Gradatim
レストラ領のひまわり畑から、川沿いを北東へと上がった先に、とある小さな村が見えてくる。
険しい山脈の麓にあるこの場所は、年中強い風が吹き抜けていた。
セリウスは淡々と同じ調子で歩いていた。風が時折強く吹く所為で外套のフードが攫われるのを、何度も手で押さえながら、一月ほど前の出来事を思い返していた。
「——お願い出来ますか?私もこの話を聞いて真っ先にセリウス殿が思い浮かんだのですが、先方もセリウス殿にぜひ、と」
あの日、どこで聞きつけたのか文官のメンデスが自分を尋ねて来た。政策はいまやその主導権をそれぞれの領主へと移し、ようやく暇が出来たのだと笑って話した後で、件の依頼を受けたのだ。
どうやら北方視察で築いたのは、制度の礎だけではなかったらしい。知らずに蒔いた種が、今になって芽吹いていた。
***
「住まいまでご用意していただけるとは……ありがとう存じます」
「いえいえ。御子様……ゴホン、いえ、お医者様が、こうして村に来てくださる日を、皆楽しみにしていたのですよ」
その言葉に、セリウスはただ、にっこりと笑う。
あれから幾年も経つというのに、それでも王都を離れれば彼は相変わらず“御子様”だった。
もっとも想像していたよりは悪魔呼ばわりされないだけ、ずいぶん穏やかなものだが。
(同じ北方地域でも、公爵領ともなるとまた反応が違うのか……?)
数年前、この一帯の再編に関わった時は、異形への警戒も強く、恐れにも似た視線を向けられたものだった。
だがリュミエール領へ入ると、その空気は徐々に和らいだ。セリウスが来ることが予め告知されているのだろうか。行き交う際に挨拶をくれる者すらいたのには、正直驚いた。
村長に案内され、川沿いの小道を少し進むと、小さな家屋が見えて来た。石を積み上げただけの簡素な造りだが、風除けの工夫がされ、裏手には小さな畑もある。
「ここで、暮らしていただければ」
差し出された鍵を、セリウスは両手で受け取った。そのとき、欠けた指に村長の視線が一瞬だけ止まり、眉がわずかに上がる。
セリウスは、気づいていた。けれど、特段気に留めない。わざと手の中の鍵へと視線を外してやると、村長がほっとした気配が分かった。
「十分すぎるほどです」
ただ笑って返す。村長も同じように笑って応じる。
これでいい。心の中でそう言った。
*
夜。荷を解きながら、セリウスはふと考えていた。
この村に呼ばれたのは、癒しの力を持つからか。
それとも——ただの医者として、か。
(……まあ、どちらでもいいが)
昔なら、相手の出方を穿って見るあまりに自分を見失い、勝手に傷ついていた。でも、今は違う。
やりたいように、やればいい。
生きたいように、生きればいい。
自分にそう言ってくれたあの人を思い浮かべる。それだけで不思議と心がじんわりと温かくなる。
祈りを捧げるように、セリウスは欠けた指の付け根へとそっと口づけた。
温かなもので満たされていれば——たとえ明日、また何かを失うことがあったとしても、きっと大丈夫。そう思えた。
*
裏の畑は、誂え向きのハーブの宝庫だった。
「……ありがたいな」
翌朝、セリウスは畑を見回って土に触れ、挨拶代わりに静かに力を込めた。
薄くふっと青白い光が立ち上がると、それに応えるように、植物の葉が一斉におじぎするように震えた。
「……?」
ほんの一瞬、胸の奥に引っかかるものがあった。
(少し疲れが残っているのか?)
