Özlem
リチャード・ソレイヴァンは意外にも気さくで好意的な人間だった。
自国で御子にまつわる噂を耳にしていないはずはないが、一言もそんな話をする事はなかった。セリウスが医官として、あるいは北方政策の基盤を作った一臣下としての話を聞きたがり、そのうち同じく使節団として派遣された若い技工士やトルキアの小侯爵が集まった。
皆が皆、自身の志す処を熱く語るので、セリウスは少し気圧された。まるで生きている時代が違う人達の中に自分だけが紛れ込んだような気さえして、話題が俄かに商売がらみのそれになると、セリウスはそっと輪を離れた。
壁に凭れ、息を吐く。
気疲れはする。けれど、不思議とここではセリウスの見た目に冷ややかな視線を向ける者も、あからさまに避ける者もいなかった。
市街でも浅黒い肌や黄色の肌の人々を見かけたが、貿易も盛んなこの国の人間にとっては、異邦人なのだから違って当たり前という程度の感覚なのだろうか。
タリクの言っていた事は、ただの慰めでも気休めでもない事実だったのだ。漸くそう認めれば——そんな彼を「綺麗事ばかり」と取り合わなかった自分の器量の狭さを思い知らされる。
いつも俯いて、狭い視野でしか見ていなかったから。
「捕まえた〜」
陽気な声と共に、両肩に温かな重みが乗る。
文字通り捕まえられたセリウスは、困ったように短く息を漏らして振り返った。
「……殿下」
タリクは微笑んでいた。
(だけど、なんだか——)
元々、他人との距離が近い人なのだろうとは理解している。
だが、以前からこんな風な笑い方だったろうか。
敷居を軽やかに越えてくる王子らしい図々しさとは違う気配。再会してからこっち——どうもその手が、視線が、妙に近く感じるのは、気の所為だろうか。
「体調はどう?僕は心配していたっていうのに、さっきだって……酷いじゃないか」
タリクはわざとらしく唇を尖らせた。
「……申し訳ございません。あの状況で、殿下を利用するような真似を。ですが助かりました」
「良いんだけどさ」
「体調も、少し休んで落ち着きました。殿下には助けられてばかりですね」
セリウスは当たり障りなく応対し、笑ってみせる。
「そう思うなら、近くに居なよ」
そう言うなり、タリクは今度こそセリウスの手首を掴むと自分の方へ引き寄せた。
殆ど爪先がぶつかるほどの距離だった。
「……殿下?」
思わず瞬き、彼を見上げる。
「やっぱり。セリウス、ヴァルセニアで会った時より、また少し痩せたみたい」
タリクの口ぶりは心配そのものだった。だが、その親指がセリウスの手首の内側をするりと撫でるので、セリウスは反射的に手を引っ込め掛けた。
だが。それは叶わない。
「僕とも一緒にいてよ」
掴まれた手首が更に締め付けられると、重暗い記憶が僅かに脳裏を掠めた。
タリクは違う。そうではない。
そうではないのに——背筋が強張る。
「……殿下?……その、少し近いです」
「だめだよ、こうしてないと君は逃げてしまうでしょ」
一体、どうしたというのだ。タリクの行動の意図がわからない。自分をこの国に呼んだのも、ただこの国の景色を見せたかった以上の意味がある様に思えてならない。
「それとも今日はずっと意中の人と一緒だから、僕は要らない?」
「……」
セリウスは一瞬だけ目を伏せ、それからいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ルチア殿ですか?違いますよ。殿下もお話になってご承知でしょうに」
そう言ってはぐらかしてみても、タリクはこの話を止める気がないらしい。
「……そんなの分かってるさ」
「タリク殿下——」
「セリウス。君が誰を見てるかくらい、僕はもう知っているよ」
短く、息を飲む。
周囲には音楽が流れ、談笑する声も止むことはない。
