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Perge


 まだ夏の気配を感じる前の、麗らかな午前。

 その男は、河川沿いに伸びる広大な畑に、一定の間隔で種を蒔いて歩いていた。

 今年で、もう五年は経つだろうか。

 一息ついて顔を上げ、額の汗を拭う。


「セリウス殿ー!」


 呼び声に振り返ると、かつての同僚——ラシードが、畝の向こうから手を振っているのが見えた。


「そろそろ休憩にしないか?」


「そうですね」


 男の提案に、彼もまた片手を上げてそう答えた。

 木陰に腰を下ろすと、ラシードは慣れた手つきで水筒から茶を注ぎ、差し出す。その所作には、すっかりこの土地に馴染んだ落ち着きがあった。


「いつもありがとうございます。なんだか毎年作業の手が増えて、助かっています」


「いやいや。皆、このひまわり畑が楽しみなんだよ。人も増えて、村が明るくなったと評判もいい。君が始めなければありえなかったことだ」


その言葉に、セリウスは小さく笑う。


「私がやるのはせいぜい種蒔きと花摘みだけですよ。不在の間のことはラシード殿が殆どやって下さっているではありませんか」


「いいんだよ、どうせ医局の方も落ち着いているし。それにこうして周りの人たちも手伝ってくれているから」


 視線の先に広がるのは、かつて“豊かな土”と呼ばれていた土地。黄色い花々は土壌に蔓延る毒を吸い出すのにちょうど良かっただけだ。それでも人々の心を和ませるのに一役買っていた。


「まさか、あなたがここに居を構えてしまうとは思いませんでしたよ」


 セリウスの言葉に、男は肩をすくめる。


「ははは。自分でもそう思う」


「まあ、ラシード殿らしいと言えば、らしいですけど」


言いながらセリウスはラシードの方に顔を向けたが、彼の視線はすでに畝の方へ向けられていた。

 そして、そのまま口を開く。


「……知りたかったんだよ。愚か者の後輩が取り戻したかったものを」


 やるせなさと、苛立ちと。彼の声は出来の悪い弟子への情を含ませているが、その横顔はそれ以上の想いを宿しているようだった。

 セリウスはそれに気付いて視線を下に外した。

 地面に着いた右手。その欠けた指は元には戻らない。けれどもう痛みはしなかった。

 誰よりも救いを夢見て、そしてそれを歪めた悪魔は、もうここにはいない。


 ラシードは立ち上がり、畑の向こうを見渡した。


「……そういえば。あの方は二ヶ月ほど前にご異動になったよ」


 セリウスは、わずかに頷く。


「ええ、風の噂で。ひと足遅かったようですね」


 川の向こう岸の小高い丘の上。領主の館にはもう彼の姿はない。今はどこにいるのだろう。

 そっと胸に手を当てた。

 特別淋しくはない。離れていても、常に胸の中にそっとその存在があった。


「セリウス殿は、いつまで?」

「そうですね……」


 そう言って、セリウスは手元の袋を確かめる。

 中に残る種は、もうわずかだった。


「私も、明日には移ります。

 この先の北の川沿いに、治癒師を必要としている村があると聞きました」


 男は「そうか」と、少しだけ寂しそうに笑う。


「相変わらずだな。……少しはゆっくりすれば良いのに」


「今はそれが楽しいので」


 その言葉に、ラシードは何も返さなかった。

 畑を渡る風が、賑やかな夏の気配を運んで来る。この地も再び“豊かな土”と呼ばれる日が来るだろう。



 同じ風が王宮の回廊に届く頃。

 ローワンは何度目かのダメ出しをアーサーから直々に頂戴している最中であった。


「うん。……ローワンそなたは、教会と戦争でも起こしたいのかな?」


 満面の笑顔が、怖い。


「いえ……そういうわけでは、決して」


 眉間に皺を寄せ、後に続けるべき言葉を探す。

 けれどきっとまだ、そのどれもが目の前の男を納得させるに足る言葉ではなかった。


「……もう少し、考えます」


 一歩、下がる。

 アーサーは「そうした方がいいな」と柔らかく笑って、それ以上は追及しなかった。きっとローワンよりも遥かに良い構想を思い付いているはずだ。経験も知識も立ち回り方も、遥かに上なのだから。


