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Unspoken


「モルフォンド卿……大事ないか?」


 言葉は労いではあるが、ビアトリスの対応は殆ど謝罪に近いものだった。

 公爵という立場にある者が、これほど明確に頭を垂れることは稀だ。その一連の所作に、周囲の従者たちが息を呑み、廊下に小さなざわめきが走る。


「い、いいえ……」


 セリウスは反射的に半歩退き、慌てて首を振った。


「本当に……少し、驚いてしまっただけです」


 声は穏やかで、表情もきちんと整っている。それ以上を語るつもりはない、と自然に伝わる在り方だった。

 ここは廊下だ。それに人目も多い。少なくとも自分の過去や傷をみだりに晒す必要はない。


「ひとまず、私の部屋に」


 彼女は顔を上げ、言葉を選ぶように一拍置いた。


「呼び付けておいて申し訳ないが……依頼内容の前に少し話を、させて欲しい」


「ええ」


 セリウスは静かに頷く。


「その方が良さそうですね」


 ビアトリスの執務室は城の暖かく柔らかな内装とは対照的に、シックでこざっぱりとした印象の部屋だった。

 勧められるまま長椅子に腰を下ろすと、間を置くこともなく、隣にどすんと重みが加わる。


(……なぜ、隣に)


 視線だけで問えば、アルヴェルは気にも留めない様子で、緩く首を振る。


 ——ここにいる。


 この表情は、かなり心配をかけたに違いない。離れる気は一切ないアルヴェルはさて置いて、セリウスは視線をビアトリスに戻す。

 彼女も特には言及せず、視線を僅かに伏せたまま、静かに語りだした。


「先ほどの通り、父はかなり耄碌してしまってね。……屋敷中を徘徊してみたり、食事もままならない。もう何年もだ。名前も、年月も、混ざってしまっている。

 だがここ最近は起きている時間より眠っている時間のほうが長くて……。油断していた」


 その声音に、感情はない。だが、抑え込んだ疲労と諦観だけが、確かに滲んでいた。


「父が昔……君にしでかしたことだが」


 彼女はそこで言葉を切り、眉間を指で揉んだ。聞き及んではいても、今日まで半信半疑であったに違いなかった。


「……その件については、私からも謝罪したい」


 沈黙が落ちる。

 セリウスは膝の上で指を組み直した。

 表情は変わらない。けれど、隣でアルヴェルだけが気づいていた。その指先に、ほんの僅かな力が籠もったことに。


「それで……リュミエール公が、私を呼んだ理由は何です?」


 セリウスにしては珍しく、直球の問いだった。


「あの村に、今すぐ医師が必要という切迫感はありませんでした。疫病が流行っているわけでも、僻地でもない」


 疲労の滲む水色の瞳は、睨んでいるわけではなかったが、逸らすことを許さない切実さがある。


「……父に代わり、罪滅ぼしをするつもりだった」


 ぽつりと、落とす。


「謝ることも、責任を引き受けることも。せめて、それくらいは出来るだろうと」


 セリウスが自分に気づかなければ、それでも良かった。仕事を与え、彼がこの先居場所に窮することがあるなら匿ってやれる。それだけの権力を有しているのだから。


「……勝手な願いだということは、分かっている。

 だが、セリウス。君に仕事を依頼したいというのは、嘘ではない」


 両手でジェスチャーを交えるのは、彼女の癖なのだろう。柔らかな手先の動きが、場を導くようだった。


「領地の閑村を、巡ってもらいたいと思っているんだ。都市部には確かに大きな診療所がある。だが、そこにいる者たちは――設備の乏しい場所で診る経験が、決定的に足りていない」


 声は落ち着いている。

 そこには、公爵としての判断があった。


「人々を医療に繋げたいというよりは、質を向上させたい。貴殿は、その点で場数が違うだろう?