それなのに、まるで自分たちだけがその場から切り取られ、停止したようにセリウスには感じられた。
——なぜ今日は、こうも線を越えてくるのだろう。
実を言えば——タリクの妙な態度より、自身の心が向かう先を彼に悟られていることの方に、セリウスは動揺していた。
ここはヴァルセニアではない。
自分があの人を想うことに対して、今や自国の人間なら眉を顰めはしても国政がどうだのとは言わないだろうが、トルキアでは分からない。
そしてタリクはベアラーである自分を所望している。彼の意向が今回の使節団訪問に反映されているのだから、少なくとも国としても容認されたという事だ。
であれば、下手なことを言って火の粉をあの人に飛ばすことは避けねばならない。
「殿下……」
タリクが手首を一層強く掴んだ。
それだけで、身体は容易く恐怖を呼び覚まされてしまう。
「皆が見ています。……それに、殿下がお考えのようなことは……」
息も、肩も、震え始めていた。それでも、セリウスは耐えるように敢えてタリクを見据えた。
「どうか……こういうやり方はおやめください」
「……あ」
タリクがハッとして、すぐさま掴んでいた手首を解いた。
「………殿下のご厚意は、ありがたく思っています」
「セリウス、ごめん、違——」
「こら。困っているじゃないか」
タリクの肩越し現れたのは、涼しい顔をした彼の兄——サファクだった。
*
「夜会で口説くにしては、ちょっと距離が近すぎる」
割って入ってきた兄は冗談混じりにそう言った。
周囲に聞こえぬよう声は抑えられているが、目は笑っていない。
それからサファクはセリウスに向き直り「弟が無作法で申し訳ない」と小さく頭を下げた。
「いえ…….!決してそのようなことは」
セリウスは呆気に取られていたが、すぐに背筋を伸ばし、即座に一礼する。
その仕草が本当に何もなかったのだと言わんばかりで、タリクは少し悔しいような、それでいて恥ずかしいような居心地の悪さを感じていた。
それは——セリウスにとって自分は何でもない人間なのだろうという落胆よりも、セリウスを傷つけたことさえ、彼自身に隠させてしまったという不甲斐なさに近い。
「……そうですか。私には弟が無礼を働いたように見えたのだが気のせいだったか」
嫌味な言い方をする。タリクはサファクを睨みつけたが、セリウスが見ていないのを良いことに、兄は小さく舌を出して挑発してくるのだから憎たらしい。
「頭を上げて。先程ちょうどアルヴェル殿下とも貴殿たちベアラーの話を伺っていたところなんだ」
——ああ、だからか。
サファクの少し後ろにアルヴェルの姿が見えた。つまり、余裕のない自分の姿を兄だけでなくこの男も見ていたのだろう。
きっと——滑稽で、幼稚に見えていたに違いない。
「……アルヴェル殿下が」
静々と顔を上げたセリウスの口から初めてあの男の名が出ると、タリクの胸に暗い靄が広がった。
「ええ。勤勉な方ですね。祖国の始まりであるあなた方ベアラー達のルーツを改めて知りたいのだと、到着早々市街よりも資料庫に直行したんだから」
サファクは笑って「ねえ、殿下」と振り返った。
すると、漸くアルヴェルが数歩近付いて口を開く。
「……お陰様で、国では堅物呼ばわりで令嬢方にもそっぽを向かれてしまいましたがね」
「ははは、可哀想に」
王弟アルヴェルは、堂々として見えた。
セリウスだけに見せていたあの私的な笑みなど想像もつかない程、克己的だ。同じ王族でありながら簡単に感情に流される自分とは大違い。
(初めから敵う相手じゃないことは分かっていたけどさ)
ちら、とセリウスを伺うと、丁度彼もこちらを向き、視線がかち合った。
セリウスは、小さく笑って見せる。「気にしないで下さい」と声に出さず、言った。もう震えてはいない様だった。
