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Noli Meminisse


 とある城の、とある部屋。

 分厚い扉は外界の気配をすべて遮断し、石壁に反響するのは、低く抑えられた声音だけだった。


「……アル。言っておくが、これは報告だ。君の許可は求めていない」


 窓辺に立つ女はそう言うと、ひとつため息を吐いた。涼やかな瞳がアルヴェルへ向く。


 ビアトリス・フォン・リュミエール公。


 華やかと形容するには強過ぎる印象は、歳を重ねて威厳さえも感じさせる。

 彼女はアルヴェルの対面に腰掛けると、軽く足を組んだ。仕立ての良いパンツ姿が、無駄のない体躯に自然に馴染んでいる。


「……だからといって、あまりにも勝手だろう。何の説明もなく呼び出すなど——」


 これまで距離を取っていた癖に、今更なんだというのだ。

 苛立ちで語気がつい荒くなりかけたのを、アルヴェルはグッと押し留めた。


 どうしてこんな話になったのか。元々は別の要件で訪れたのに、領地経営の話の流れで彼女が口にしたのだ。セリウスの名を。


「そもそもそれが目的じゃないと言っているだろう。会わせるつもりもない。……必要があれば説明もする」


 その言葉に、アルヴェルは目を細める。


「リュミエール公。そもそもあなたがわざわざ依頼などしなければ、その"必要"とやらも生じないだろう」


 何を考えているのか分からないが、彼女がセリウス呼び付けた時点で、すでに危険を孕んでいた。ビアトリスはあくまで領主としての建前を崩さなかったが、何かあるのは明らかだった。


「せっかく忘れているのに、刺激する様な真似を……」


 静かに噛み付くアルヴェルに、ビアトリスはやれやれといった態度で肩を竦める。


「……だからこうして話しているんじゃないか。誓って会わせる気はない。それに私のことも思い出せないさ、きっと」


 強かで気品のある眉が、僅かに下がる。

 アルヴェルは開きかけていた口を、静かに引き結んだ。これ以上追及したところで何が好転するわけでもない。


「……とにかく、あれに会うなら私も同席するから。

 ——それで、どこまで話したっけ?」


 切り替えるように話題を戻し掛けたが、ビアトリスは首を横に振る。


「いや、続きは後にしよう。もうそろそろ時間だ」


「何だ、急用でも——」


 コンコンコン——。

 突如、急くようなノックが響いた。


「閣下、大変です!」


 許可も待たずに扉が開くのと殆ど同時に侍女が言った。


「父君が——また、どこかへ……!」


 一瞬、ビアトリスの表情から色が消える。

 すぐに腰を浮かし数歩扉へと向かうが、しかし舌打ちをひとつ。


「ああ、もう……!よりにもよって、こんな時に……!」


 苛立ちは侍女に向けられたのではない。

 予想外の事態に、またそれを想定しなかった自身の甘さに苛立っていたが、余裕のなさが棘になる。


「見張りは何をしている。この城の廊下は迷路じゃないだろう……!」


「も、申し訳ありません。いつもこの時間はお休みになられているので、当然お部屋にいらっしゃると……申し訳ありません」


 侍女は微かに声を震わせていた。


「あの人がどうしたって……?」


 アルヴェルの声に、ビアトリスははっと顔を上げた。


「……まずい」


 そして、彼を見る。


「アルヴェル、頼む。君も探してくれ」


 命令ではない。

 懇願に近い声だった。


「早くしないと——セリウスが来てしまう」


 その名が出た瞬間、アルヴェルの瞳が、鋭く細められた。


 彼女は唇を噛み、正直に吐き出す。


「……あの人は、もう自分が誰かも、どこにいるかも、分かっていないんだ」


 一瞬、声が揺れた。公爵としてではなく、娘として。


 (そういう事はもっと早く言ってくれ)


 アルヴェルは短く息を吐く。


「分かった」


 即答だった。


「城内を分けて探そう。必ず見つける」


「すまない、こんなはずじゃ……」


 アルヴェルは扉へ向かいながら、低く言った。


「急げ。悪いと思うならな」



 木立を抜けると、ほどなく石壁が現れた。

 積み上げられた石の威圧感に、セリウスは思わず視線を上へ走らせる。


「……城だ」


 ぽつりと零れた声は、ほとんど独り言だった。

 元は王族の所有地、所謂王領であったことは、この城の佇まいだけでも十分に伝わってくる。

 だが、リュミエール公爵についてどれほど記憶を辿っても、やはり思い出せなかった。それもポッカリとそこだけが綺麗に抜け落ちたみたいに。記憶の片鱗さえ掴めない。


 そうこうしているうちに、一行は門をくぐり、広いコンコースへと入った。厩番に手綱を預け、遣いの案内で城の奥へ進んで行く。

 外観は要塞じみているが、内装は驚くほど柔らかい。色調は抑えられ、装飾は控えめで、しかし細部まで気が配られている。

 いかにも女性が治める城——そんな印象だ。


 背後を歩くニコルは、まだ少し緊張した面持ちだ。だが、ふと目が合うと、照れたように小さく笑う。今はその裏表のない笑顔が救いだった。


「——おい」


 回廊の向こうから現れた従者が、セリウスたちを導いてきた遣いに何かを耳打ちした。


「……なんだと?」


 遣いの声が、わずかに上ずる。

 その様子に、セリウスは足を止めた。


(……何だ?)


