃないですか」
思わず、子どもじみた言い訳が口をついて出た。
セリウスは遅れてそれに気づき、唇を噛む。
「嫌、か……。まあ、怖いよなぁ」
「そうではなく……殿下が!嫌では、ないのですか?」
「俺?……なぜ?」
なぜって——。
他人の感情が、いっぺんに流れ込んでくる。
嫌だろう、そんなの。あんなに苦しそうな顔をしていたくせに。
こんなにもあっけなく取り乱し、慈悲もかけられず、冷たく罵る私を——。
そこで、思考が止まった。
(……あ)
私は——この人に幻滅されるのが怖いのだ。
「全部、顔に出てる」
くす、と喉の奥で笑う気配がした。
髪に触れていた手はいつの間にか腕に落ち、ぐいと引き寄せられる。
「……殿、か」
強く、抱きしめられていた。
「言わなかったか?大したことないって」
軽い調子なのに、腕に込められた力は案外しっかりしている。
一瞬、呼吸の仕方を忘れそうになった。
胸に触れる温度が、近すぎる鼓動が、思考を全部鈍らせる。
(……まずい)
溢れ出す。
抑えきれないものが、また。
けれど。
「大丈夫だ。大丈夫、大丈夫」
耳元で、低くそう言われて、セリウスはようやく、肩の力を落とした。
幻滅されることも、拒まれることもない。
ただ、抱きしめられている。
それだけで——どうしようもなく、救われてしまうのが悔しかった。
セリウスを胸の内に閉じ込めたまま、アルヴェルは尚も、くすくすと笑っている。
「こうしている今も、ただ、お前の痛みが……切なさが、伝わってくるだけ。それが悲しみなのか、怒りなのかは結局、言葉にしなけりゃ何も分からない」
「……」
「それと……俺が幻想を抱いていると思っているようだから言っておくが、俺は無頓着で欲張りで頑固で性格の悪いセリウスも全部認めているから安心しろ」
淡々と列挙され、セリウスの喉が詰まる。
「無頓着で欲張り……」
「あと無自覚か……。そうじゃなきゃ、俺を部屋に入れて、容易く抱かれたりしないだろ?」
「それは……!」
反論しかけた声は、抱きしめた腕に吸い込まれて掠れた。
笑みを含んだ声が、少しだけ低くなる。
「……俺はこれまで頭の中で、もう千回くらい叔父上に剣を突き刺してる」
最後に冗談めかして少し笑った。
だが、その言葉に嘘はないと、セリウスには分かる。
「……不謹慎な」
「不謹慎だろうと、死んだら罪が軽くなるわけじゃない」
即答だった。
腕の力が、ほんの少しだけ強まる。
「人間なんて、そんなもんだ。綺麗な顔して、腹の中じゃいくらでも汚いことを考える」
間を置いて、付け足すように。
「お前は人間だろう?」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、静かに崩れた。
善人でいなければならない。
医者である以上、そうでなければならない。
動じず、冷静に。
いまだにその強迫観念に縛られて、たちまち動けなくなる。結局、御子と言われ続けたこれまでと私は何も変わっていなかった。
抱きしめられてから、確かに心は解けていた。
だが同時に、それは——自分の内を、無防備に差し出しているということでもある。
アルヴェルは"大したことない"と言ったが、本当にそうだろうか。自分自身でさえ息苦しく感じるほどの怒りや悲しみ……それだけに留まらない何かもっとどす黒い感情を、果たして本当に受け止めさせてしまっていいのだろうか。
「あの……今、苦しかったり、していませんか?」
その重みが、アルヴェルに負担を強いているのではないか。そう思い至り、セリウスは不安げに問いかけた。
「いや……特には」
セリウスの頭に顎を乗せたまま、アルヴェルはあっさりと答える。視線はどこか遠く、つい半日前の感覚を辿っていた。
「昼間ほどじゃないな。今はむしろ楽だ」