若い気でいたが、もう三十路だ。
せっかく自由になった身だ。庇護対象にならず、一人で生きてみたい。そう言ったくせに、いつもどこか心許なかった。
こうして国中を巡る日々は学ぶことも多く、面白さはある。それでも、自分が本当に一人で立てているのかと問われれば、まだ頷けなかった。
セリウスは考えを切り替えるように、手近な籠を掴んだ。ローズマリーの、まだ柔らかな穂先を選び、手際よく摘み取る。青々とした爽やかな香りが立ち上った。
セリウスの手は目の前の作業を続けている。
だが、思考はもう別のところにあった。
不思議なほど手厚い歓迎。風避けの工夫だけではなく、日差しを深く通さない窓、遮光のカーテン。医薬品は一通り揃い、食材や日用品も、過不足なく用意されている。
けれど——十分すぎて、少し、怖い。
「もしかして……ここから出られなかったりして」
半ば冗談めかして呟いた、その背後から。
「もう出ていく気ですか!?」
弾かれたような声が飛んできた。
セリウスはその場でピクリと肩を震わせて、一拍置いてからゆっくりと振り向いた。
「……驚いた。いつからそこに?」
そこに立っていたのは、二十歳前後の若い女性だった。胸を押さえつつそう言うと、彼女は慌てて両手をぱたぱたと振って謝罪する。
「あっ! ご、ごめんなさい! えっと、あのっ」
「落ち着いて。……怒ってはいないよ」
笑って応じた。それは、いつもの作った微笑ではなく、彼女の慌てぶりがおかしくて、思わず零れたものだ。
彼女は一度「ふー」と大きく息を吐き、改めて姿勢を正す。素朴で垢抜けない顔立ちだが、目だけは妙に澄んでいるのが印象的な娘だ。
「あの、私、ニコルと申します。今日から、モルフォンド卿の診療のお手伝いをさせていただくために参りました。どうぞニコルと気軽にお呼びください」
深々と頭を下げるその仕草に、セリウスはふと、ランドフォードにいる赤毛の女中のことを思い出した。
「セリウスで構いません。どうぞ、よろしく」
セリウスも彼女に倣って礼を取る。
そんなセリウスの態度にニコルは堪らずに、再びあたふたとする。まるでモルフォンド家に女中として来たばかりのシンディを見ているみたいで懐かしい。
「……ニコルは、村の人?」
籠を抱え直しながら何気なく尋ねると、彼女はこくりと頷いた。
「はい。村長の姪です」
「そうなんだね」
それにしても。
畑や医療品はまだ良いとして——この家は“セリウスの体質を理解している”準備の仕方だ。それがやはり釈然とせず、ニコルがお茶を用意している間、セリウスは改めて室内をまじまじと眺めていた。
「この家は……誰が用意したんだい?」
セリウスの問いに、ニコルは困惑と驚きの色を呈した。「聞いていないのか?」とその表情が言っている。すぐ顔に出てしまう彼女が可笑しくて、セリウスは自身の緩む口元をそっと隠す。
「実際に整えたのは村の者たちです。でも……決めたのは、領主様だと聞いています。細かいところまで指示があったみたいで……」
「領主様……?」
昨日、そんな話は出なかった。確かに村単位であっても領内で新たな取り組みをするのなら領主の許可は得ているのだろうが、自分がここへ呼ばれたのは領内辺縁部にある村々での診療を依頼されたに過ぎない。普通なら許可だけ出して終わるような話だ。
なのにあれこれ指示を出しただと?
教皇でさえこの白い肌が陽射しで容易に焼け爛れること等気にも留めなかったというのに、大して自分を知りもしない人間にそこまでするだろうか。
この辺りの統治は、確か——セリウスは記憶を辿り、わずかに首を傾げた。
「ここの領主は……どなたでしたか」
ニコルは少し胸を張るようにして答える。
「ビアトリス・フォン・リュミエール公です」
「……女性の領主、か」
思わず、口から零れる。
確かにその名に、聞き覚えがあった。遠い昔。書簡か、報告書か、あるいは——もっと身近な。
(……おかしいな)
だが思い出そうとすると、指先で掴みかけた糸がするりと抜け落ちる。記憶の輪郭だけが曖昧に残り、肝心な部分が靄に包まれている様な。
(……知っているはずなんだけど)
だが、それ以上は追えなかった。
無理に思い出そうとするほど、胸の奥が静かに冷えていく気がして、セリウスは結局、その感覚を意識の端に押しやった。
「……あの、なにか余計なことを言いましたか?」
