Perspektif
大広間は、ヴァルセニアとはまるで趣が異なった。
高く持ち上げられた円天井には、星を散らしたような金の細工。壁面を埋め尽くすのは、赤や碧、深い群青を織り込んだ幾何学と蔓草の文様。規則正しいはずなのに、どこか眩暈を誘うような精緻さだった。
燭台の火は丸い色硝子を通して揺れ、床の大理石に淡い緑や琥珀色の影を落とす。
足元には分厚い絨毯が敷かれ、踏みしめる足音が吸い込まれていくように感じられた。
香が焚かれている。それも樹脂のような、乾いた土の奥に眠る熱のような匂いだ。嗅ぎ慣れた花の香りとも香草の香りとも違う。鼻腔の奥をくすぐり、知らぬ土地へと来たのだと改めて実感する。
「……へえ」
思わず感嘆をもらすセリウスの少し前で、アルヴェルは、視線のみで周囲を測っていた。
装飾の豪奢さに目を奪われず、出入口、階段の位置、衛兵の配置を素早く把握している。
「色彩で圧倒されるな」
「目が慣れませんね」
「ああ。慣れた頃には懐に入られていそうだ」
今宵の彼は群青色の正装だった。ウエストコートの刺繍が灯りを拾い、静かに光る。昔はもっと派手な色を好んでいたはずだが、アルヴェルに訊くと「あれは下手に近付くと危険だと思わせるためのハッタリだった」と、苦笑していた。
一方のセリウスは、アルヴェルよりも一段照度を落とした濃紺を纏っている。
持参したもの殆ど同じ色だが、北部で生産された上等な絹で作られた上衣は、その光沢感が実際の色味よりも明るく柔らかな雰囲気を醸した。胸元の控えめな銀の留め具にはモルフォンド家の家紋が施されていたが、これもアルヴェルが設えさせたのだと思うと、頭が上がらない。
「おや……お揃いですね」
少し遅れて入って来たフェリットが二人に声を掛けた。
「猊下……」
「いえいえ。私たちも今し方到着したばかりです」
なんだ、そっちの意味か……。
アルヴェルが穏やかに応じる後ろで、セリウスは胸を撫で下ろす。
「セリウス殿、具合はもう良いのですか?やはり、昨晩十分に還元されていなかった様ですね」
フェリットは初めから分かっていたとでも言うように、セリウスにだけ聞こえる声でそう言った。
それ以上は余計な詮索をすることはなかったが、瞳の奥には、ほんの少し意味ありげな光が宿っているように思えたのは、先ほどのひと時を思い出してしまった所為か。
そんなフェリットも、今宵は法衣ではなく青みがかったグレーの上衣を纏っている。
「見慣れませんよね。私も久しぶりに着ました」
セリウスの視線に気付いて、くすりと笑った。
後ろに控えていた堂役たちもいつもの白いシュールコーではなくそれぞれに似合いの衣装である。
「あれ、ルチア殿は……」
「ああ、少し恥ずかしい様でね」
フェリットの視線の先を追うと、すぐ後方の柱の陰で居心地悪そうに俯く女性がいる。
光沢感のある真珠色のブリオーを纏っている長身の女性はおそらくルチアに違いない。
強い眼差しも気恥ずかしさからか伏せられ、淡い色味の衣装のおかげで雰囲気も幾分か和らいで見えた。
「美しいでしょう?」
フェリットに同意を求められ、セリウスは一瞬戸惑いながらも「ええ、素敵ですね」と答えた。
「ドレスを一着も持っていないと言うんだ。本人は嫌そうだけど、さすがに男装で出させるのも上司としては気が引けまして。ノエルド殿には無理を言いました」
「ああ……そうなんですね」
先ほどのノエルドの刺々しさが腑に落ちる。
そっとアルヴェルを盗み見れば、同じことを思っていたのか彼も眉を上げ、おどけて見せた。
不意に、音調が変わった。
弦を弾く柔らかな旋律。太鼓の低い鼓動。
耳慣れぬ節回しが、広間全体を包んでいた。
王族の席に目を向けると、その中心に聖王が威厳を漂わせながら座している。脇には既に結婚した二人の王子たちがそれぞれ妃と子どもを伴い、微笑ましく歓談していた。子どもたちは無邪気に走り回り、場を和ませている。
一方、最年少の王子タリクは、セリウスを見つけるなり、顔を輝かせて立ちあがろうとし、第二王子に首根っこを掴まれていた。
それでも手を軽く振り、笑顔を弾ませる姿は、まるで子どものように純粋に見える。
「いつの間にあんなに懐かれたのです?」
フェリットがそっと囁き、微笑む。
「さぁ……私にも」
たしかにタリクがヴァルセニアに来国した際に話し相手にはなったが、彼が自分に向ける眼差しは、異国の人間の、それも神話の中の生き物であるセリウスが物珍しかっただけのようにも思えた。