 視線が合うと、遣いは慌てたように咳払いをした。


「モ、モルフォンド殿……申し訳ありません。主が、今しばらくお時間を要しておりまして」


 言い淀む遣いの言葉を引き取るように、もう一人の従者が一歩前に出た。


「こちらへどうぞ。準備が整うまで、客間でお待ちいただけますでしょうか」


 丁寧な物腰。だが、その奥に、わずかな慌ただしさが滲んでいる。

 セリウスは穏やかに頷く。


「分かりました」


 彼らの様子を見るに混乱が生じているのは確かだ。意図的なものは感じない。純粋にただ何かに焦っているだけ。見る限りではそう確信が持てるのに、なぜこんなにも不安に駆られるのだろうか。


 通された客間は、サンルームに繋がる明るい部屋だった。ガラス越しに降り注ぐ光に、セリウスは思わず目を細める。

 アイビーの絡まる、あの静かなランドフォード領のサンルームが脳裏をよぎり、ほんの少しだけ不安が解れた。

 光が石床に反射し、容赦なく視界を刺激する。それがどうにも気になって、セリウスは片手で小さく庇を作りながら窓際へと向かうと、間仕切りのカーテンへと手を伸ばした。


 その時。


(……足?)


 カーテンの裾、その影から、指先のようなものが覗いている。


 一瞬、思考が止まった。

 反射的に後ずさる。


 だが、すでにカーテンを掴んでいた手は止まらなかった。引かれたカーテンが、はらりと音を立てて開き、その奥の人物を白日の下に晒す。


「きゃっ!」


 先に声を上げたのはニコルだった。


「……おや。その髪、あの子にそっくりだ」


 白い褥姿のその男は、年老いているはずなのに妙に整った顔立ちのまま微笑んだ。


「どこにいるか知ってるかい?怖がらせてしまったんだ。ただちょっと、遊んでやろうとしただけなのに」


 その眼を知っている。

 その笑顔を知っている。


 セリウスは瞬きすら忘れ、ただ、彼を見ていた。

 息が詰まり、ひゅっと音が鳴る。

 指先が痺れていく感覚だけが分かった。


「そうだ、代わりにお前と遊ぼうか」


 甘ったるい息が耳腔を震わし、ゾワリ——

 と、身体中が粟立った。


 胸の奥深く、ずっと深くに沈めた黒い何かが、出口を求めて迫り上がってくる——。


「今の叫び声、ここか……!?」


 乱暴に扉が開け放たれ、ニコルが弾かれたように振り向いた。

 赤い瞳の男と目が合う。


「き、騎士様……?」


「——チッ」


 男の短い舌打ちが落ちた瞬間、空気が一気に張り詰めた。


「こちらへ」


 続いて入ってきたノエルドは、主人の纏う怒気を一目で察すると、村長とニコルの視界を遮るように間近に立つと、二人を部屋の外へと促した。


「——セリィ!」


 セリウスは両腕を掴まれたまま固まっている。抵抗もせず、ただじっと荒い呼吸を繰り返していた。


 ——最悪だ。


 アルヴェルはすぐさま手を伸ばし、容赦なく二人の間に割って入る。引き寄せたセリウスの顔は冷たく、じっとりと汗をかいていた。

 もう何も見なくて済むよう、大きな手で目元を覆い抱き寄せると、もう一度初老の男——父王の実弟を睨んだ。


「叔父上。公爵殿がお探しです。お戻りを」


 アルヴェルの声音は柔らかい。だがその視線は一際鋭さを増す。


「お前は……」


 男はアルヴェルを見つめた。その目は見ているようで、何も見ていない。

 黙ったままのセリウスを胸に抱いたまま、アルヴェルは低く声を落とした。


「お戻りを」


「フェルナード、お前のせいで……!」


 掴みかけた腕を、アルヴェルが弾いた。老いた身体はバランスを崩してそのまま後方へと倒れ掛けたが、アルヴェルのもう片方の手が咄嗟にそれを防いだ。


「……忌々しい」


 小さく悪態を吐く。そのまま倒れるのを見ていてもよかったのに、だが、そこまで外道にはなれなかった。

 

