Kader
楽団が軽やかな曲へと移っていた。
「ふふっ。ふははは」
タリクは堪え切れずに笑った。
「踊ろう」とは言ったが、ほんの冗談のつもりだったのに。躱されただけでなく、上手く利用されたのだから、参ってしまう。
なのに当の張本人はと言えば、こちらに目もくれず、何食わぬ顔で別の人物と談笑している。
(つれないな……)
タリクの胸の奥に小さな棘が刺さる。
「……あの」
躊躇いがちな声に視線を戻せば、強張った表情の女性がいた。セリウスによって握らされた手は冷えている。
「ご無礼をお許しください、タリク殿下」
「いいや?気にしなくて良いよ。ええと……」
「ルチアと申します。すみません。わたし、あまり……その、踊りは」
「僕も得意じゃない」
正直に言うと、彼女はわずかに目を見開いた。
音楽が始まり、仕方なく歩みを合わせる。ぎこちないが、破綻はしない程度の距離だ。
「安心して。これは半分、芝居みたいなものだから」
「……芝居?」
ルチアの形の良い眉が、片方だけ持ち上がった。
「僕と一曲踊れば、しばらく君に声をかける連中はいなくなる。夜会のセオリーだよ。“最初の相手”は縄張りみたいなものだから」
「……そういう、ものなのですか?」
ダンスを躊躇っていた割に、ルチアはタリクの下手なリードに上手く合わせている。体幹がブレることもなく、実にしなやかだ。女性らしい線の細さとは正反対にその掌は硬い。
「剣をやっている?」
「なぜそれを……」
「ずいぶん姿勢がいいから。それに、マメができている」
言って、タリクは繋いだ手をふりふりと揺すって見せた。
「ああ、それで……」
「ここでは剣を振るう代わりに、さっきセリウスが言ったように、盾をかざすんだ」
「……」
ルチアはしばらく迷ってから、小さく言った。
「畏れ多いことです」
ルチアの口角が下を向く。言葉通り萎縮している訳ではなさそうだ。こうして一方的に守られている事に納得がいかないのだろう。
「本当にそう思ってる?」
「え……?」
「不服そう」
ルチアはしばらく考え、やがて小さく笑った。
「……確かに、ここで剣を抜くわけにもいきませんね。盾の扱いは苦手なのですが、もう手にしてしまったので仕方ありません」
その笑みは、彼に向けられたものだった。
「足、踏まないように気をつけてくれよ」
「善処しま……あっ」
「痛……」
「……すみません」
音楽は続く。
少しだけ、ほんの少しだけ、タリクの胸の棘も抜けていた。
*
また別の場所から、その一連の様子を眺めていた者がいた。
「……ああいうところだ」
アルヴェルは俄かに浅くなっていた息を解くと、ぼそりと呟いた。
時折セリウスは、こちらの予想の斜め上を行く。王道ではないが、そういう手が最適解になることもあるのだから恐れ入る。
「面白いですね、彼」
気配もなく、隣に声が落ちた。
いつの間にか、フェリットが同じ方向を向いて立っている。
「……面白い、ですか」
「ええ。自分を中心に置かない。だがいつも場の中心を動かす」
含みのある言い方だ。アルヴェルは視線を外さずに問いかけた。
「……あなたは、我々を牽制するためにここにいるのではなかったのですか」
「直球ですね。そう見えますか?」
フェリットは柔らかく笑って聞き返す。
アルヴェルの脳裏に船上での出来事が蘇る。
セリウスの力が弱っていると、あえて自分に告げた——あれは忠告か。それとも揺さぶりか。
「なぜ、あの時……私に伝えたのです。猊下にとって、我々は警戒対象のはずだ」
フェリットはまた僅かに笑った。
「……方々へのご挨拶はお済みで?」
アルヴェルは答えない。だが、真っ直ぐフェリットを捉えたまま酒を飲み干すと、空いたグラスを給仕へ預けた。
「……こちらへ」
フェリットはそう言って、踵を返す。
楽の音と人々のざわめきを背に、人気のないテラスへと来ていた。
アルヴェルの頬を、トルキアの夜気がひやりと撫でる。
「確かに教会の任はそうです」
フェリットは手すりに軽く凭れ、月を仰いでいた。
「だが私も彼と同じ身。力が弱まっていると知っていながら、放置はできますまい。守り人が傍にいる以上、隠しておくのは愚策でしょう」
——本心か?