いや、そうだろうか。
(なぜあの時……)
再会した瞬間、タリクははっきりと「僕のカムルセア」と呼んだ。
この国の女神の名をそう容易く口にするべきではないはずだ。まして自身の所有物の様に扱うだなんて。
トルキアでは女神信仰とベアラーが完全に分たれ、今やベアラーの力は神話として残るのみ。
文明の進んだトルキアにおいて、今更ベアラーに期待することなどあり得るのだろうか。
タリクは、トルキアの景色を見せたかったと言った。純粋な善意を述べたのと同じ口で、神と自分を並べる事にどうしても違和感を感じてしまう。
既にアルヴェルは聖王の元へと挨拶に向かってしまった。
生まれながらの王族としての責務と気品。その横顔はまるで別世界の人のようだ。
こういう席ではいつも、彼との間にある果てしない距離を再確認させられる。それももはや慣れたものだったが、今夜はどうにも駄々を捏ねたい気分になるのだから、そろそろ頭から悪魔の角が生え始めるのではないだろうか。
不意に袖をクイと引かれ、振り向けば、ルチアが、気まずそうに立っていた。
「すまないが、ここにいていいか?」
しおらしい問いに、セリウスはうっかり笑わないよう注意しながら応じた。
「構わないですけど……せっかくなら、楽しめばいいのに。教会はそれすらも許さないのですか?」
すると、ルチアはセリウスを忌々しそうに睨みつける。
「別に教会がどうというのではない。こういうのは好きじゃない。ただそれだけだ」
セリウスは船上でのルチアのぎこちない様子を思い出し、咄嗟に頭を下げた。
「気に障ったのなら、すみません」
それから、肩の力を抜くように微かに微笑みながら言った。
「では、気まずい者同士一緒にいましょうか。
こうして周りを見てみるだけでも——料理や音楽、それに衣装も、ヴァルセニアとは違うでしょう。そんなふうに楽しむことも出来る、と……そう言いたくて」
無理して交流する必要はない。それが分かったのか、ルチアは少しだけ視線を緩め、眉間の皺を解いた。
「王宮でも、こうやって壁に張り付いていたのか」
「どうだったかな。忘れました」
二人はしばらく立場も忘れ、遠巻きに夜会の喧騒を眺めていた。
(良くない視線だな……)
どこの国でも同じような人間はいる。
単純な好意を超えた、もっと低劣な感情を隠しもせずに向けてくる者。
「男嫌いは、ああいうのが居るからですかね」
そう言うと、ルチアは確認もせず小さくため息をついた。初めから見えていたようだった。
セリウスは一歩だけ前に出て、向き合う様な形を取る。
「……あなたは男が嫌いというより、女であることが嫌いなのかと思っていました」
庇うような態度も、その台詞も、ルチアを怒らせるだろうかと思ったが、意外にも彼女は「なぜそう思う?」と淡々と聞き返した。
持っていたグラスをくるりと回しながら、セリウスは少しだけ思案する。
「男嫌いという割に、男性らしく振る舞うので」
「……っは、確かに」
その指摘が予想外だったのかルチアは堪らず吹き出した。その砕けた笑顔は眩しく、いつもの彼女より数段魅力的だ。
「ドレスを着ているからって私にまで恐縮しないで下さい。調子が狂います。ルチア殿はルチア殿らしくしていてくれないと」
「……殿は余計だ」
ルチアは小さな声で吐き捨てた。
ずっと忌み嫌っていた、白い悪魔。でもそれがセリウスの全てではないと、今のルチアには分かっている。
どうにもならない境遇を、それでも生きようとしているのは自分と同じだった。
「では、ルチアさん」
「呼び捨てでいい」
「そういうのは、もう少し親しくなってからにしましょう」
「今日、むかつくな……お前」
曲調が変わり、舞踏が始まったようだった。
人垣が不意に割れ、その間を歩いてくる人物にルチアの方が先に気付いた。
「セリウス」
呼びかけるルチアの声に、セリウスが小首を傾げたのと殆ど同時に、その肩が軽く叩かれた。
「セリウス、踊ろう」
「は、い?」
思いもよらない誘いに、セリウスは酒を咽こんだ。
男同士のダンスなど、マナー違反も甚だしい。
何を企んでいるのか。セリウスは、振り向くこともできぬまま、正気か?と顔に出した。
「セリウス?」
周囲の注意がこちらに向きはじめ、そんな中、視界の端で警戒していた影が動くのが見えた。セリウスの気がルチアから逸れるのを待っていたのか。