(悔しい……)


 戸口まで戻った所で、アーサーが声を掛けた。


「焦るな。今そんなに全力疾走では、見えるものも見えないぞ。たまには本から目を離して外でも見て来ると良い」


 圧倒的力不足。

 背中にぶつけられた言葉は、つまりそういうことだ。

 振り向かずに部屋を後にする少年を見送った後、アーサーは天井を仰ぎ見る。


「さて、どうしたもんかなぁ……」


 ほんの数ヶ月前に、アーサーの愛息子である第一王子と共に、晴々しくお披露目式をした末の弟、ローワン。

 まだまだ歩き出したばかりの青二才だ。

 だが、アルヴェルの背を見て育ったその眼は、確実に“王の世界”を捉え始めていた。よく聞き、よく見て、判断も早い。まだ政務の一部はアルヴェルが負担しているとはいえ、その吸収の速さは正直、末恐ろしい。


(——分かってしまうのが、早すぎる)


 それは才能であり、同時に危うさでもあった。


 視線を手元へ落とす。ローワンが提出した草案、その標題が目に入った。


 『ベアラー登録制度』


 意図は分かる。正義から来ていることも、セリウスという存在を見てきたからこそ譲れないのだということも。

 理想は、立派だ。だが——“正しい”だけでは、国は守れない。


(登録、か……)


 思わず、苦笑まじりの溜息が漏れる。

 草案の内容は、実に簡潔だった。

 癒しの力を持つ者の権利を守るため、教会管理とは別に国がこれを登録し、力の使用を国家の監督下に置く——まあ、そんな具合だ。


 (だが、これでは力の定義権を教会から奪うようなものだ)


 神の業を「国家資源」にする気か。

 しかも“聖なる管理”ではなく“俗世の規則”で。


(と、教皇なら言うだろうな…)


 アーサーは標題をもう一度だけ読み、そっと引き出しにしまった。

 表向きには論外と切り捨てた。だが、本心では——捨てきれなかった。


 青臭い。あまりに青くて、眩しい。


 もし市井の革命家だったなら、それも許されたかもしれない。だが残念なことに、彼は王族だ。


「……セリウスよ」


 誰もいない執務室で、アーサーは小さく笑った。


「ずいぶん厄介な宿題を置いていってくれたな」


 もう、愚痴も相談もできない友。

 だが、その背を押されたのは確かだった。


 問題は制度ではない。順序だ。


 もし今、自分の身に何かあれば——王族の爺共はまたベアラーを欲するかも知れない。のみならず、アルヴェルも王宮に引き戻されるだろう。


 それだけは避けねばならない。


 誰を先に救うのか。

 誰の利になる形にするのか。

 そして、誰を納得させるのか。


(私と共にそれを為すのは、もうお前しかいないんだよ。ローワン)