恐る恐る窺う娘に、セリウスは「いや、聞けてよかったよ」と答え、くいっと茶を飲み切った。
「さてニコル。まずはどなたから診ればいい?」
ようやく彼女は少しほっとしたように表情を緩めた。
「はい。まずは川向こうの家です。足の痛みで歩けないとか……」
「分かりました」
簡潔に頷き、薬籠を肩に掛ける。
外に出ると、相変わらず風が強く、乾いた土の匂いが鼻を掠めた。
戸口で振り返り、セリウスは一度だけ家を見やる。よく整えられた、分不相応なほどの住まい。
(……考えるのは、後でいい)
今はただ、医師として呼ばれた。
それだけで十分だ。
*
最初の家では、老人が膝を抱えて待っていた。
長年の冷えと、若い頃の無理が祟っているのだろう。触れればすぐに分かった。
「ここが、痛む?」
頷きに合わせて、セリウスはゆっくりと手を当てる。その手はただ、熱の籠もり方と筋の張りを確かめる。
「湿布を替えよう。今は無茶をしてはいけませんよ。痛みは"休め"のサインですから」
そう言って少し思案した後、ほんの少しだけ力を使った。
その後も何件かを周ったが、やはり予想通り、セリウスのその見た目に怪訝な顔をする者や怖がって診療を断る者は当然いた。
だがそこはニコルが丁寧に対応することで、何事もなく済んだ。
単に村長の姪に留まらない、元々の信頼の厚さがそうさせたのだろうと思うと、村長がニコルを自分に寄越した事にも合点がいった。
「先生、以前はどこに?」
「少し前まではレストラ……旧ルーカス領です。その前は……」
打ち解けてくれれば、会話も自然と増えていた。
「北の土地では、こういう風を“病を連れてくる風”と呼んでいました」
「なるほど。冬はもっと冷えそうですものですね」
そうして回っているうちに、気付けば影が短くなるほどに陽が高い。
「……もう、お昼ですね」
ニコルの言葉に、セリウスはようやく空を仰ぐ。
「ずいぶん時間が経ってしまったな」
挨拶も兼ねた診察は、ひとまずここまで。
家へ戻る小道を歩きながら、ニコルが少し言い淀む。
「先生は……」
「うん?」
「……あの力を、使わないのですか?」
来たか、とセリウスは思う。この問いを、彼はもう何百回と受けてきた。
「使わないってわけじゃないけど……私は医者だからね。さっき一度使ったのは、ほんの少し彼の治癒力を引き上げるためだ。ご老体だからね、サポートが必要だと思ったんだ」
「えっと……」
ニコルは言葉を探すように視線を彷徨わせる。
もっと当たり前の様に使うものだとでも思っていたのだろう。
「みんな誤解しているけれど……癒しの力は、傷や病を“消す”わけじゃない」
セリウスは足を止めずに続けた。
「痛みには理由がある。生活があって、癖があって、積み重ねがある。それを無視して治してしまえば、同じことをまた繰り返す」
風が、二人の間を吹き抜ける。
「力は万能ではない。だからそれを使う私自身が安易には頼らない。そうでなければ、皆過信するからね。
それは残酷なことだよ」
並ぶ様に歩いていたニコルは、少し驚いたように彼を見た。
「……意外と、寂しいことを言うのですね」
「そうかい?」
セリウスは小さく笑う。
「でも、それが現実だよ」
そう言って歩き出す背中は、それでも穏やかだった。
*
セリウスという人物を前提にして整えられたかのようなあの家の他にも、気になることは幾つもあった。
診察の合間に聞いた話では、この村から少し南へ下れば、領地の中心部があり、そこには規模の大きな診療所もあるという。
決して医療から切り離された土地ではなかった。
まして、どこにいるかも分からないセリウスを指名してまで。
そして、昨日提示された期間も妙だった。
最低限約束された滞在期間は、三ヶ月。短い、とは言わない。だが「医師を必要としている」という言葉から想像していたのは、数年単位の話だった。定住するか、少なくとも腰を据えて診る前提の依頼だと思っていた。
三ヶ月。季節が一つ、巡る程度。
セリウスは歩きながら、静かに考える。
村人たちの顔に、嘘は見えない。だが——元々の疑り深い性格はそうそう変えられそうにもなかった。
(やめよう。少なくとも、悪意を向けられているわけではない)
違和感を感じたからといって、今すぐ害があるわけではない。自分がすべきことも、変わらない。
医者として診る。できることをする。それだけだ。
もし、それ以上の何かを期待されているのだとしても——自分が差し出せるのは、それだけなのだから。