 教えてやって欲しい。君にしか頼めない仕事なんだ」


 それは、私情を覆い隠すための建前には聞こえなかった。だが。


「……私を呼んだ理由は、本当にそれだけですか」


「それだけだ」


 ビアトリスはきっぱりと答えたが、対するセリウスはここに来て初めてふっと表情を緩めた。


「まだ策を隠している時、よくそうしてチェス盤の横で爪を弾いていましたね。ビー」


 随分と懐かしい愛称で呼ばれ、ビアトリスの肩が揺れた。


「本当は……あの方を救えと——そう仰るつもりだったのでは?」


 語尾に宿る微かな震えに、アルヴェルは目敏く気付く。僅かに身じろぎしたかと思うと、さり気なくそっと肩を寄せて来た。

 ひとりではない——と、ただ、それだけを伝えるように。

 セリウスの内に渦巻いていたものが再び流れ出てゆく。さっきは取り乱していて曖昧だったその感覚が、やはり夢ではなかったと確信する。

 怒りでも恐怖でもない、名づけようのない感情の層が、触れた肩からじわりとアルヴェルに伝わる。


 ——ふと、アルヴェルが息を詰めた。


「………」

 

 セリウスは変わらずビアトリスを見据えたまま、そっと触れていた肩をそっと離す。

 アルヴェルが一瞬横目でこちらを伺ったが、ビアトリスが話し始めた為に諦めた様だった。


「それはない」


またも、きっぱりと否定した。


「もうあちこちガタが来ているんだ。主治医からも、……いつその時が来てもおかしくないと言われている。今さら君の力を使ったところで、無意味だろう」


「なら、尚更なぜ……」


 医師としてのセリウスに依頼をしたはずだが、彼がその様な疑念を持つのも無理はなかった。御子として、王族にその命を焚べてきた時間のほうが遥かに長いのだから。

 それでもビアトリスは調子を変えずに続けた。


「北方の領地に行っていたことがあったろう?私も、あの政策が気になって見に行ったんだ。十数年振りに君の姿を見た。……父と、共に」


 北の大地に立つ、白い男の姿。

 弱く儚いままのセリウスではなかった。

 

 父はその頃にはもう壊れ始めていた。従者の言うことを聞かず、身体だけはまだ元気な所為で暴れもした。

 城に残して行くこともできず、仕方なく連れて行ったあの日——。


「……あの人は、君を見るなり謝り始めた。

 それでようやく、私は真実を知った。

 それまで何も知らぬまま、辺境へ追いやられたのだと父王を恨んですらいたんだ」


 ビアトリスは指先を組み、しばし沈黙した。

 公爵ではなく、一人の娘としての言葉を探しているようだった。


「しかし……君は妙なところで勘が良い」


 ビアトリスは苦笑したが、


「だが、案ずるような事はもうない」


 そう言って、結局具体的な言い訳を口にする事はなかった。正しさを装う言葉もない。

 セリウスは初めから追及するつもりはなかったのか、ただ「そうですか」と短く答えた。


「……依頼の件は、承知しました。その通りお受け致します。あの方のことは、ご勘弁下さい。閣下が謝る必要もありませんので」


 セリウスが毅然と振る舞う程、厚い壁で覆われた心がひどく揺れているのを、アルヴェルだけが知っていた。

 だからこそ、代わりにわざとらしく笑って見せる。


「受けるなら、報酬も弾んでもらえよ。出し抜かれたんだ。安く済ませる気はないだろう?」


 いつも通りの、少しだけ挑むような口調で。軽く背を叩くその手は、セリウス本人すら気付かれぬよう、そっと彼を守っていた。




 三人が部屋を出ると、従者の一人がすぐに待機の構えを解く。


「セリウス、まだ顔色が良くない。無理はなさらぬ様」


 ノエルドは先ずセリウスへと労いの声を掛け、次いでアルヴェルへと向き直ると、途端に説教じみた声音になった。


「殿下……他にも人がおります。節度をお忘れなく」


「分かっている。今回は、致し方なかっただろう」


 そう言って、アルヴェルはビアトリスへと視線をやった。口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「それに……ここの者たちは、意外と理解があるかもしれんぞ」


 二人の視線の先で、侍女がそっと主の裾を掴んでいた。凡そ主従の距離ではない。

 ビアトリスは何も言わず、華奢な侍女の手に自身の手を重ねて、静かに制する。


「な?」


「……他所は他所、うちはうちです」


 ノエルドはわざとらしくため息を吐き、アルヴェルを睨んだが、実を言えば内心安堵していた。

 数年前までの彼であれば、もしかすると叔父君を張り倒していたかも知れない。


(こんな事を言えば、しばらくは根に持たれそうだしな)


 胸の内でそう呟いた矢先、当の主に呼ばれた。


「少しセリウスに付いていてくれ」


「え、殿下はどちらへ?」


「俺までいると皆気を遣うだろ。どうせ俺たちの要件はまだ終わっていない。隣の部屋で待つとするよ」


 そうしてようやく当初の目的であった依頼説明がなされていたが、その内容は思いのほか実務的だった。閑村の位置やその人口、既存の診療体制。巡回の順序と、同行する人員など。