「明日は高炉の視察でしたね」
「ええ。昼は縮絨工房を拝見させていただく予定です」
気付けばアルヴェルとサファクが明日の段取りについて話し始めていた。
「——でしたら明日、こちらから改めて、セリウスや他の御子もご紹介させてください」
「それもそうですね。御子殿もお疲れの様だし、明日またゆっくりと話そう」
「ありがとう存じます」
サファクによって解放されたセリウスの背中をタリクはこっそりと目で追っていたが、遂にその白い影は人波に飲まれてしまった。
王弟もまた、タリクともひとこと二言愛想良く言葉を交わしたあとこの場を離れた。
すぐにまた別の者に捕まり応対に勤しんでいるアルヴェルの様子を眺めながら、
「怖がらせちゃった」
とタリクが呟くと、それまで隣で同じく王弟の背中を笑顔で見送っていた兄が忽ちげんなりした顔つきになる。
「馬鹿め。これだから青二歳は」
軽蔑と、ついでに深く重いため息まで添えて。
**
夜会の音楽はまだ続いている。
笑い声と、グラスの触れ合う澄んだ音がしていた。
アルヴェルはゆったりとした足取りで回廊に出た。逃げ足の早い恋人は、さて、どこまで行ったのか。
視線を巡らせると、そう遠くない柱の影にその姿があった。まるで来ると分かっていたかのように、彼はこちらを見ている。
「……意外だな」
思わず零れた声に、セリウスはわずかに首を傾げる。
「お伝えしておくべきかと思いまして」
声音は穏やかだ。だが、どこか朧げな気配を纏っている。先ほど力を還したばかりであるのに、と不安が過ったが、それを今口にするのは興を削ぐ気がしてやめた。
「何を?」
「本当に……タリク殿下は何も悪くないですよ」
怯えていたくせに、また先んじて言い訳をするセリウスが可笑しくて、アルヴェルは笑った。
「まだ何も言っていないだろうに」
改めて見れば、壁にもたれた姿はあまりにも無防備だった。
「……だが、その顔はいただけないな」
一歩距離を詰め、セリウスの持つグラスに手を掛け、そのまま静かに奪った。
「どの様な?」
見上げる瞳に、恐怖の影はもうない。それにまず安堵して、アルヴェルは一度だけ周囲を確認すると、セリウスを柱の影へ寄せ、ほんのひと時——顔を近付けた。
「もう疲れただろう?」
「……そうかもしれませんね」
珍しく拒みもしない。それどころか素直に認めるのだから、困ってしまう。
「もう休め。その方が俺の気も休まる」
こんな状態でこれ以上留まらせたくはない。欲を言えば、今すぐにでも一緒に部屋へ閉じこもってしまいたかったが。
「……では、お言葉に甘えて」
人の気も知らず、セリウスは笑った。
回廊の途中、彼はふと足を止め、「そうだ」と思い出したように呟いた。
「……?」
「殿下……あの部屋にあった書物は」
「ああ……サファク殿下の言った通りのものだ」
表向きはベアラーのためだ。だが、私的な理由で資料を漁っていることくらい、セリウスが気づかないはずもない。
「……すみません。ありがとう存じます」
ぽそりと言って、セリウスは笑った。
回廊を抜けるまでアルヴェルは見守っていたが、セリウスの頼りない足取りが、いつまでも胸に残った。
「殿下、そろそろご挨拶が」
後方でノエルドが呼んでいる。
戻らなければ。
「……ああ、今行く」
アルヴェルは一度だけ、回廊を振り返った。
セリウスの姿はもう見えなくなっていた。
*
『悪魔憑きめ。どうやって王宮に入り込んだのだ』
『モルフォンド家を誑かしたんだろうさ。何せあの大水で王宮御子が亡くなったのだ。その上、妃も容態が危ういだろう?侯爵も親として王子たちの外戚として陛下のお心を繋いでおく必要があるだろうからな』
——違う……。
『王弟殿下がすっかりあれにご執心だそうだ。まったく……まだ若いとはいえ、あれでは王族の品格を落しかねないよ』