セリウスは目の前のルチアに「ごめんね」と言って、タリクへと振り向くと、彼の差し出した手にルチアの手を引き合わせた。
「ひとつ思い出しました」
「えっ、ちょ……」
「害虫がうるさいときは、一番強そうなのと踊るといい。それが夜会での戦い方です」
タリクは一瞬驚きを見せたが、セリウスの意図がわかると「ヒュゥ」と口笛を吹き「セリウスのご用命とあれば」とにっこりと笑ってルチアをエスコートする。
やはり——ただ無邪気なだけの王子ではない。
頭が切れ、対応力に長けている。
この状況で彼を信じるより仕方なかったが、こうして他人に判断を委ねるのは、やはり苦手だ。
あの人なら、こういう不確実さを抱えたままでも、相手を信じて任せられるのだろうが。遠くにいるアルヴェルを盗み見て、セリウスはほっと息を吐いた。
ルチアを見送ったあと、セリウスに近寄る人物がいた。
拍手を数度。それから「そういう事も出来るんですね」と男は言った。
「これは……ソレイヴァン卿。良いんですか、トルキアに来てまで、わざわざ私に話しかけたりして」
セリウスが自分を認識していた事に、彼は一瞬驚いた顔をした。
「……姉の件ではどうもありがとうございました」
丁寧に礼を述べるリチャードの表情には、先ほどまでの軽い調子とは違う真摯さがあった。
それは公には伏せられた——王妃ソフィアの服毒の件を意味していた。
「いえ、私は医官としての仕事をしたまでで……」
わざわざこんな場所でする話ではない。
セリウスは、周りにその意味を悟られないよう言葉を濁した。
「姉から、あのときの話を聞いたんです」
だがリチャードはなおも続けようとする。
「口の中に管を突っ込まれて、あんなのは生まれて初めてだったと、心底おかしそうに笑っていましたよ」
何だ……?
セリウスは曖昧に微笑んだ。
「当時は、王宮御子として当然のことをなさったのだろうと思っていました。けれど、姉の話を聞いて……正直驚きました」
リチャードは、改めてセリウスを見た。
「それは……一刻を争う状況だったとはいえ、妃には大変無礼なことをしました」
改めて思い返すと随分危険なことをした。家族にしてみればいい迷惑だったろう。それに、失敗したら腹を括るのはエルネスト先生だったのだ。
今更そのことに気付いてしまい苦い顔になる。
「いえ!いえ!驚いたというのはそういう事ではなく。私が言いたかったのは、卿の柔軟な発想は医学の発展という大きな一歩だって事です」
そんな答えが返ってくるとは思わなかった。
なんて眩しいのだろう。
まるで、彼には未来が見えているようだった。
「たとえどんな手段であれ、あなたは命を救ったんだ。それも、これまでなら祈るしかなかった状況を"人の手"で。さっき、ご自身で仰ったではないですか。"医官として"と。
つまりそれは、再現可能な技術ですよ」
(困ったな……)
そんなつもりで言ったのではなかったのに。
セリウスは思わず苦笑した。
ソレイヴァン家は輸出入で莫大な富を築いた一族だが、リチャードはそれとは別に新しい事業を立ち上げたと話す。その愉しげな口ぶりから、父親の後を継いで政治家になる気は、どうやら無さそうだ。
「いま私が扱っているのは、そういった技術……そうだな、例えば——」
彼は思案げに指先でグラスの縁をなぞりながら続けた。
「新しい素材から新しい道具を生み出す仕事をしています。新たな資源と、それを加工してくれそうな職人を繋げています。木炭から石炭に変わった様に……卿が使った動物の腸だって、もっと使い易いものに変えられるかも知れないと思いませんか?」
「……それを、なぜ私に?」
「さっきも言ったけれど、本当に一度話してみたくて。あの北方政策も……最初は正直、偽善者の慈善事業だろうと思っていたんです」
そう言って、恥じるように眉を下げる。
「……だが違った。きちんと実益まで考えられている。医術において奇抜な発想をする一方で、手堅く持続性のある施策も考えられるだなんて。想像よりずっと面白い人だと思ったんだ。
私は長い事、あなたを見誤っていたんです」
値踏みではない視線が、まっすぐに向けられる。タリクとはまた違った、希望に満ちた眼差しの中に、一瞬——ヴァルセニアの未来が見えた気がした。
ベアラーはそこにいない。
あるのは人間の叡智だけ。
リチャードは当たり前の様に未来を口にする。
どこかでそれを羨ましいと思いながら、けれどやはり、それを想像するのはセリウスにとっては難しく思えた。