 理想を抱くなとは言わない。だが、それを通すには、血の通わない選択も必要になる。


「……もっと残酷になれ」


 理不尽を、操れるようになれ。

 それができるのは自分しかいないのだから。



 若き王弟は意外なほど静かに執務室の椅子に腰掛けた。そして意外なほどに淡々と、机の上の書類を捌いていく。

 新たに回ってきていた文官からの確認案件を、彼の執務机の傍らで振り分けていた侍従——エドガーは、その様子を視界の隅で捉えていた。


 彼は一束を整えながら、何気ない調子で口を開く。


「……こちらは、今すぐ返答を出す必要はありません」


 ローワンのペン先が、一瞬だけ止まった。が返事はない。


「急がせる案件ではない、という意味です」


 念を押すように言うと、ようやく王弟の瞳がこちらを向く。


「……なぜ、二度言うの?」


「言葉が適切でなかったかと言い直した次第です。ご気分を害すつもりはありませんでした。申し訳ありません」


 侍従の落ち着いた返しに、ハッとしたように彼は一瞬目を見開いた。


「ごめん」


 短く言って、ローワンは視線を机に戻した。

 王族としてはあまりに素直で、だからこそ一瞬だけ、言葉の行き場を失ったような沈黙が落ちる。


「つい、八つ当たりした。……悪かった」


 ペン先が、再び書類の上を滑り出す。


「でも……次々にこういう案件が回ってくるだろう?急ぎじゃなくても、どうせ通すなら早い方がいいと思うんだけど」


 早口になりかけたのを、自分で押しとどめる。理解はしている、と言い訳するような声音だった。


「ものによっては、そうですね」


 彼は否定せずに答えながら、書類の束を一つ取り分け、机の端に置いた。


「ただ——殿下は、結論を急ぎすぎるきらいがあります」


 顔色一つ変えず容赦のない指摘をするこの男は、ローワンの王宮入りに伴い教会側から侍従として推挙された人物だ。元は北方管区の教会で文書管理官を務めていたが、今では教育係として王弟を支えている。