「父上!」


 遅れて駆け込んできたビアトリスが、彼を呼ぶ。


「……ああ。しまった、遅かった」


 室内を一瞥しただけで、何が起きたかを悟る。

 片手で顔を覆い、アルヴェルに抱かれたままのセリウスをちらりと見た。


「………」


 だが、声をかけるより先に、アルヴェルが低く割って入る。


「早く、連れて行ってください。公」


 それは命令ではなく、ほとんど懇願だった。

 ビアトリスは一瞬、唇を噛みしめ——そして、静かに頷いた。


「……すまない」


 パタン、と扉が閉まる。

 アルヴェルはようやく視線を腕の中に移した。

 吸って、吐いて——不規則に伝わる呼吸は、そのどちらもが浅く、途中で途切れる。


「セリィ?……おい、セリウス」


 呼び掛けに返事をしようと試みているようだったが、やっとで返された言葉は「すみません」の一言だけ。セリウスの指先は冷え、衣の裾を掴む力だけが異様に強かった。


 あの夏の日の出来事は、本人にとって記憶ごと消し去るほどの出来事だった。ずっとそう理解していた。

 だが、こんなにも傷が深かったとは。


「……大丈夫だ、大丈夫」


 アルヴェルはひとまず手近なソファに座らせると、傍らに腰掛け、より深く彼を抱き寄せた。


 叶うなら、その恐怖ごと全て引き受けてやりたい。


 ——ドクン。


 それはまるで呼び水だった。


 触れたところからじわりと伝わるものがある。だがそれは、もらった力を返す『あの感覚』とはまた違う——もっと居心地の悪く、胸苦しい感覚。


「……そうか」


 整理のつかない幾つもの感情が、胸の奥で暴れている。

 その鳩尾をぐっと押されるような息苦しさに眉を寄せたまま、アルヴェルは目を閉じる。

 自分の見ていたセリウスは、ほんの一欠片に過ぎなかったのかも知れない。自分の知らないところで、計り知れない恐怖を感じていたのかも知れない。


「大丈夫、大丈夫……」


 これからはもう、一人で抱えなくていい。



 目の前の男は記憶の中のその人よりもずっと弱々しく、小さかった。

 力を振るわれた訳でもない。まして、今や自分の方が遥かに力があるはずで。


 ——それでも、動けなかった。


 遠ざけていた記憶が、堰を切ったように押し寄せる。

 何もかも、思い出してしまった。

 そして大人になった今、自分に起こったその出来事が何であったのかを、はっきりと認識してしまう。

 拒めば壊されると知り、恐怖に耐え切れず従った——恥知らずな己自身さえも。


 不快で、悍ましくて、恥ずかしくて、なのに何事もなかった様に笑っている自分自身さえもが許せなくて。


 いっそ消えてしまいたいとさえ、思った。

 全て忘れてしまえと、願った。


(……あ)


 ふわりと腕を引かれ、抱き留められた温もりに覚えがあった。


「殿下……、何で、」


 その声は結局音にはならなかったが、言葉にする事で次第に意識が現実に引き戻されていた。

 いつの間にかソファに座らされ、再び抱き寄せられると、重苦しかったはずの胸の内にふと余裕が生まれた。

 堰き止められた流れを整えるように。

 決壊寸前の心が行き場を与えられたように。


 腕の力が緩むと、代わりに額をそっと寄せられる。頬を包んで、視線を絡めて。

 そうして、ただゆっくりと呼吸を繰り返した。

 吸って。吐いて。

 息はまだ浅かったが、アルヴェルの呼吸に応じるように、それはやがて同じリズムをなぞり始めた。


「……苦しかったな」


 声はただ、そっと事実を受け止めるものだった。

 ようやく衣を掴んでいた指の力がほんの少し緩むと、アルヴェルの眉間に寄せていた皺も解かれた。


 長い指が髪を梳き、力を込めすぎて白くなった指を優しく解す。

 それからゆっくりと、額に、鼻に、瞼に……鳥の啄みのような、短い口付けを繰り返した。

 ここにいる。生きている。

 それだけを伝えるための、ささやかな仕草。


 セリウスの喉が、小さく鳴る。


「……アル」


 ガラス玉の様な瞳からポロと水滴が溢れ出た。

 その理由が、ただ悲しいとか怖かったからではないことに、少しだけ可笑しくなる。


「まるで、呼び寄せたみたいですね」


「そうなのかもな」


 きっとそんなはずはないだろうに、アルヴェルはそれ以上何も言わず微笑んだ。

 その相貌に、微かに疲労と焦燥が窺える。

 やがて、背に回されていた腕から、そっと力が抜けると、セリウスは自ら一歩引き、姿勢を正した。


「……ごめんなさい」


 一拍置いて、言い直す。


「少し、驚いてしまって」


 苦しい言い訳だが、今ここでそれ以上は話したくなかった。

 それよりも、不思議なほど凪いだこの感覚に既視感を覚え、ああ——と。

 納得と同時に、冷たい確信が生まれた。


「殿下、いま……私」


 けれど。

 アルヴェルは一度だけ深く息を吐き、表情を整えた。


「……落ち着いたら話そう」


 瞳はじっとセリウスを見つめたまま。徐に掴んだ手を持ち上げると、手の甲に、欠けた指の間に、いたずらっぽく口付けてゆく。

 その様に目が逸らせず、セリウスはふるりと肩を震わせた。


「やっと、顔色が戻ったかな」


 男は口元をわずかに緩めると、「続きは、また今度」と言って名残惜しそうに手を離し、立ち上がる。

 その仕草だけを見れば、もう完全に“いつもの殿下”だった。



 

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