表情が見えない分、その真意はやはり計り知れなかった。
「新たに力を発現させるベアラーが少なくなっていることは、殿下もご存じですよね」
不意に話の方向性を変えられ、アルヴェルの瞳が、わずかに揺れる。
「……なぜそのような話を」
エドガー、あるいはローワンの教会への接触によってアルヴェルの『推測』がフェリットの耳にも入ったのは確かだ。
だがこの男が敢えてそのことに触れる——それは、『推測』がより真実味を帯びるということだ。
夜風が衣を揺らした。
「ベアラーは今まさに、過渡期を迎えているのです」
フェリットはアルヴェルの問い掛けには応じず、代わりにそう告げた。
その言葉は、だが——牽制でも嘲笑でもない。
「教会にとっても、セリウスは欠かせない——つまりそういうことだな」
フェリットはやはり何も答えなかった。
「……だが、力を完全に失えばどうなる」
あくまで事実の確認としてアルヴェルは尋ねた。
「単なる泉の寿命ならば、ゆっくりとただの人間になり得ましょう。ただ、彼の場合……」
フェリットは僅かに逡巡した。
月明かりの下、漸く二人の視線が交わった。
「それとは別に、殿下をお救いした際の負担が時間を経て彼を蝕んでいます」
「器の瑕疵とやらか?」
「よくご存知で。
癒しの泉を湛えている為に、我々は器と称しておりますが——それは、言ってしまえば生命そのものです。幾度となくすり減らし、軋んでしまえば、もう無事とは言えぬでしょう」
「………」
やはり、そうであったか——。
そんな無味乾燥な理解が胸に落ちた。
「先程申し上げた通り、神の使徒としての役目が終わりを迎え泉が枯れるだけであれば何の問題もないのです。それよりも問題なのは、彼の根幹が揺らいでいる事にある」
フェリットは気を取り直すように肩をすくめて言った。
「ですが——今、私は過渡期と言いましたね。良くも悪くも彼の泉も枯れ始めている。つまり、器が崩れるよりも先に泉がすっかり枯れてしまえば良いのです」
「それは……だが使い果たせばそれこそ無事ではないだろう」
おかしな事を。
使い果たせばどうなるのか、自分が一番よく知っている。
アルヴェルの目に静かな殺意が籠った。
「ああ、いえいえ、そうではありません。ご気分を損ねてしまいました」
「……分かるように説明を」
「使い果たすのではなく、還すのです。神に」
ふざけた事ばかり言いやがる。
神に還すだと?
セリウスは——既に神のために力を使い、傷ついてきた人間だ。その彼に、今度は神へ力を還せば救われるなどと、よく言えたものだ。
神とは、人の生命をこうも都合よく利用するものなのか。
「……馬鹿馬鹿しい。第一それをして、教会には何のメリットがある」
夜風が身体を冷やしていく。
けれど、アルヴェルの胸の内はそれよりももっとずっと冷えていた。
「それは……殿下の知るところではない」
それまで、のらりくらりとアルヴェルの問いを躱していたフェリットだったが、このときばかりははっきりと線を引いた。
「馬鹿馬鹿しいと仰るのなら信じずとも構いません。ですが、彼はどうでしょうか。今も耐えがたく、藁をも縋る気持ちかも知れません」
「……」
「ヴァルセニアの教会本部にも泉があるのをご存じですね?」
「……ああ」
「あれは元々、この地に存在する"始まりの泉"を模したものです。多くのベアラーが持ちきれぬ力を還元させ、また澱みを浄化するために触れる」
淡々とした説明だった。
だがその声が、僅かに変調する。
「私の乳母はかつて、ここトルキアの人間でした。私がベアラーとして発現した夜、彼女はこっそりと言ったのです。
もし、神に託された使命に苦しむ日が来たら、泉へすべての力を還しなさい——と」
フェリットは続ける。
「泉は、その者が向き合いさえすれば、全てを受け入れる——そんな風にも言っていました」
夜気がまた一段、冷たくなった気がした。
「始まりの泉は、模倣ではなく本流です。
単に癒すのみではない。力を還すのなら、あそこしかないでしょう」
アルヴェルの指先が、手すりを強く掴む。
「……そんな都合の良い話」
「そうでしょうね。
ではこの話はなかった事にして、ヴァルセニアに戻っても彼をそばに置き続ける——それもまた選択でしょう」
フェリットは小さく笑った。
月明かりがその横顔を淡く照らしている。
「この交流期間中に泉へ赴く予定です。殿下が伝えずとも気付くでしょう。彼がまだ自らを神の使徒と認識していればの話ですが」
アルヴェルは視線を夜空へ向け、逡巡する。
セリウスが助かるのなら、やってみさえすれば良いのだろうが、どうにも腑に落ちない。
怪しげなところは幾つもあった。
トルキアの資料の中に泉に関するものはなかったし、民話にしたって内容が具体的すぎる。
それに、まるでセリウスが己を否定しているとでも言いたげだ。