家の前で足を止め、セリウスは一度、深く息を吸った。
山から吹き下ろす風が、衣の裾を揺らす。
その時だった。
「モルフォンド卿、今よろしいでしょうか」
振り返ると、村長が一人の男を伴って立っている。年の頃は三十前後。旅装を整え、背筋の伸びた立ち姿から、ただの使いではないことが窺えた。
「ああ、村長……そちらは?」
「領主様からの遣いです。お時間がありましたら、一度お会いしたいと」
——やはり、来たか。胸の奥で、小さく納得する。
「……少し待っていただけますか。この格好では、さすがに礼を欠いてしまいますので」
そう言いながら扉に手を掛けると、傍らにいたニコルが一瞬、目を瞬かせた。
「先生、私は——」
「来るかい?」
そう返すと、彼女は少し戸惑いながらも頷いた。当然ここで待っているべきだと思っていたのだろう。セリウスの言葉は確かに問いかけの形であったが、そこには淡い期待が込められていた。
少なくともこの娘は、領主がセリウスを招致した本当の理由を知らない側だろうと思えたからだ。
「こちらは構いません。先生のよろしい様にせよと仰せつかっております」
使者は二人を見比べ、一瞬だけ視線を巡らせてから、穏やかに頭を下げる。けれどセリウスは油断するなと無意識に自分に言い聞かせていた。
扉を閉め、簡単に身なりを整えながら、セリウスはまた考える。
(ビアトリス・フォン・リュミエール……)
公爵であるなら知らないはずはないのに、なぜか思い出せずにいる。過分な配慮よりも奇妙な依頼内容よりも、それが一番不安を掻き立てていた。
だがそれも、行けばわかる事だ。
ため息をひとつ吐いて外套を羽織ると、セリウスはゆったりとした動作で扉を開ける。その顔にいつもの穏やかな微笑だけを浮かべて。
「お待たせしました。それで……領主様は、どのようなご用向きでしょうか」
使者は一礼し、静かに答える。
「まずは、ご挨拶を。それからお話を、少し」
短い言葉の奥に含まれた重みを、セリウスは聞き逃さなかった。その隣で、ニコルは緊張した面持ちで佇んでいる。
遣いの先導で、領主の館へ向かうことになった。
村外れに繋がれた馬は二頭。一頭は使者のもの、もう一頭は——どう見ても一人乗りだ。
「……馬に、乗ったことは?」
セリウスがそう尋ねると、ニコルは小さく首を横に振った。
「ありません。牛なら、少し……」
「それはまた、ずいぶんと違うな」
困ったように笑ってから、セリウスは一度、馬の首を撫でる。大人しく鼻を鳴らすのを確かめてから、彼はニコルの方を向いた。
「同乗しよう。掴まっていれば大丈夫だから」
「え、で、でも……」
「落ちるよりはいい」
簡潔な言葉に、ニコルは観念したように頷く。
先にセリウスが鞍に上がり、次いで手を差し伸べた。
「——手を」
その手を取った瞬間だった。
胸の奥、さらに深い場所。
普段は静まり返っているはずの“そこ”に、ぽとりと何かが落ちる。
水滴。
そのひとしずくが、波紋を描いて広がるような感覚。
「……」
言葉を失ったまま瞬きをした、そのとき。
「ひゃ……!」
小さな声と同時に、ニコルの身体がびくりと震えた。
「あ、すまない!」
反射的に手を離し、セリウスは慌てて身を引く。
やはり怖がらせたか、と思ったが、その表情を見るにそうではないらしい。
「……年頃の子に、軽率でした」
「い、いえっ!」
ニコルは必死に首を振り、耳まで赤く染めたままの顔でくるりと振り返った。
「お、叔父様!」
呼ばれた村長がきょとんとした顔を向ける。
「叔父様の馬に一緒に乗せて!
こ、こんな……こんな美しい人のそばにいたら、ばちが当たってしまいます!」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、村長が盛大に咳き込んだ。
「な、何を言い出すんだ、お前は……!」
使者は視線を逸らし、馬は何事もなかったかのように尾を振る。
(……今のは)
セリウスは差し出したままの自分の手を見た。
理由は分からないが、確かに今“何か”が触れた。
(これは、もしや……)
結局、ニコルは村長の馬に乗ることになり、少しだけ不満そうに、それでもほっとした顔でセリウスの方を振り向いて手を振って来る。
「先生、行きましょう?」
「……ええ」
手綱を握る手に、セリウスは静かに力を込めた。