 ビアトリスの説明は終始落ち着いていて、公爵としての判断がそこにあった。村長は熱心に頷き、セリウスは淡々と質問をする。助手についた娘は聞き逃さぬ様に会話を書き留めては、時折顔を上げてセリウスに確認していた。

 まるで何もなかったかのように、粛々と時間が過ぎてゆく。


 ひと通りの説明が済み「それでは」と、それぞれが腰を上げ始めた頃——。

 扉横に立っていたノエルドが僅かに廊下を気にした。切迫した足音が扉の前で止まると、訪室のタイミングを迷うような気配があった。


 もう頃合いである。


「失礼致します。公、従者が報告に参った様ですが」


「分かった」


 ノエルドの進言にビアトリスは短く応じた後、セリウス達に向き直って「今日は忙しなくて済まなかったね」と苦笑した。


「失礼いたします」


 セリウス達と入れ替わりに入ってきた従者の顔色は優れない。ビアトリスが即座に察した様だった。


「……今度は何事だ」


 従者は客人に聞かれぬよう、そっと耳打ちをしたが、ついセリウスはその口唇を読んでしまう。


「先生は?」


「ただいま知らせに向かわせています。しかし——」


 従者の言葉を最後まで聞かず、彼女は静かに父の待つ寝室へと急ぐ。が、後方から従者の他に静かな足音が重なった。


 振り向き、視線が合う。


「……セリウス、いい」


 ビアトリスは制したがセリウスは、躊躇なく答えた。


「聞いてしまいましたから」


 彼女は短く息を吐き、頷いた。


「……知らぬふりも出来ただろうに」



 寝台に横たえられた男は、浅く荒い呼吸を繰り返していた。

 先程は動転していて気付かなかったが、年齢よりずっと老いて見える。白髪混じりの髪が冷や汗で額に張り付いていた。

 唇は青く、胸を押さえる手にも殆ど血の気がない。


(心因性……いや、先刻の負荷が引き金か)


 先程、カーテンから覗いた浮腫んだ足元を思い出す。

 処置は出来る。だが、出来ることは殆ど残ってはいないだろう。


「少し、身体を上げます」


 声は冷静だった。

 そのはずなのに——出しかけた手が、止まる。


 視界の端で、あの白い影が揺れる。


(……違う。しっかりしろ!)


 引きずられるな。

 