「全てを受け入れると言ったが……ならばなぜ、かつてのベアラーはそれをせずにヴァルセニアに逃げた」
「簡単です。皆が皆、泉と向き合えた訳ではなかったのでしょう」
その言葉は、鋭くもなく、ただ静かだった。
力を還し、人として生きたいと望めば叶う。
言葉にすれば容易い。
(だが、果たして……)
縋らない。
助かろうとしない。
自分のために力を使い、自分のために削れたのに、それを当然と思う。
——セリウスは、そういう人間だ。
向き合うとは何だろう。
願うのとは違う、もっと何か試練のようなものがあるのだろうか。
(どちらにせよ、もうセリウスから何も奪ってくれるな)
夜風が強く吹き抜ける。
楽の音がかき消されてはまた響いている。
「冷えてきましたね。殿下は……まだ、考えることがお有りなようだ」
「いえ、私ももう戻らねば」
「そうですか」
ノエルドがやきもきしている頃だろう。そう思うのに、まだ心は切り替えられず、光の漏れる大広間へとフェリットが吸い込まれてゆくのを暫く見届けていた。
「……おや」
分厚いカーテンを開けるとその脇にルチアが一人佇んでいる。
「さすがは元ご令嬢。ダンスが上手でしたよ」
フェリットが褒めると、ルチアは顔を赤らめて唇を引き結んだ。
が、それも束の間。
「さっきの話は何です?」
目力を強め、問い正す。とても枢機卿相手にする態度ではないが、筋の通らないことは許せない質の彼女らしい反応ではある。
「聞こえていたか」
「盗み聞きの趣味はありません。ただ、声が届いてしまっただけです」
強い視線に、背筋がゾクリとした。
「セリウスに何をさせるつもりです」
フェリットは僅かに目を細める。
「“させる”とは、人聞きが悪い」
「違いますか?」
まっすぐな視線が射抜く。
フェリットは一瞬だけ彼女を見つめ、それからふっと短く笑った。
「ではその対価に、私とも一曲願えますか?」
「……は?」
返事を待たず、その手を取ると、ルチアの身体を軽やかに引き寄せた。
楽団はちょうど新しい曲へ移るところだった。
広間の中央へと躍り出る。
「な、何を!?話はまだ——」
「先ほどは見事でした。元令嬢の矜持、しかと拝見しましたよ」
囁きは穏やかだが、腕の力は逃がさない。
「話は踊りながらでも出来ます。夜会とは、そういう場でしょう?」
くるりと回される。
ルチアは体勢を立て直し、鋭く睨んだ。
「誤魔化さないでください」
「誤魔化してはいないさ」
穏やかな顔のまま、腕は正確に導く。
「さっきの話は何です。始まりの泉?そんなもの、聞いていません」
「お前に伝える必要がなかっただけだよ」
「そんな……ぁ!」
足が一瞬乱れたが、すぐに立て直す。
強引なようでいて、身を委ねさえすれば足の運びも軽い。それが心地よくて少し怖い。周囲の貴族たちは優雅な旋回しか見ていない。
ルチアの指先がわずかに強張った。
「……枢機卿は、無茶苦茶です」
顔を真っ赤にさせて、キッと睨んだ。
「教義をまるで無視してる。二人を近づけておいて、今度はセリウスの力を奪おうとしている」
彼女は思い出していた。
力が失われつつあると伝えた日、白い悪魔と皮肉を言った後の、安堵と絶望の入り混じったセリウスの顔を。
「力がなくなれば、あれは自分を——」
「生きる価値がないと、思うだろうね」
フェリットが淡々と引き取る。
ルチアの息が詰まる。
旋回。
「彼は神の力を疎んでいる。だが失えば、自分が空になると恐れてもいる。……可哀想に」
「……だからと、奪うんですか?」
「人聞きが悪い。ただ還す選択肢があると示したまでだ」
視線が落ちる。
「力は本来、個人が背負うには過ぎる。還す手段があるなら、荷をおろしてやるのも同じ者としての定めであろう」
「……邪魔だからですか?」
「だったら、何なのだ」
迷いのない声に、ルチアの瞳が揺れた。
「信仰は民の為にある。使徒としての自身に迷う者を、いつまでも舞台に立たせては置けまい。
それに、私は——生きたいと望まぬ者を、無理に引き留めるつもりもない」
「……!」
「幻滅したかい?私が聖人君子ではなくて」
ルチアは唇を噛む。
そうだ。信じたかった。
この人のすることは正しいのだと。
音楽が高まる。
「ルチアも知っているだろう。今のヴァルセニアの異常さを。奇跡を示さねば信仰が保てぬあの歪みを。あれではどの道、彼は信仰に殺される」
そこでようやく、ルチアは理解した。
ベアラー自身に、その生き方を決めさせたいのだと。
「こんなものがなくても、信仰は残せる。
今こそ——正す必要がある」
最後の旋回。
曲が止む。
「彼が力を還し、生きると選ぶならそれでよし。選ばぬなら、それもまた意思」
一礼し、再び静かな目がルチアを捉えた。
「お前だったら、どちらを望む?」
ルチアの胸が大きく上下する。
望みなど、口に出来るはずがなかった。