『だが、異形だと皆目を背けるが、見てごらんよ。あれは妙な気になるってもんだ』
——違う。
『前妃も、父王も——あの御子は初めから救う気などなかったのだろう。そうでなければ今頃、役目を終えてとっくに御子は入れ替わっていたであろうに』
『現陛下も王弟もあれには甘すぎる。御子にしてみれば、良い後ろ盾が出来たってところだろうな。さすが悪魔だ』
『いつまで王族に寄生するつもりなんだか』
「——は……っ!」
目が醒めると、辺りは既に明るかった。
セリウスは額の汗を拭うと、ほっと息を吐く。
嫌な夢を見た。といっても、脚色も誇張もない、ただ現実の延長を再生したようなものだったが。
きっと、昨晩余計なことに考えを巡らせた所為だろう。そう納得して、目頭を揉むとゆっくりと起き上がった。
昨晩、アルヴェルと別れて部屋へ戻るまでは平気だった。アルヴェルへの想いに少しだけ正直になって、浮かれていたのかも知れない。
でも、それがいけなかった。
——浅ましい。
静まり返った部屋に戻ると、忽ちに脳内が騒ぎ出す。長い夜の始まりだった。
いつからだろう、もう覚えてはいない。ニコルの事件は決定的だったけれど、眠れなくなったのは力が不安定になってからのような気もするし、市井で騒ぎを起こしてからのような気もする。
詰ったり嘲笑ったりする声は、胸を切り刻む痛みも伴うが、同時に——身の程知らずの願望を持ち続ける不安から解放してくれもした。
後々苦しむことになる願いなど、初めから持たぬ方がいい、と、一つひとつ諦めてゆくと、漸く眠りに就けた。
けれど、昨日は違った。
自責とは違う、答えの出ぬ問いばかりが浮かんでは散らばった。
自分さえも諦めた生を、あの人が繋ぎ止めるばかりに——何度も何度も、誰かが問い続けた。
お前は何を願うのか——と。
アルヴェルは既に朝食に出向いているだろうか。
ブラウスの釦を留めながら、彼の部屋との隔たりにある書斎へと足を踏み入れた。
開きっぱなしの資料を見る限り、直前まで読み漁っていたのだろう。
(忙しい身だろうに……)
アルヴェルの厚意はありがたい。自分の懸念するところを彼はきっと察していて、守り人に頼らずにすむ手掛かりを探してくれている。それが、だが同時に負い目にも感じるのだ。
アルヴェルには悪いが、そうまでして生きながらえたいとはどうしても思えなかったからだ。
いつか穏やかに泉が枯れたとして、そこに残る異形の自分を受け入れる事が出来そうにない。
こんな事を言えば、きっとひどく落胆させてしまうだろう。もしかしたら怒るかも知れない。
それでもできる事なら、いまこのときだけでも幸せだったと噛み締めて消えていきたかった。
「——セリウス?」
突然肩を叩かれ、セリウスは息を飲んで振り向いた。いつの間に入ってきたのか、すぐ後ろにノエルドが立っていた。
「ああ……驚いた。いつの間に」
「何度かノックしたんだが、聞こえなかったかい?」
ノック……?
「……そうでしたか。ぼうっとしていたのかも。すみません」
「朝餉、いらないのかい?」
「……ああ」
僅かな違和感を探るように、セリウスはさり気なく後れ髪をそっと耳に掛けた。
「今朝は食べる気がしなくて。……少し、飲み過ぎたのかもしれません」
そう素直に答えると、ノエルドは案の定呆れた顔をして見せる。
「無理して食べろとは言わないが、何か軽く腹に入れておいた方がいい。今日も暑そうだ。何か持って来ようか」
この男も大概世話焼きだ。
何も喉を通る気はしないが、こんなところにまで来て心配は掛けられまい。
「いえいえ、それなら自分で行きます」
肩を竦めて笑えば、
「なら外で待っているから、髪を整えておいで」
ノエルドもそう言って笑った。