その言葉に、セリウスの身体がわずかに強張る。やはり負担が生じるのか、と。だが、アルヴェルは気づいた様子もなく淡々と語った。
「今はちゃんと流れている感じがする。……こうして顔を見て、言葉を交わして……少しずつ整理しながら受け取る方が。
溢れかえりそうな水の行き先を作ってやっている感じがする」
不思議な表現だった。
けれど確かに、アルヴェルに受け止めてもらう前と後では、自分の感情に溺れずに済む感覚がある。
散らかっていた感情ひとつひとつを、丁寧に仕分けするような。
「……殿下は、私に甘いですよね」
セリウスの張り詰めていた気配がようやくふっと緩む。
そして、アルヴェルの胸へと身を預けた。
「……いいや、甘やかしてるのとは少し違うな」
否定は即座だった。
セリウスの頭に頬を寄せ、アルヴェルは静かに息を重ねる。
声に熱はない。
「必死なだけだ。お前はすぐにどこかへ行ってしまうから。こうして里心をつけておかないと」
抱く腕に、わずかに力が籠もった。冗談めかした言い回しの裏で、こうも容易く弱さを見せられると彼は本当に自分を特別に思っているのだと思い知らされる。
「……さ、少し寝ろ」
言うなり、パッと手が離された。
肩を、軽く——けれど確かな力で、トンと叩かれる。
僅かに遠くなった温もりに、セリウスは思わず顔を上げた。
外は、夜明け前の青白い光。
窓から差し込むそれに照らされたアルヴェルの相貌は、いつもよりも輪郭が冴えて見えた。
精悍で、隙がなくて——それでいて、どうしても隠しきれない色香を纏っている。
「……殿下」
呼びかけただけで、続きを失う。
「セリィ」
遮るように名を呼ばれ、胸が跳ねた。
「……我慢してやってるんだ」
低く、抑えた声。
セリウスは一瞬、何か言い返そうとして——やめた。その代わりに視線を伏せ、小さく頷く。
「……はい」
その返事を聞いて、ようやくアルヴェルは一歩、距離を取った。
けれど。
殆ど無意識に、セリウスは踏み出していた。
踵をわずかに浮かせ、アルヴェルの両袖を掴むと、そのまま引き寄せる。
驚きで見開かれる茜の瞳に、堪らなく嬉しくなる。
一度、唇が触れた。
セリウスから口火を切ったはずなのに、次の瞬間には、アルヴェルが噛み付くように応じ——あっという間に飲まれてゆく。
「ふぅ……んっ」
深く息を奪う口づけは離れがたく、しばしどちらともなく絡み合っていた。
だが意外にも先に離したのは、アルヴェルのほうだった。ぐい、と半ば強引に引き剥がし、「こら」と笑って言う。
「……自分だけが我慢しているみたいに言うから」
それは、精一杯の強がりだった。
アルヴェルは一瞬きょとんとして、それから堪え切れずに笑った。
「ははっ、全く……」
そう呟いて、優しく名を呼ぶ。
「セリィ、安心しておやすみ」
ちゅ、と啄むような口付けを額に落とされる。
顔を上げれば、すでに扉が閉じる音がしていた。
*
セリウスが寝台に上がる気配を確かめてから、アルヴェルはようやく自室へ戻った。
「自分も我慢してるって……?」
己の中の欲や憎悪の念に動揺しているようなお前には、俺の言葉の意味などきっと分かりはしないだろう。
依存したくない、とお前は言った。だから奪いたくない。その選択を、その人生を。
欲するままに縛りつけたくもなければ、もう二度と自分の命の身代わりにもしたくない。
初めて出会う感情に戸惑い抱え切れなければ、喜んで手を貸すし、ティアベアラーの力がお前を翻弄するのなら——その扱い方を、共に模索したい。
人として、ようやく手にした自由を存分に味わって欲しい。
そして叶うなら——
護られるためでもなく、使命のためでもなく、
お前自身の意思で。
いつか俺を選んで欲しい。
「はぁ……いつになることやら」