 否定しようとして開き掛けた口は、目的を果たすことなく閉じられた。

 先を促されたのだと分かって、エドガーは一つ息を吐いてから、ゆっくりと話し始めた。


「殿下は、理解が早い。周囲より、常に半歩先を行っておられる。先に答えが出てしまう分、そこへ至る過程が“確認作業”に見えるのでしょう」


 淡々と事実を述べる声が、ローワンの頭にスルリと入ってくる。思い当たる節が、あまりに多すぎた。


「ですが、確認とは殿下のためにあるものではありません」


 エドガーは、先ほどサインされた書類を一枚取り上げ、別の案件の横に並べる。


「こちらは、返答を急がせないことで三人が助かります。会計局員、土木施工管理局員、そして陛下です」


 指先で二枚の書類の間を軽く示す。


「こちらが動いた場合、施工箇所が増える可能性もある。あるいは、もっと予算を削れるかもしれない。新しい懸念も、当然出てくるでしょう」


 ローワンは二つの書類を見比べ、無意識に口元に拳を当てた。


「殿下がほんの少し立ち止まるだけで、彼らは“考える時間”を持てます。——理解する時間、です」


そこで、エドガーは一拍置いた。


「それだけで、反発は半分になります」


 決して大きくはないのによく響く穏やかな声音だった。


「殿下の意見が正しいことと——殿下の意見が通ることは、同じではありません」


 ローワンは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、静かに息を吐く。


「……分かってる」


 言われなくても。だが分かっているからこそ、余計に痛い。


「分かってる、つもりだった」


 故郷のオリーブの木の下で、初めて何かを変えようとした時のことを思い出す。


 ——知識がなければ、与えればいい。

 ——分からないなら、教えればいい。


 あの時も、そう思った。だが現実はそう単純ではなかった。

 自分が“当たり前”に持っているものが、誰にとっても必要だとは限らない。良かれと思った答えが、別の誰かを追い詰めることもある。


「……また、同じことをやりかけたな」


 小さく漏れた呟きは、エドガーに向けたものではない。自分自身への戒めだった。


「目下お悩み中の制度も、焦る必要はないと思いますよ」


 ローワンは、ぴくりと肩を揺らした。


「まずは——あの御子が自由になった。つまりそれは、殿下の描く未来のための、ちょうどいい検証材料が出来たということではないですか?」


 一瞬、言葉を失う。

 思考が止まったわけではない。

 むしろ逆だ。視界が広がった感覚がある。


「……検証、材料?」


 ローワンはゆっくりと問い返す。


「セリウス殿は、癒しの力を持ちながら、今やどこの管理下にもない。教会でも、国家でもなく——ただの一個人として存在していますよね」


 エドガーは淡々と続ける。


「それが周囲にどう受け取られるのか。何が問題になり、何が許容されるのか。誰が不安を覚え、誰が救われるのか」


 一つ一つ、数を数えるように彼は列挙する。


「私だったら、制度を作る前にまずは“見るべき現実”を見てみます」


 教義だけでなく、人と組織の動きを読むことに長けた、実に彼らしい意見だった。もとより教皇サイドの都合もあるのだろうが、それでも助言自体は理にかなっている。


「……それじゃあ、僕はまだ何もしない方がいいってこと?」


「いいえ」


 苛立ち混じりのローワンの言葉を、エドガーは即座に訂正した。


「“何もしない”のではありません。“決めない”という選択をするのです」


 茜の瞳が、数回瞬いた。


 動かないことは、逃げだと思っていた。答えを出さないことは、怠慢だとも思っていた。

 今日までずっとひた走って来たから。


 けれど——。


「待つことも、仕事のうちです」


 エドガーは、穏やかに言った。


「殿下はもう、答えを出せるだけの力をお持ちです。今、必要なのは……その答えを、どう通すかを学ぶ時間でしょう」


 ローワンは、ゆっくりと息を吐いた。


「……ずるいな」


「何がでしょう」


「その言い方」


 苦笑とも、照れともつかない表情。

 ローワンがぼそりとこぼすと、エドガーは書類を整える手を止めずに、ほんのわずか目を細めた。


「それが、教育係の仕事ですので」


 淡々とした声音。だが、どこか柔らかい。


 最初の頃は、教会が寄越した見張りだと思っていた。もし自分が道を踏み外せば、セリウスの自由が再び脅かされるのではないかと。

 だが今では——少なくともエドガー個人については、そんな疑いを向ける気になれなかった。まだ拙いところの多い自分をフォローし、ときに諫め、諭し、見えていなかった部分にそっと光を当てる。

 行動で示すアルヴェルとはまた違ったやり方で、自分の可能性を試されている気がする。


 ローワンは椅子に深く背を預け、大きく伸びをした。


「あー……もう、やめよう」


 一度、天井を見上げる。


「認めるよ。君の言う通り、ちょっと急いでた。早く一人前にならなきゃって。分かった気になって、視野が狭くなってたかもしれない」


 言葉にしてしまうと、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ解けた。


「……こんなんじゃ、アルヴェル殿下に笑われるな」


 冗談めかした口調だったが、そこに自嘲が混じるのを、エドガーは聞き逃さなかった。


「存外、負けず嫌いなのですね」


 静かにそう前置いてから、続ける。


「考える速度と世界の動く速度は、必ずしも一致しません。焦る気持ちはあるでしょうが、殿下が焦るのは個人的な思いがあるからでしょう?」


 ローワンは視線を落としたまま、小さく息を吐いた。


 そうだ。分かっている。

 世の中は、自分が思うほどベアラー個人に関心がない。

 ベアラーは皆教会にその身を置き、教会の名のもとにその力を使う。だから身近ではないし、個人的に関わることはない。

 セリウスだけが例外なのだ。たった一人の王宮の御子として遣わされ、そして今は王宮にも教会にもどちらにも属さない。その例外が、例外として無事でいられる世の中を作りたい。


 胸の中にあるのはそういう個人的な願いだ。

 

「……陛下にも言われたよ。本から目を離して、外でも見てこい、って」


 問いかけに対する回答は口には出さなかったが、その代わり肩を竦ませてローワンは言った。図星だと、観念して。


「それは、良いご判断かと」


 エドガーもふっと笑う。


「うん。だから少し、外に出ようかな。……もっと見るために」


「では、その前に」


 穏やかに言って、銀のベルを鳴らす。


「お茶にいたしましょう。今の殿下に一番必要なのは、休憩です」


 ローワンは一瞬きょとんとし、それから小さく笑う。


「……そうだね」


 無意識に込めていた肩の力を、そっと抜いた。



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