 震え出した右手をもう片方の手で抑えると、セリウスは目を瞑りふうと息を吐く。


 その隙を縫うように、ニコルが一歩、前に出た。


「……先生、手伝います」


 いつの間にか部屋に入って来ていた彼女は、セリウスに代わり、手近なクッションを掴んで指示を待つ。


「うん」


 思いがけないニコルの登場に、身体中を縛っていた見えない糸は断ち切られていた。

 セリウスは素早く老体を軽く起こすと、ニコルは息を合わせ、その隙間にクッションを詰めてやる。


「気休めだろうが、多少は楽なはずだ」


 それでも尚苦しそうに喘ぐ男に、ニコルは焦ったそうに拳を作った。


「でも、このままでは……セリウス先生」


 振り返ってセリウスを伺うが、首を横に振り「これ以上は」とだけ言って、半歩後ろにいたビアトリスを手招いた。


「……主治医からも話はあったのですよね?」


「ああ、さっき言った通りだ」


 別れの始まりなのだ、とニコルは理解したが、セリウスのその判断は——彼女にはひどく冷たく思えてならなかった。


 とくん。と胸の奥が波立って、誰かの声が「お前の使命なのだ」と急き立てるのだ。


 彼女の手が、吸い込まれるように老人の脱力した手へと伸びていた。その指が絡み、かすかに光を帯びた時。


 その動きに、セリウスははっとした。


「——待て!」


 考えるより先に、身体が動いた。

 肩口を掴み、乱暴なほどの力で引き剥がす。


「きゃっ……!」


 小さな悲鳴。

 周囲が一斉に息を呑む。


「セリウス、何を——!」


ビアトリスの声が上がる、その前に。


「力があるなら、助けるべきでしょう?」


ニコルの叫びが、部屋を裂いた。涙を溜めた瞳で、真正面からセリウスを睨みつける。


「助けたいって思うのは、おかしいですか!?」


 その言葉にビアトリスがはっと息を呑んだ。


「……お前、まさか——」


 唖然とした顔で、彼女は「知っていたのか」とセリウスに問うたが、答えない。

 ただ、重く息を吐いた。

 苛立ちと、疲労と、諦観が混じった溜め息だった。


「ノエルド殿、その娘を部屋から出してください」


「セリウス先生、なんで!」


 ニコルは食い下がったが、セリウスの有無を言わさぬ視線にびくりと肩が跳ねる。


「これ以上、患者の時間を奪うな」


 静かに、だが確かな怒気を滲ませセリウスはそれだけを告げ、寝台に向き直った。



 程なくして医師が到着し、セリウスは簡潔に状況を申し送っていた。

 その背を視界の端に捉えながら、ビアトリスは父の額に滲んだ汗を、静かに拭っている。


「朦朧としていても……耳は、聞こえているそうです」


 頭上から低い声が降ってくる。

 いつの間にか、アルヴェルが背後に立っていた。


「父王が亡くなる時、医師がそう言っていました」


「ああ……そうだったな」


 ビアトリスは小さく頷く。言いかけて、ふと気づいた。


 ——彼は、幼い頃に父も母も亡くしていたのだったか。


 今の自分より、ずっと若く、ずっと無防備な頃に。それはきっと、計り知れないほどの痛みだったはずだ。


 では自分は?

 彼女は、そっと息を吐く。

 年を重ねても、別れは別れ。悲しみに優劣はない。本当にそうだろうか。こんな愚父であるのに。


「父は……母よりも、母にあてがわれた若い侍女や……私の乳姉妹に、関心を向けていた」


 ぽつりとこぼした声音の裏で、感情だけが揺れていた。


「私はどこかで薄々気付いていて、でも知りたくなかったのだと思う」


 視線を伏せる。


「……父は、ずっと孤独だったのだと思う」


 自分とて、かつての友人を父のせいで失ったのだ。なのに、どうしてそう思ったのだろう。


 孤独だったから、なんだ。

 結局は己の弱さに負けただけじゃないか。


 ふと後方へ視線をやると、セリウスの背中が扉の向こうに消えていくのが見えた。


「気にせず今は吐き出して下さい」


 ふっとアルヴェルが笑う気配がした。彼もきっと気が気ではないだろう。それでも許されるなら、このどうしようもない感情を全て、父と共に葬り去ってしまいたかった。

 

「……父が、嫌いだった」


 ビアトリスは父を見つめたまま、言葉を継ぐ。

 それはほとんど独白だったが、誰かに聞かせる形でなければ、保てない言葉でもあった。

 アルヴェルは何も言わず、彼女の隣にそっと腰を下ろす。


「自分が男嫌いになったのは、お前のせいだと……そうなじったこともある」


 視線を上げないまま、続けた。


「それでも……この地で役割を与えられ、男の真似事をして生きるうちに、私も、父の孤独を知った」


 だからといって、彼女たちにしてきた行為を理解できるはずがない。

 まして、死ねば彼らの傷が癒えるわけでもない。

 何も分からない状態になってから、咽び泣く姿を目にすることが増えた。相変わらず従者に不遜な態度を取ることもあるのに、ふと我に返って「あの子にすまない事をした」と塞ぎ込むこともあった。


 だから知りたかったのだ。

 遠くからでも、セリウスを目にして彼が何を思うのか。どれが本当の父の姿なのかを。


(違うな)


 私はただ——あの謝罪だけは本物だったのだと、そう思いたかったのかもしれない。


 唇を強く噛み締める。鉄の味がして、ああこれが失望という感情なのだ——と思った。


「泣きたければ泣けばいい。それくらいしてやってもいいでしょう」


 アルヴェルの言葉に、ビアトリスは思わず苦笑した。




 その夜半、父は静かに息を引き取った。


 騒ぎはなかった。

 呼吸が、ひとつ、またひとつと浅くなり——気づけば、そこにあるべき温もりだけが、抜け落ちていた。


 ビアトリスは、しばらく父の傍を離れなかった。名を呼ぶことも、涙を見せることもない。


 ただ、最後まで耳は聞こえていると告げた言葉を思い出し、もう届かぬと知りながら、一度だけ言葉を置く。


 「——さようなら、父上」


 それは赦しでも、和解でもない。

 けれど確かに、娘としての別れだった。


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